「10・8山﨑博昭プロジェクト」が始動したことは先週のブログで紹介した。今回のブログでは、1967年10月8日の羽田闘争を、当時の新聞記事と資料で振り返ってみたい。
まず、10・8翌日の神戸新聞の記事である。

(神戸新聞より転載)
【神戸新聞 1967.10.9】
『首相外遊反対の反代々木派 装甲車奪い放火
58人を逮捕 負傷者七百越す
佐藤首相が第二次東南アジア歴訪に旅立った8日朝、「首相が南ベトナムに行くのはアメリカの侵略に協力するものだ」として出発を阻止しようとする二千人のデモ隊が羽田空港周辺に押しかけた。その主力となった反代々木系全学連各派の学生約千六百人は、空港入り口付近で警視庁の警官隊と激しく衝突、警備装甲車に次々と放火するなどして空港突入をはかったため、警官隊は警棒を抜き、ガス銃を撃ち込んで大乱闘のすえ実力で排除した。市街戦のような騒ぎの中で京大生一人が車の下敷きになって死亡、双方で七百人を越す重軽傷者を出し、58人が逮捕された。デモ騒ぎで学生の死者が出たのは27年の血のメーデー、35年の安保騒動以来のことであり、佐藤首相の外遊に暗い影を落とした。
反代々木各派の学生は、この日のデモを「ベトナム反戦闘争の最大のヤマ場」として力を入れ、全国各地から上京した学生も含めほとんど全員が前夜から早大、法大、中大の東京都内の拠点校に泊まり込んだ。警視庁側もこれに備えて二千五百人の制私服警官を羽田空港周辺に配置、羽田街道から空港に通じる弁天、稲荷、穴守の三つの橋には装甲車や有刺鉄線などの阻止線を築いて学生をシャットアウトする構えをとっていた。
学生は午前9時過ぎからヘルメットに身を固め、1メートルの角材をふるい。石を投げて真正面からバリケード突破をはかり、給水ホースで対抗する警官隊と三つの橋の上で一進一退の押し合いを続けた。佐藤首相の特別機が飛び立った午前10時半ごろには、学生の行動は一段と激しさを加え、装甲車のタイヤの空気を抜き、ついには次々と7台に火を放って炎上させた。学生らは明らかにガソリンを用意していた。
弁天橋上ではフロントガラスをハンマーでたたき破って乗りこみ、これを運転して空港突入をはかった。警官も警棒をふるい投石で対抗、文字通り双方入り乱れての“白兵戦”となったが、この混乱の中で、京大文学部一年山﨑博昭君が装甲車の下敷きとなり近くの牧田病院に収容され、間もなく死亡した。
ついに犠牲者が出たというショックで、一時休戦、しばらく海老取川をはさんでにらみ合ったが、午後1時20分、警視庁はガス銃を5発発射、ようやく学生を追い散らした。ガス銃を使ったのは血のメーデー、安保に次いで3回目。(後略)』
この時に、装甲車を運転していたとして二人の日大生が重過失致死で逮捕されたが、不起訴となった。弁護団は死亡診断書から警察官の警棒による頭部殴打が山﨑博昭君の死因と判断した。
この神戸新聞には、山﨑博昭君の死因を巡る警視庁と弁護側の主張がそれぞれ掲載されているので見てみよう。
まず警察側の主張。
【神戸新聞 1967.10.9】
『死亡者は京大生
学生が奪った装甲車にひかれる 警視庁調べ
警視庁公安部は8日羽田空港近くのデモ騒ぎで京大生山﨑博昭君が死亡したのは、警備の装甲車を乗っ取って運転した学生がひき殺したものとみて過失致死事件として捜査に乗り出した。
警視庁の調べによると、8日午前11時25分ごろ、羽田空港入口近くの弁天橋で機動隊員350人が警戒中、中核派などの600人が押しかけ、にらみ会った。学生らは橋ぎわに並べてあった警察の装甲車5台に乱暴を始めた。1台の中にいた第二機動隊の助川哲巡査は身に危険を感じ車から逃げ出したが、そのさい車のキーを車の中に落とした。学生のうち2人がこの車に乗りこみ、エンジンをかけ、警官隊の方に突っ込もうとしたが、橋ゲタに衝突したためバック、前進を2、3回繰り返したさい車の近くにいた山﨑君を右バンパーにひっかけ前輪で腹を、後輪で頭をひいたという。
