
(文書が長くブログの字数制限を越えるため、No311-1とNo311-2に分けて掲載します。)
9月上旬、「日大930の会」から2013年の会合の案内が届いた。
案内によると、『「銀ヘル」よ永遠に2013』+『日大930の会・同窓会』のご案内とある。
今年は第一部と第二部の構成で、一部は「銀ヘル」(日大全共闘文理学部闘争委員会)同窓会)で二部が通常の活動報告と懇親会となっている。
参加はするけれども、日大ではなく明大生なので、第一部への参加は遠慮する旨、JUNさんにメールした。JUNさんからは『面白い話が聞けるので、時間があれば是非第一部から参加することをお勧めします。』との返信があった。
第一部から参加すると午後1時から午後7時まで6時間近くの長丁場になるが、面白い話が聞けるのならばと思い、第一部から参加することにした。
当日、会場の受付で会費を払いロビーを見渡すと、文理学部の皆さんがいる。O氏から「第二部からでよかったのに」と言われたので、「面白い話が聞けるということだったので・・・」と答えて会場の中に入る。
第一部の『「銀ヘル」よ永遠に2013』が始まった。司会は、さきほどのO氏。文理学部の皆さんが20名ほど、ロの字型のテーブルを囲んで座っている。
この文闘委同窓会開催の趣旨が「忘れざる日々Vo4」に掲載されている。
『この間、学科・サークル単位での「同窓会」は開催されておりますが、ふしぎなことに、なぜか文闘委全体の集いはありませんでした。
この数年、急速に進展している68/69日大闘争の検証を続けるにあたって、系統的に資料が揃い、かつ「気の遠くなるような多様性」と評される日大全共闘にあって、そのことをもっとも典型的に体現したのが文闘委だったという認識が生まれています。
そこで、結成45周年目を機に出席された学友たちが語るオーラル・ヒストリーを記録にとどめ、さらに今日まで語られることのなかった秘話なども公開し、あらためて闘争の中で文闘委が果たした意義と役割と再認識するとともに、かって隊列を組んだ学友らと過ぎ去った日々を語り合う場として文闘委の「同窓会」を設定いたしました。』
O氏から出席している文理学部の皆さんのエピソードが順番に語られていく。「ゲバルトが強かった」などなど。ここには書けないような「面白い話」もあった。(次号の「忘れざる日々VL5」の中で明らかにされるとのこと。お楽しみに。)
ここに書ける「面白い話」としては、文理学部のヘルメットが何故銀色だったのかということ。出席者の「証言」によると「ヘルメットを塗る塗料を買いに行った時、銀色と金色の塗料しかなかったので銀色になった」ということだった。
確かに金色は避けたいということがあっただろうから、銀色になるのは自然の流れだったのだろう。それまでの、赤白のヘリメットから一斉に銀ヘルになったことについて、出席者からは「銀ヘルになってよかった」という肯定的な声と「何故銀ヘルに代わってしまったのか」という否定的な声が出た。O氏が「日大全共闘といえば銀ヘルだ」と発言していた。
ちなみに銀ヘルは他大学全共闘では被っているところはなかったけれど、反戦では大阪市職労の部隊が銀ヘルを被っていたように記憶している。
文理学部の出席者の中にT氏がいた。以前、知り合いの文理学部のN氏とともに、新宿の喫茶店Dで話を聞いた方である。(その時聞いた話の内容はブログNo198に掲載している。)
T氏は「叛逆のバリエード」の巻頭の「生きている 生きている、バリケードの中で生きている・・・」という詩を書いた方である。
T氏の紹介の時に、O氏から「私に代わってT氏から誌の話を聞きだしてくれたのは明大のYさんです」といきなり紹介された。恐縮です。
さらに第一部が終わった時に、O氏から「Yさん、こんな話でよろしいでしょうか」と再度ふられた。面白い話を聞けました。ありがとうございます。
第二部は、法学部M氏の司会で始まった。
冒頭、先日亡くなられた田賀秀一弁護士に黙とうを捧げた。田賀弁護士は日大全共闘弁護団の主任弁護士を務められていた方である。
『「田賀秀一」という名前は、日大闘争を闘った者にとって「五九一一三〇一」(ゴクイリイミオオイ)という電話番号とともに、命綱のように大切な記号として刻印していました。
いつなんどき右翼体育会系学生に襲撃され、国家権力に逮捕されても連絡が取れるようにと、この名前と電話番号はジャンパーの袖や下着のシャツにマジックで書き込んで、ヘルメットやタオルや歯磨きセットを身に着け、バリケードの防衛や抗議デモや、そのほか様ざまな抗議集会に臨んでいたのです。』(忘れざる日々Vol.4より)
(No311-2に続く)
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