
(No291-1の続きです)
5月3日 憲法記念日 昭和44年より開かれた「自主憲法制定国民会議」の主催、集会に学生を強制参加させる。現憲法はマッカーサー憲法として、国士舘ではこの日、否定する訓話がある。毎年、国民会議に参加した学生には、交通費と称されるものが、学生監から渡されたり、公欠と呼ばれる出席あつかいの休日が後日与えられる。又、一部学生には前述の靖国法案集会に参加した者同様、交通費以上の金額が手渡される。(中略)
5月27日 海軍記念日(開学記念日) 日露戦争で、日本海軍がロシア、バルチック艦隊を撃滅した記念日として式典が挙行される。(自民党代議士、財界人の講演があることもある。)
11月3日 明治節(明治天皇祭) 天長節と同様の式典が行われる。
11月4日 創立記念日 全学をあげて式典が挙行される。
国士舘大学では、このように他大学や、一般人の感覚では理解しがたい奇異な学校行事が公然と実施されている。学生は理由の如何を問わず行事参加を強要され、欠席者に対しては、反省文、始末書の提出が義務付けられている。(以前は停学、退学処分を原則としていた。)(中略)
<柴田舘長とはこんな教育者>
柴田舘長は学内における一切の政治活動を禁止するなどと公言し、クラブ、研究会等にも様々な制約、条件を加えながら、一方においては、柴田舘長自ら故日本大学会頭古田や佐藤栄作等を中心とした「日本会」なる右翼団体に所属している。個人的には全国勤労者同盟という狂信的な反共主義の立場をとる政治結社を結成し、会長として君臨しているのである。(中略』
この柴田学長は有名人だった。当時、白馬に跨って分列行進を閲兵したという話を聞いたことがある。
続けて国士舘大学の実情を見てみよう。
『<国士舘大学の実情リポート>
○大日本帝国はやはり国士舘に残存した
どれほど多くの人が国士舘の実情を知っているだろうか?少なくとも国士舘学生の圧倒的多数は実情を知らず、ただ一心に首都大学に、総合大学にひかれて入学してきたと思われる。在学生の95%が地方出身者であることがその証しとなるであろうが、東京都内の人ですら「恐い」「暴力右翼集団」などとはいうが詳しくは知らないという。これは国士舘大学が治外法権化したタコ部屋であり、舘長のカイライ分子(学生監、暴力右翼)の暴力により学生が固く口を閉じてしまったからに他ならない。国士舘学生はこの状態を「酷死棺」と名付けて自嘲するのである。(中略)
○国士舘の実践倫理全公開
必修科目「実践倫理」とは、他大学では見られぬ特異な内容の科目である。
国士舘大学が如何に一握りの経営者に牛耳られ私物化されているか、謂わば国士舘教育を凝縮したものが「実践倫理」なのである。舘長訓話、団体訓練、所感文、警備、式典、掃除、後輩善導、野球応援などを全部含めたものが「実践倫理」の構成要素となっている。
「訓話」 週1回、舘長、福舘長、田村幸策、高谷覚蔵のレギュラーと、招待講師、松川第五郎、石原慎太郎、山村政務次官(ハイジャック当時)等によって実施される。
「団訓」 週1回、学生監、舘長からの伝達事項と事務的連絡、式典の前には分列行進等の教練が行われる。
「警備」 年間を通じて1回から2回義務付けられ、5時間にわたる勤務時間中は交代で学内巡察、通用門歩哨、立哨を行うのである。国士舘では一人として守衛を雇用していない。
「式典」 前述の教練の式典において、全学生が杖(1.5メートルの棒で小銃の代わりとされる。)を持ち、舘長の前を分列行進をする。この杖の上部には全て日章旗がつけられている。その状態は太平洋戦争時の学徒出陣を想起させる。
「掃除」 学内の全ての掃除は学生が行い、争友組なる班制度がこのために作られている。
「感想文(所感文)」 所感文は学校行事、柴田氏の著書などに対して提出を要請される。大学の諸行事、柴田舘長の著書「革命は如何にして起こるか」「日本はこうすれば立直る」に対して、多少なりとも批判めいたことを書くと、担当学生監に呼ばれ説教(洗脳)がなされ、何回でも書き直すことを求められる。そして舘長の思想、教育方針に合致したものが、舘長柴田氏に届けられる仕組みになっている。(優秀?な所感文は、国士舘大学新聞に全文発表される。)(中略)
≪参考≫入学、終始業式等の式次第でみていただこう。
(例 入学式)
1 開会の辞
1 舘長入場(軍艦マーチが奏でられる)
1 国歌斉唱
1 教育勅語の奉読
1 舘長の祝辞
1 父兄の舘長祝辞に対する感謝の辞
1 聖寿万歳
1 国士舘大学園万歳
1 新入生万歳
1 在校生万歳
1 舘歌斉唱
1 閉会の辞
1 舘長降壇(軍艦マーチが演奏される。)終了
これは決して戦前の学校行事風景ではないのである。1970年代の日本の、それも東京のどまん中で平然と行われているのだから驚嘆するではないか。
(No291-3に続く)
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