
(No317-2の続きです)
(写真は毎日グラフ69..2.15より転載)
(2)私たちの周囲で一表面的な無化とその陰の諸逆風-
まえがきで述べたように、大学闘争は現在の目本社会のなかでは無化されております。バックナンバーになっているというのならまだよいのですが、それにすらなっていない。
万をもって数えた決起主体がほぽ体制馴化していれば、外の者が伝えてくれるはずもないとも言えるんですけれども、その外の者が実は様々な意識性を働かせて、無化の状況を作り出しているといえるのではあるまいか。その例を挙げれば次のとおりです。
∥寮の側の憎悪です。これはずっと引き続いておりまして、典型的には教科書の歴史記述からの締め出しているということが挙げられると思います。もちろん中学ではなくて高校くらいになると少し記述をしているような教科書もあります。
日本共産党(以下、「日共」と略す)の憎悪も根深いものがあります。典型的には、その影響下で出されたような岩波新書の歴史記述からも締め出されております。
4鰻犾Ε泪好灰濕臚海痢崟?峪柿顱彁亡僂箸いΔ發里あると思います。大学闘争とは即ち反権力闘争であり、反権力闘争は即ち軍事闘争である。軍事闘争とは即ち赤軍派である。赤軍派とは即ち連合赤軍であり、浅間山荘であるという、そういう論理学でいう一つの連鎖式みたいなものですけれども、その連鎖式の間というのは大変な飛躍があるということで、「浅間山荘」ということが特に若い人の脳裏に強く焼き付いているということがあると思います。
ぢ膤悗納続欧鮗?韻紳膤愎佑茲蠅力斉顱もちろん丸山真男氏その他いろんな方がいるんですけれども、この方々もだんだん亡くなられております。
以上は体制側からのものともいえるんですけれども、これにとどまらない批判というものが、我々の側に伏在していることを見る必要があると思います。
ゼ腓妨綢嚇な、若い主体からの内ゲバ・粛清批判というのが非常に強いものがあります。
Φ貔ぢ紂60年安保)より隠然とある「やりすぎ」論というのがあります。自分たちの闘いに比べて、60年代後半の闘いは異質である、やりすぎている、そういう論です。
体制馴化した主体の在り様に対する社会的レベルでの批判というのも広範に存在します。
批判の舌鋒はさらに鋭いものがあって、踏み込んで考える人からは、「要求は大したものではないのに、それをかちとる戦術は過激である」という、要するに要求と戦術が不整合であるという批判があります。これなどはなかなか鋭い批判で、生産的な批判にもつながるとは思うんですが、もう一方では、昔からある学生運動家の“平地に波乱を起こす”意図が流れているのではないか?という憶測に流れる危険性もあると思います。
極端な論者は、「若者の反乱は内ゲバと爆弾の血の海に沈んだ」式の表現をいとわず、党派批判へと結びつけています。
結局、私たちの戦術(バリケード・ストライキー大学占領/占拠)への激しい異和感があるということです。それが軍事闘争、内ゲバ・粛清の党派批判とないまぜになっているという状況が出てしまっています。
本フォーラムに集う私たちにとって、後者の党派批判に答えることはほぼ不可能であろうと思います。しかし、前者の日本の社会の隅々から湧き起こったともいえる激しい戦術的異和については今なお、なぜバリ・ストが出現したのか、学生は何を問うたのかとして再究明しなくてはならないと思います。
(次週に続く)
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