現場を目撃した警視庁警備課調査官小林茂之警部らの話を総合すると、学生が運転していた装甲車が警官隊に取り囲まれるような恰好で前進したとき、警官と学生の間に一人の学生がころんで橋と直角の形で横になった。そこに装甲車が前進してきて右バンパーで学生をひっかけたが、その時はブレーキをかけて止まった。小林警部は鉄板をたたき運転の学生に注意しようとした。
しかしなんと思ったか車は再び動き出し、右の前輪で腹を、後輪で顔をひいて去った。警官、学生の怒号と投石の中の出来事だった。小林警部は「助けに行こうと思ったが、投石が激しく危険で動けなかった」と語っている。』
次に弁護側の主張。
【神戸新聞 1967.10.9】
『警官の乱打で死ぬ 三派系全学連の秋山委員長語る 死体にタイヤの跡ない
三派全学連の秋山勝行委員長は8日夜、港区新橋の小長井法律事務所で小長井良浩弁護士とともに記者会見し、山﨑博昭君の死因について「警察側では学生の運転する装甲車の下敷きとなって死んだと発表しているが、遺体の所見、目撃者などから明らかに警棒で乱打されて死んだものである」と次のように語った。
小長井弁護士は山﨑君の収容された牧田病院で院長、副院長の立会で遺体を所見したが、右ほおのすり傷と内出血、右額の打撲があるだけでタイヤの跡は認められなかった。両医師も死因は脳内出血といっている。
一学生の目撃談では、山﨑君は橋のらんかんに寄りかかっていたが、2、3人の機動隊が警棒を斜め上から何度も振りおろして乱打した。まもなく顔から血が吹き出し、山﨑君は失神した。またもう一人の目撃者によると、山﨑君が倒れる直前、警官の一人が近くで装甲車にひかれ、別の警官に救出された。警察側ではこの二つの事件を巧みにすりかえて、ごまかしている。』
東京都監察医務院の死体検案書のコピーが手元にある。これを見ると、死亡時刻は昭和42年10月8日午前11時40分頃。死因は「脳挫滅、胸腹腔内損傷の疑い(推定)」となっている。死因の主な原因は腦挫滅であることが明記されている。

(神戸新聞から転載)
この10・8闘争の逮捕者の救援組織として「羽田10・8救援会」が結成された。山本義隆氏からプロジェクトに、その要請文のコピーの提供を受けたので、ここに掲載する。
【羽田十・八救援活動についての要請】
『さる十月八日、佐藤首相の南ベトナム訪問への抗議行動に対し、過剰な警察力の行使加えられ、その際、1名の学生の命が失われ、多数の労働者・学生が負傷しました。何名かの重傷者はなお病床におります。
当日、学生だけでなく、多数の労働者が抗議のすわりこみを行っていましたが、機動隊は、この人々にも激しい“規制”を加え、労働者に多数の重傷者を出しました。現在までの学生および労働者の被逮捕者は66名、起訴者および拘留者は27名います。
亡くなられた山﨑博昭さんの死因については、講評された警察の発表自体が時とともにかわり、それらが互いに矛盾するなど、“れき死”と考えるのは疑問が多く、他方、担当の小長井弁護士は、死因として頭部傷害を重視しています。
当日の学生の行動についての意見の相違は当然あるとしても、わたしたちは、第一に、この事件の最大の要因は首相の南ベトナム訪問の強行であり、それへの抗議という目標において、当日、羽田におもむいた学生・労働者への連帯を確認することができます。
