
今年の8月22日、藤圭子が新宿のマンションから転落死した。
享年62歳。
合掌。
藤圭子は1969年9月「新宿の女」でデビュー。1970年に「圭子の夢は夜開く」がヒットし、彼女の歌声が夜の街角に流れていた。
赤く咲くのは けしの花
白く咲くのは 百合の花
どう咲きゃいいのさ この私
夢は夜ひらく
十五 十六 十七 と
私の人生暗かった
過去はどんなに暗くとも
夢は夜ひらく
(中略)
前を見るよな 柄じゃない
うしろ向くよな 柄じゃない
よそ見してたら 泣きを見た
夢は夜ひらく
一から十まで 馬鹿でした
馬鹿にゃ未練はないけれど
忘れられない 奴ばかり
夢は夜ひらく 夢は夜ひらく
藤圭子については、このブログのNo20で「新宿アルバイト生活」と言うタイトルで以下のような文章を掲載している。
『1970年といえば、思い浮かぶのは「藤圭子」。
彼女の歌には新宿の匂いがする。
1969年のデビュー曲が「新宿の女」なので当然かもしれないが、「圭子の夢は夜ひらく」など他の彼女の歌を聴いても夜の新宿の街の様子が目に浮かぶ。
あのちょっとかすれたハスキーボイスとルックス、暗さや怨念を感じさせる歌いっぷり・・・。
私は部屋に藤圭子の顔のドアップで、片目から涙を流している大きなポスターを貼っていた。某自動車メーカーが宣伝用に作成したキャンペーンポスターであるが、アルバイト先のキャンペーン下請け会社で手に入れた。夜、寝る時、丁度このポスターが見えるような位置に貼って眺めていた。』
キャンペーンポスターは今はもう私の手元にはない。
数年前、私のブログを見てくれた友人のK君の自宅で、ポスターの写真を撮らせてもらうことができた。(写真)
当時、K君も同じアルバイト先で一緒に働いていたので、彼も自宅にこのポスターを保管していたのである。
アルバイト先での作業は、ガソリンスタンド向けの新車キャンペーンで、このポスターの何倍もある布製(?)のキャンペーン掲示物(ポスターと同じデザイン)のキットを、ガソリンスタンドに配送するための梱包作業だったように記憶している。
ポスターは、このキャンペーン・キットに入れるものだった。
藤圭子の訃報を聞いて、真っ先に思い出したのはこのポスターである。某掲示板には、8月22日にこのポスターの写真を掲載した。
このポスターの写真を撮ったのは立木三朗氏。立木義浩氏の弟である。ポスターのデザインも凝っていて、ポスターのタイトルが右端に付いているが、「藤圭子 怨歌」。左端には「涙暦」と書いてあり、ポスターの縁には、拾月から拾弐月までの暦(1970年)が書き込まれている。そして、暦の日付のところに「壱・・・から」「拾・・・まで馬鹿でした」と、歌の歌詞がちりばめられている。
ポスターの左下には、「命あずけます」の歌詞が書かれている。
流れ流れて 東京は
夜の新宿 花園で
やっと開いた 花ひとつ
こんな女で よかったら
命あずけます
私にとって藤圭子は、このポスターである。
ブログNo20には「藤圭子の歌には新宿の匂いがする」とも書いた。
1969年と70年、私のアルバイト先は新宿であった。伊勢丹裏の中華料理店のウエイター、新宿警察署の前にあった「秀新」(日大経闘委K氏の店)での皿洗い、そして歌舞伎町でのチラシ配り・・・。私が目にした新宿の街の風景は、藤圭子の歌の世界であった。
ポスターを持っているK氏は、1971年当時、歌舞伎町の「新宿アートビレッジ」というアングラ劇場で照明を仕事をしていた。
私に代わってK氏に当時の新宿の街の風景について語ってもらおう。
K『71年か72年だと思うんだけど、あのころは新宿自体が面白かった。全体が異常な世界だった。70年が終わっても新宿自体が妖しい世界だった。危険なところもあって、コマの裏の交番の前で、見物人がいっぱいいて、ヤクザがボコボコ蹴っていて、血まみれのサラリーマンが土下座して謝っているのに、交番のお巡りが「あんた、もっと誤った方がいいよ」と言っているだけ。変な世界だったよ。
夕方、ホストみたいな洒落たハンサムな結構でかい奴が、背の低いヤクザの幹部みたいな角刈りのおっさんにボコボコニ殴られてひたすら謝っている、というような情景が当たり前にあった。
全裸で山高帽を被って、ステッキを持って、カバンを持ったおっさんがアベック喫茶に入って行ったり・・。本当に新宿ってハチャメチャだったよね。街全体が無礼講みたいな。』
カルチャー(文化)と政治が一緒になって動いていた時代、『ごった煮』みたいな時代、新宿の街の風景はまさにそれだった。
こんな風景も、70年代前半からカルチャーが次第に体制に取り込まれいった状況に合わせるかのように変わってしまった。
新宿の街の「風景」は変わったが、私の「記憶」は変わらない。
藤圭子は亡くなったが、彼女の歌は新宿の街の「記憶」とともに私の中で生き続けて行く。
(終)
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