
(No321-1の続きです)
(写真は「毎日ムック」より転載:1968.10.21国際反戦デー)
その時期と前後するかもしれないが、和泉校舎でブントによる中核派への襲撃事件があったんです。ブントが中核派の伸張を恐れて、夜中に駿河台の部隊を中心にマル研の部室を襲い、マル研の部員をリンチした。その事が影響したのだろうか、キャプテンのCが離脱した。彼は当時、法学部3年生で法社研の中心メンバーであり、マル研の創設者であった。
Cが学問的なものに飽き足らず、実践を求めてマル研を創設したということです。
その彼が抜け、Bが中心とならざるを得なかった。
<成田闘争で負傷>
68年の3月に三里塚で成田闘争があり、現地に行った。
今でも傷が残っているんだけれど、3月10日に成田で機動隊と激しくやりあった。最前線でやっているから、機動隊ともみ合う中で、ヘルメットは被っていたが、頭に機動隊の警棒の直撃を受けて意識不明で倒れた。気が付いたら野戦病院で傷の手当を受けていた。
(参考)「れんだいこ」HPより転載
『3.10日、空港反対同盟と全国反戦青年委員会共催で「空港粉砕・ベトナム反戦総決起集会」を成田市営グランドで開催。反対同盟の1300名をはじめ、三派全学連、反戦青年委員会、べ平連など全国から労.学.農・市民1万人参加。集会後再び全学連2千名が機動隊と衝突。衝突後の解散集会に、機動隊5千名が"全員検挙"で突入し198名が検挙される。空港反対派に3百名以上の負傷者を出す。』
成田闘争が終わった直後に王子闘争があり、Bが中核派全体のデモの指揮をやった。
私は成田で負傷して、しばらく静養していたので、王子には行っていない。
指導部が獄中にあり、Cもいないという中で、明大中核派は困難な状況にあった。、
Bは3ケ月くらい拘留されていて5月頃に戻ってきた。Bは商学部だったから、自治会を民青と闘って取った。中核派が明大商学部自治会を押さえ、Bが初代の委員長になった。
我々は明大商学部自治会を防衛するということで、学内で活動をしていた。
私は、その頃は学校の授業に出る事はなく、負傷から戻って、精力的に学内で活動をやっていました。
<68.10.21国際反戦デー>
68年の10・21がすごかった。
この日、午後2時頃、我々は法政大学に集まった。「今日は反戦デーだから中核派は新宿に行く。新宿騒乱を起こす。」ということで、法政大で決起集会を開いた。ブントは前の日に丸太を持って防衛庁に突っ込んでいた。
夕方4時頃、「いよいよ出発だ」ということで、飯田橋の駅から中核派が200人位、総武線に乗った。我々兵隊は闘争方針なんか言われていない。どういう闘争をするのかも知らされていない。そんな状況で中核派の1員として総武線に乗り込んだ。総武線に乗って、代々木の手前で「全員降りろ」という指示があり、線路に降りた。それで線路づたいに新宿に行った。電車はストップした。電車を降りて新宿まで500メートルくらい、線路の石を拾って投げながら線路の上を走って、機動隊が来たが全部粉砕しました。
新宿駅は解放区になりました。それで完全に駅を占拠して、その後東口に出て群衆と合流した。それで伊勢丹のあたりまでずっとデモをやって、もう何万というデモ隊です。我々200名の部隊が新宿駅に突撃したことによって、群衆が我々を守って、警察は全然手を付けられない。我々は東口から伊勢丹前まで何回も往復して、その都度、デモ隊の数が膨れ上がる。そんな中で他党派なども駆けつけてくる。
深夜になって、騒乱罪が適用になった。ところが、我々は夕方5時から闘っているので、「今日の闘いは勝利だった」として夜10時には解散した。
中核派の中心部隊は夜10時頃には帰路についた。ところが群衆は収まらない。騒乱罪が適用された時間帯には中核派は本当はいないはずです。』
(次週に続く)
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