第二に、この事件において、当日の空港周辺の学生の集会・デモを一切禁止したなど思想・表現の自由に対する不法な侵害が存在したこと、事件後の処置において、この方向が強化されようとしていることに対し、抗議します。
さらに、機動隊の警棒使用において、法律の規定をこえた過剰な警察力が行使されたことに対し、強く抗議しなければならないと考えます。
このような立場から、わたしたちは事件全体の真相を究明し、国家権力の不法な行使による犠牲者(死者・負傷者・被逮捕者・起訴者)に対し、治療費と法廷費用の試験援助など、救援の手をさしのべたいと考え、みなさまの協力をお願いします。
1967年11月9日
よびかけ人
浅田 光輝、いいだもも、井岡 大冶、石田 郁夫、井上 清、茨木 のり子、岩田 宏、梅本 克己、海老坂 武、大井 正、大沢真一郎、岡本 潤、小田切秀雄、小野十三郎、観世 栄夫、樺 光子、黒田 喜夫、河野 健二、国分一太郎、小島 輝正、斉藤 一郎、
佐多 稲子、寿岳 文章、新村 猛、菅原 克巳、杉浦 明平、鈴木 道彦、田中寿美子、鶴見 和子、奈良本辰也、野田 真吉、野間 宏、野村 修、羽仁 五郎、埴谷 雄高、林 功三、林 光、日高 六郎、星野安三郎、本田喜代治、松田 道雄、三木 卓、水戸 巌、務台 理作、森 毅、山下 菊二、雪山 慶正、吉野源三郎 』
この要請のよびかけ人の一人である樺 光子さんは、神戸新聞の記事で次のように述べている。
【神戸新聞 1967.10.9】
『政府の露骨な弾圧のあらわれ 樺 光子さんの話
安保で娘が死んでからもう7年たった。今の学生の動きを見ていると、当時よりとても激しくなったと思う。警察側は装備なども進んでおり、学生側のデモはいつも素手が建て前、それだけにデモは危険だし、なんとかやり方を考えなくてはいけない、
佐藤首相は南ベトナム訪問反対の強い世論にもかかわらず、強引にそれを押しきって飛び立った。
安保当時の岸首相の姿勢と全く同じで、かかってくるものを容赦なく弾圧する態度が露骨に出ている。佐藤首相はアジアで反共体制を整え、米国のベトナム戦争を助けるためにどんな無理もやり通そうとしている。70年の安保改定を待たずして、すでにもうそれが行われているといえる。
安保闘争当時も一般の人たちの立ち上がりはおそかったが、今度も総評をはじめ各平和団体は“平和”を口にするものの、行動ではちっとも示さなかった。結局、学生だけが抵抗運動を起こさざるを得なくなっている。本当に胸が痛くなる事件だ。』
この要請文と同日の日付で「羽田10・8救援会事務局」発行の「10・8救援ニュースNO1」が発行された、
次回の「資料で見る1967年10・8羽田闘争 その2」では、「10・8救援ニュースNO1」の記事を紹介する予定である。
<お知らせ>
【10・8山﨑博昭プロジェクト/50周年まであと3年 講演と映画の集い】
●日 時 2014年10月4日(土)午後1時30分より(開場12時30分)
●会 場 「きゅりあん」6階第会議室 (品川区東大井5-18-1)
(京浜東北線「大井町」駅東口下車 徒歩1分)
●参加費 1,000円
●内 容 講演 「私の1960年代 -樺美智子・山﨑博昭追悼ー」
山本義隆 (科学史家・元東大全共闘議長)
映画上映 「現認報告書」(1967年 監督:小川紳介)
<参加申し込み>
以下のメールアドレスあてに、お名前と参加希望と明記の上お申込み下さい。※定員になり次第、締め切りとさせていただきます。お早目にお申込み下さい。
monument108@gmail.com
このプロジェクトの詳細及び賛同の申込みは以下のホームページをご覧ください。
ホームページからも10・4集会への参加申し込みが出来ます。
10・8山﨑博昭プロジェクト

コメント