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(No318-2の続きです)
(写真は「週刊読売1969.11.13」より転載:69.10.10明治公園)

(ⅰ)全共闘的組織について ー 「ポツダム自治会」の否定による闘う者の直接的な結合とされるが、それは一面的な言い方であり、60年安保敗北以来の旧来の学生自治会運動の
低迷、退行を突破するものとして、あるいは従来の大学当局のあやつる擬制的自治会活動を突破するものとして、学生大会など学生の直接民主主義的意志結集によって成立した。それは自ら決定し自ら執行する闘う民主主義の組織であり、活動家と大衆の分離を克服し、学生運動を再高揚させたと見るべきではないかということです。

(ⅱ)バリストー占拠について
これは1965年の慶大学費闘争で出現し、その後緻密化された、強硬化されていったと言った方がいいかもしれません。これはパリ大学ナンテール校の占拠(68年5月)に先んずるものとしてありました。旧来の学生ストライキの常態であった受講放棄、授業を放棄する、ピケット・ストそういうものを突破してつきつめたものといえると思います。
その発想は、おそらく衰滅しかけていた国際労働運動の理想的、理念的な形態、工場占拠などを追想した、想いを託したものであったと思いますが、それによって創られた空間の中で、学生は生き生きと生活し思考したということです。
このことに関しては、日大の闘争の中で様々な形で表白されていると思います。
以上、大きな二つの結論というものを掲げて、一つのエッセンスとしたいと思います。

この全共闘とバリストの結びついた時間と空間は、まさに学生にとって、「自由‐自治一自衛」を自己創造するルツボとなったといえると思います。これはかってないことでした。60年安保にもなかったと思います。学生主体にとってそれはまさに、抽象的な言い方ですけれども“良き体験”であったと思います。もちろん、闘いのうちには多くの辛酸もあったということもあります。しかし、それら総体を含めて得がたいものとして、“良き体験”というものが我々の脳裏に浄化されていく、そういう類のものであるということを、固くここで確認していきたいと思います。

(3)大学闘争の敗退

バリストー占拠自体が大学の管理権一所有権と正面から衝突するものであり、権力の介入によるロックアウトを必然化させるものでありました。権力の側の学生運動鎮圧の意志は堅く(自民党文教族など)、政治的解決の途は閉ざされていました。既成左翼、労働運動を合めて協調しうる勢力はほとんどなかったと思います。
残された道は、同時並行的に高揚していた反戦・反帝・反安保闘争と結合して、政治危機的な様相をかもし出すことにしかなくなっていたと思います。大学治安立法はその方向を加連させました。
1969年4月28目の「中央権力闘争」から9月5日の全国全共闘連合の結成までの時期は、このようなコースがめざされたと思います。しかし、反戦・反帝・反安保闘争を推進した勢力、冒頭ふれた五派共闘は八派共闘へ拡大していましたが、八派共闘は状況突破の力を持てず、反戦青年委運動など青年労働者の決起、さまざまなマッセンストの呼号みたいなものが行われていましたが、それが不発に終わりました。あと、自衛隊引き出しを考える以上の戦略はなくて、両闘争つまり反戦・反帝・反安保闘争と大学闘争の反権力闘争的な結合は、敗北的回路に入らざるをえなかったと思います。
その後、1970年に入ると、その敗北的回路の中で、八派共闘の方向転換が生起しました。華僑青年闘争委員会が日本の運動を告発しまして、それを機にしたいわゆる反差別論的な方向へ舵が取られるということがありました。その中で大学闘争主体は行きまどう形となったと思います。一部に軍事闘争的方向が出たということも主体を惑乱させました。 結局70年代型の新左翼運動というものが出てくる訳ですけれども、そういうものの出発と多くの大学闘争主体との間には主体的断層が走ったといえるかと思います。
結局、戦後大学の矛盾が山積し大きな曲がり角を迎える中で、学生主体の層的な決起があったが、その層自体の薄さは否めず、体制の弾圧と吸収を可能とするものとなった。こうして、再興した学生運動はその後衰滅していった。

(No318-4に続く)