10月4日に「10・8山﨑博昭プロジェクト 50周年まであと3年」の「講演と映画の集い」が品川区の「きゅりあん」で開催された。当日の様子はNo359で概要を掲載したが、山本義隆氏の講演概要については、別途ブログに掲載することにした。
我々の世代にとって、山本義隆氏は東大全共闘の議長であり、日大の秋田明大議長とともに各大学の全共闘を代表する方である。1969年9月5日の日比谷公園で行われた全国全共闘連合結成大会で逮捕され、それ以降、あの時代のことは語っていない。その山本氏が、初めて「あの時代」を語った。
山本氏の講演の録音を聴きながらテープ起こしを始めたが、どうしても「あの時代」のことが頭を横切って、講演の概書き起こすことができない。講演を「概要」としてまとめるのは無理だと思った。講演内容を全部文字起こしすればいいのだが、それもどうかな、と思っていたところ、フェイスブックで、山本氏の講演をまとめた記事を見つけた。
当日参加されたIさんという方が、山本氏の講演をまとめたものである。
山本氏は駿台予備校の講師をしているが、Iさんはその教え子の方である。「あの時代」を経験した我々より若い世代の方であるが、客観的に山本氏の講義をまとめてくれていた。
Iさんにブログへの転載の許可を伺ったところ、快く承諾していただいた。
以下、Iさんのフェイスブックの記事を転載させていただく。(写真はプロジェクト事務局撮影)

【山本義隆さん講演 まとめ】
『2014.10.4(土)「10.8山﨑博昭プロジェクト」が主催した講演会で山本義隆さんの講演を聞いてきました。
「10.8山﨑博昭プロジェクト」は、1967年10月8日にベトナム戦争に反対する学生たちが佐藤栄作首相の南ベトナム訪問を阻止しようと羽田空港に通じる橋で抗議行動を行った時に亡くなった山﨑博昭さんを追悼するモニュメントを建て、戦争反対の意思表示を行う、というプロジェクトだそうです。山本義隆さんは、このプロジェクトの発起人の一人で、山﨑博昭さんの高校の同窓生でもあるそうです。
私は駿台予備校で山本先生に物理の講義を受けました。山本先生の講義には、いつも他のクラスの生徒まで潜りにくるので、通路や黒板前のスペースは、床に座って講義を受ける生徒でびっしり埋まっていました。微積分を駆使する力学など、高校では習わない方法を使いながらも極めてわかりやすい講義でした。
山本先生が初めて1960年代についてお話になるということで、お話を聞きにいきました。20年ぶりにお目にかかった山本先生は当時とあまり変わっていらっしゃらない印象でした。私のこともわかってくださってよかった(笑)。
当日は、ご自身の経験を、当時の情勢分析と歴史的分析も交えてお話になりました。メモや録画を参考に、山本義隆さんのおっしゃったことを箇条書きに並べます。
「私の1960年代 ―樺美智子・山﨑博昭追悼―」

