
1968年11月22日、東大安田講堂前は1万人を超える全共闘系学生で埋め尽くされた。「東大・日大闘争勝利 全学封鎖貫徹 全国総決起集会」が開かれたのである。歴史的な11・22集会である。それから45年目の本年11月3日(日)、御茶ノ水の連合会館で「言っておきたいことがある 大学闘争45周年記念フォーラム」が開かれた。
このフオーラムは教育大、中大、慶大、日大の元4大学の有志により構成された「実行委員会」が企画、開催したものである。
午前11時半に開始、午後6時25分に閉会するという長丁場である。集会は3つのセッションに分かれ、第一セッションは基調報告と実行員会を構成する4大学からの報告、第二と第三セッションは第一セッションの基調報告に対する質疑などがが行われた。
私は第二セッション終了後に退席したが、今回は、第一セッションの基調報告の内容を掲載する。基調報告は長いので、今回から3回に分けて掲載する。
(文章が長くブログの字数制限を超えるため、No317-1 からNo317-3に分けて掲載します)
【基調報告「大学闘争の再究明と45年後の全共闘世代」】
大学闘争45周年記念フォーラム実行委員会
『(まえおき一開会挨拶をかねてー)
教育大 M氏
本日は早い時間帯からありがとうございました。遠くから駆け付けていただいた方もいらっしゃいます。本当に感謝しております。
基調報告は文章責任が私でありますので、私がしゃべっているだけでございます。僭越なことだと思っていますが、実行委員会の討論のいろいろなご指摘を受けてまとめた次第です。
<基調報告>( 配布資料を読み上げる )
「言っておきたい/ことがある」という七五調の惹句で、このフォーラムは呼びかけられました。1960年代終盤の大学闘争から45年も経って、なお「言っておきたい」ことがあるというのは、世の大方の人にはなかなか受け入れてもらえないことだろうと思います。先の大戦の記憶ぐらいはさすがに聞いてもらえるけれども、その余の政治的出来事というものは、この国ではバックナンバーとしても記憶されない。個々人の頭の中にたまたま残ったとしても、なかなか記録されず、共通の記憶となることはない。学校の教科書にも、もちろん出てこない。
しかし、本フォーラムに集った私たちは、いかなることを「言っておく」かはともかく、
60年代終盤の大学闘争が記憶さるべき意義を持つことを肯定する者であろうと思います。
若い血のたぎりとともに闘いに立ち上がったあの時に、この間の45年を加えてみますと、優に60歳代後半となります。記憶の鮮やかさも齢とともに衰えてくる。先頭に立って闘った者ほど早死にしていくようにも思える。50周年を座して待ってはならないと思います。いささかでも余力を残して、斜陽も黄昏に近づく中での自らの足どりを確かなものとするために、努めようと思っております。
さて、本フォーラムの実行委員会は、書き物(チラシ:写真)に記したごとく中大・旧教育大・慶大・日大の四大学の有志を軸に構成されております。残念ながら東大よりの合流は得られておりません。
それだけではなく、関西をはじめとして全国各地の大学の旧学友にも手を差し延べられて
おりません。高校生闘争等についても同様でございます。
これについては、1970年代前半での大学闘争の敗退過程というものがございまして、ここにはいろいろな力が作用した徹底的な敗退の過程があったと思います。
その中で主体の紐帯というものは本当に寸断されました。上記四大学の今回の連係というものも、この数年の市民社会での微地形を辿った再度の結び付きによって、かろうじて初めて成った、という風に思います。その意味で、非常に稀少なイニシアチブでもありますし、非常に弱体なイニシアチブでもあるということです。多くの不十分性を持っていることをお断りして始めて行きたいと思います。
この辺が開会のご挨拶でございます。
全体は3章構成になております。
(No317-2に続く)
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