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(No318-1の続きです)
(写真は「毎日グラフ1969.2.15」より転載:68慶応大闘争)

後期の学生運動に関していろいろ述べたいと思いますけれども、とても述べきれませんので、4点の指摘にとどめておきたいと思います。
∥膤愨臀芦修凌聞圓涼罎如大学そのもののもつ矛盾へと運動の眼がゆかざるをえなかったということがあると思います。旧来の大学統治、教授会の自治等への批判というものが明らかに含まれております。
■僑闇安保の後、政治的課題への関心は低下、ノンポリ化したが、ベトナム戦争をはじめとする世界の激動というものはそれを許さないということがありました。学生層の一部には反権力志向をもって、世界の激動に関わる部分がなお存在したということをはっきりと見ておかなければいけないと思います。
自治合一全学連運動はノンポリ化の中で衰退していたが、それを補うものとして各党派の青年同盟・学生同盟組織は活発化したと思います。そして、これが運動を支えるものになっていったことも、良かれ悪しかれはっきりと見ておかなくてはいけないことだと思います。
い靴し、その結果、党派間の矛盾が激化し、自治会一全学連運動が“変態化”したこと、常なる状態でなくなっていること、とくに日共がその「民青化」を進め、運動の発展を阻害したことも、この時期の特徴の一つに挙げられると思います。

(2)大学闘争のめざしたもの、それは何を問うたか

第1章で、「要求は大したものではないのに、それをかちとる戦術は過激である」との声を紹介したが、ここではそれに答える意味でも、こうした大学闘争で学生たちは何を問うたのかを究明しておく必要かある。もちろん、大学闘争といってもその発端となる「要求」は各大学の闘争ごとに異なっている。それが、並べてバリスト・占拠闘争とならざるを得なかったのは、その時代の大学と学生の直面していたそれなりの共通の問題性があったということである。
それは、抽象的に言えば、戦前のエリートによる大学から、一定の大学大衆化への過渡期での学生の「大学批判」であった。発端の要求は、学費や寮費値上げ反対・処分反対・学生自治の制限反対等であった。その意味では、「要求は大したものではなかった」かもしれない。しかし、それすら認められない、初期の闘争はすべて敗北。そのようなことによって、戦術がバリストー封鎖・占拠へと高まるなかで、教授会等大学当局の権威主義的な対応もあって、闘争は価値観的な大学批判、教授会批判、既成学問批判、近代科学批判等となっていったのである。その象徴的表現が「大学解体」であった。しかし、この価値観は戦後民主主義的な既成秩序と真っ向から対立せざるをえない。日共との全面的対決、丸山貞男との対立が必然化したわけである、

しかし、そもそもバリストや封鎖・占拠という闘争戦術自体が戦後民主主義的秩序と対立するものであった故に、大学のあり方を問う議論の発展以前に、問答無用とばかりバリストや占拠自体が機動隊の力によって圧殺されざるをえなかった。こうして、大学闘争で学生たちが突き出した大学批判の質は、大学闘争の敗退とともに戦後史のかなたに消えていったのである。
以上を最大公約数的な把握として、さらに大学闘争そのもののエッセンスともいうべきものを把み出しておきたい。
それに当たって、本フォーラムのプレフォーラム(昨秋11月18目)では、「三つのレペルの考察を要する」として、

(i)運動・組織論的レペル……………………活動家一犬衆、党派一大衆団体など
(ⅱ)闘争・技術論的レペル……………………ストライキ、バリケード、占拠 など
(ⅲ)戦略・戦述論的レベル……………………政治闘争と経済闘争、政府問題 などを示した。それに関する考察の内容はこの場で細かく述べることは省略して、結論二点を挙げていきたいと思います。

(No318-3に続く)