
(No297-1の続きです)
(写真はウシトラ旅団ブログより転載)
富岡町には夜ノ森という桜の並木で有名なところがあります。町民が心の支えにし、故郷の象徴として語る夜ノ森は、事故を起こした大熊の第一原発と富岡町にある第二原発までの距離がほぼ同じくらいで、そういう意味で言うとすぐ原発事故の現場の近くなんです。
とにかく全員が退避して、9月に新しい泉玉露に入ってきた時には、皆さん、避難所から避難所へ移って行ったり、半年くらいアパートに行ったり、ということを繰り返して、くじ引きでやってこられたということです。
それまで富岡町で一緒に働いていたとか、同じ地区に住んでいたとかいう人たちは非常に少ない。
会長さんに話を聞くと、顔見知りが3人いただけだという言い方をしていました。人口が一万六千人ですから、そのうちの四五百人がこの仮設にやって来るというのはそういう状況になるのです。1回シャッフルされて、今まで一緒に助け合ってきて何かをやってきた人たちが、一切その関係を壊されたところで、もう1回寄せ集められているという状態なんです。
けれども富岡町は双葉郡の中では結構大きな町です。一万六千人というのは、ある意味で言うと双葉郡の都会です。かって群役所があったと聞きましたが、お店やら病院やら行政関係の代理の仕事をする機関などがちゃんとあって、例えば楢葉の人たちなどは「帰れ帰れと言われても、物が買えたり役所の仕事ができるというところがないところに行けなんて言うのはお笑い草だ」という言い方をしたりします。富岡町はそういう役割を持っていたところということです。
それは富岡町の人たちの意識にも反映していて、割に明るいと言うか、話に聞く大熊なんかとは違った印象があります。もちろん双葉郡の気質は同じようにあるのですが、大熊町の親父はマッチョな感じだし、女性も感覚は田舎のおばさんというのとちょっと違う。よく出てきて話をされている木幡ますみさんなどの話を聞いていると分かると思いますが、大熊町のガチッガチッとした感じと印象が違う。富岡町の人たちは割にソフトで気安い感じがする人たちが多い。その人たちが集まって来ているので、泉玉露の仮設は雰囲気として明るいんじゃないかなという気がします。
<仮設住宅での活動>
私たちは、大したことが出来る訳もなくて、ボランティアといっても、泉玉露仮設に行くまで、整体の先生を避難所に送ったり、仮設に入れたり、雇用促進住宅に入ってもらったり、その整体の先生と一緒に現場に行って、そこで治療を待つ間にお話をしてもらうようなことをやっていました。そのままの形をもって泉玉露に入りました。
有難かったことに、私たちが入り始める2ケ月前くらいから、テモテというキリスト教の小名浜の教会のボランティアの人たちが、とにかく机を並べてお茶だけを出して「皆さん来てください」というようなことをやっていまして、愚痴も含めていろんなお話が出来るようなことが集会場でやられていた。私たちは そこに入って行ったんですね。
ある意味、やりやすかったというか、そこからすぐ、年末に餅つきをやろうとういう提案をしました。そうしたら、「どうしようか考えているんだ」みたいなことがありまして、年が明けた1月初めに餅つきをやることになりました。できたばかりの自治会が、テモテの人たちと私たちが中心となって準備して、自分たちの手で餅つきをやることになりました。
この餅つきをやりきったことで、ある程度私たちに対する信頼感というか、出来るんだという話は見えたというところがありました。何が一番いいのかということは、仮設に住んでいる人たちが自分たちで自治会を作って、自分たちの手でやろうと思ったことが良かったのです。私たちみたいな者が持ち込みで「こんなイベントをやりますから来 てください」ではなくて、そこで一緒にやれたということが良かったんだろうなと思います。
(No297-3に続く)
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