
(文書が長くブログの字数制限を越えるため、No297-1からNo297-4に分けて掲載します。)
今年の4月の「明大土曜会」で、「大震災義援!ウシトラ旅団」の2年間の活動について、旅団長のH氏からお話を伺った。
ウシトラ旅団とは、東京から見て丑寅の方角、東北に支援の旅に出るという意味とのことである。現在は、福島県いわき市の泉玉露の仮設住宅を中心に活動を行っている。
明大土曜会では、福島原発事故被災者の支援として、子どもたちの週末保養の活動を始めたが、支援活動の実績のあるウシトラ旅団との連携を図ることを目的として、今回、旅団長に来ていただいた。
今週と来週の2回に分けて、そのお話の内容を掲載する。
(写真はウシトラ旅団の幟旗)
Y・R『ウシトラ旅団の団長さんがお見えなので、お話を伺いたいと思います。』
H『お招きいただきましてありがとうございました。ウシトラ旅団の旅団長をやっていますHと申します。
<ウシトラ旅団前史>
(ウシトラ旅団の)前史の頃からということなので、簡単に触れます。震災直後に私は被災地の友人に荷物を送ったりしていました。それともう一人、いわきの友人に食料やら水やら子どもの絵本やらを届けていた友人がいて、その人とたまたま「どうしてるんだ」という話になり、「お互いそんなことをやっているんなら一緒にやるか」と、二人で活動を始めました。
私が最初にいわきに入ったのは(2011年)4月の3日でした。いわきの小名浜からずっと北上してみたんですけれど、海岸べりは本当にひどいやられようでした。
かって鳴き砂で有名だった美しい浜辺だったんですが、そこが海岸線が迫って砂浜が小さくなり、家屋が全てなくなっているとか、二階家が下の方を抜かれているとか、ボロボロになっているという状況でした。
そのようなことがあって、その1週間後に、仕事仲間や飲み仲間に声をかけて「ちょっとボランティアをやらないか」ということでウシトラ旅団が誕生したのです。
(ウシトラ旅団は)実際は10人くらいの人間がチョコチョコと動いている程度のものです。あとはメーリングリストで50人くらいと繋がっているというような体制です。
<泉玉露の仮設住宅に入る>
今、主要な活動の場は、富岡町からいわきに避難して来ておられる方たちの仮設住宅です。いわき駅から3つくらい手前にある常磐線の泉駅のすぐ近くにある泉玉露応急仮設住宅です。そこに四百人から五百人くらいで住んでおられる。ここは2011年の9月に仮設が出来て、11月くらいまでに人々が入り、私たちが行った時にはそこがいっぱいになり、自分たちの自治会を作ったばかりでした。
いわきにある富岡町民の仮設では一番大きな仮設になります。富岡町民はいわき市に五千人いると言われています。だから10分の1くらいなんですが、逆に言うと仮設住宅に入っている人たちというのは、それだけ少ないということです。あとは民間の借り上げ住宅、みなし仮設という風に呼ばれますけれども、そこにいらっしゃる方々、それからいわき市がそれまで持っていた雇用促進住宅、つまり失業してこれから職業に就きたいという人が入っている安いアパートみたいなものです。そこはかなり立派な3階建ての鉄筋コンクリートの建物ですが、そういうところに入っている。
仮設は割に被災者の姿が見えるんですけれども、みなし仮設にいらっしゃるという方たちの実際の姿が、私たちボランティアにはなかなか見えてこないという状況です。
それを何とかしなくてはと思って入っているボランティアの人たちがいるんですが、そういう人に支援する軸になっている社会福祉協議会はガードが固くて、どこに住んでいるか明らかにしないとか、どういう状況を抱えているか明らかにしないとか、個人情報という言い方をするんですけれども、なかなか支援者が入るのに困っているという状況が未だに続いていると聞いています。
私たちが行っているのは仮設住宅ですから、住民の姿が割に見えやすくて、しかも泉玉露の仮設の人たちは意識が明るいんです。それは富岡町の性格にもよると思います。外との関係も、前から住んでいる周辺の人々との関係も割と良好に進んでいるという感じです。
富岡町は第二原発が立地していたところです。第二原発は、富岡と楢葉にまたがってあります。そこから20劼らい北に上がったところに、事故を起こした第一原発があります。第一原発は大熊町と双葉町にまたがっている。大熊にあった4つの原発が次々にメルトダウン・メルトスルーしたり、危機に瀕したりして今の惨状になった。
(No297-2に続く)
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