1960年東大に入学。安保闘争が沸騰に近づいている時期。クラスでは討論が行われ、ストライキ決議がなされたりしていた。
東大キャンパス内の駒場寮に入る。駒場寮には当時600人くらいの学生が暮らしていた。
東大に入ったのは、物理学と数学を学びたかったから。ほとんどノンポリだった。当時の政治意識は「当時の学生の政治意識の平均よりやや上」くらい。
駒場寮で600人で濃密な議論を行ったことはとても勉強になった。今思えば、学生運動にとってあんなに便利な環境はなかった(笑)。
全学連はブントが中心だった。ブントの状況分析は、
「岸内閣の安保改定は日本帝国主義の復活。安保改定阻止は日本帝国主義の復活を阻止すること。」というもの。安保改定阻止国民会議(社会党、総評が中心)も同様の分析だった。
一方共産党の分析は「日米安保は対米従属を強化する。安保改定阻止は対米従属強化を阻止すること。」というもの。
1957年に岸信介は「現行憲法下で核武装は可能。」「原発は軍事利用と紙一重。原発を産業利用していれば、おのずと核武装能力はついてくる。」「核武装を外交カードとして使う。」と国内にも米国にも明言している。
このことから、ブントの状況分析は正しかったと言える。
1960年5月19日の安保強行採決後、運動は盛り上がる。しかし主張は、「民主主義を守れ」に変わる。全学連指導部の意図とは違う盛り上がりだった。(当時全学連上層部とは関わってなかったので知らなかったが、後で本を読むとそうだったらしい。)
「60年安保を闘ったか」と問われると、「闘った」とはおこがましくて言えない。
強いて言えば、周辺で闘った。
でも6月15日にデモ隊(主催者発表33万人、警察庁発表13万人)と機動隊が衝突したことは衝撃だった。この時東大生樺美智子さんが死んだ。
この衝撃でノコノコ出てきた、という感じ。
関連して思い出すこと。
1969年1月18日19日の東大安田講堂での攻防戦の後、それまでは全共闘運動に加わってなかった、運動の周辺にいた人たちがわっと出てきた。
自分の60年安保はそんな感じ。
岸内閣は、安保改定後、憲法改変、軍事力強化を目論んでいた。
しかし1960年7月に岸内閣退陣。池田勇人内閣成立。
池田内閣は核武装を言わず、軍事的ヘゲモニーはアメリカに任せ、日本は金儲けに専念する、という方針。
1960年秋から大学は平静になり、物理学科に進学。
こういうところが東大生のいやらしさでね(笑)、勉強しました。

1950年の朝鮮特需から始まっていた高度経済成長
1955〜56年 神武景気
朝鮮戦争(日本の植民地支配の後遺症)を利用して日本は金儲けをした。
1960年とはどういう年か。
安保闘争の年でもあるし、理工系ブームが起こった年でもある。
1960年に理系学部が増員 理科一類は150人増員して600人 その後毎年増加
原子力工学科ができた年 科学技術万能の時代
これまで理工系ブームは3回あった。
1.明治維新 直後 福沢諭吉 啓蒙主義
2.昭和10年 東大に第二工学部(軍事工学科) 海軍の要請で造船学科
平賀 譲 海軍中将で三菱造船顧問(軍艦の神様)で造船学科教授
東大総長にもなった(昭和13年)
3.1960年
1960年以降
「平和」「民主主義」「科学技術の進歩」これらが絶対的な真理、絶対的な正義となった。

1962年大学管理法闘争
大学管理法の目的
1.学生運動押さえる
2.研究体制の合理化(教授の既得権が侵害される面もあった)
1962年11月 全都銀杏並木会議 5000人の学生が東大に集まる。
他大学からも学生が集まる。大学当局との対抗関係を作る。
茅誠司(東大総長)が文部省と交渉 大学管理法つぶす
一次処分を受ける。
茅誠司かんづめ事件(これは実はハプニングだった)
二次処分を受ける。
戒告(譴責)を受ける
処分を言い渡した理学部教授(学生委員)は実は教職員組合の執行委員だった。
(教職員組合は学生処分に反対声明を出していた。)
「大学の自治を守ろう」と言った地球物理の教授に
「大学の自治とは何か?」と問うたら、その答えが、
「この静寂である。」
世の中の動きにかかわらず、砂漠の中のオアシスのように学問に専念する静寂な環境を守ることが大学の自治である、ということ。言外に学生運動を牽制していた。
しかし実際は学問は社会に直結していた。
1960年代の地球物理(海洋学気象学 環太平洋地域の海洋、気象、地震学)は、ほとんどが軍事研究。米軍立川基地から軍用機で学会に出かける教授もいた。
処分撤回闘争(それも二次処分撤回闘争など)は負け戦なので、政治的読みが出来る人は普通やらない。しかし引っ込みつかないので、ほとんど誰もいないのに続けた。
安田講堂の前に「理学部山の会」のテントを借りてきて看板の上に座りこみ。
入試の前日に大学本部の職員に水をかけられて終わり。
大学4年時 まじめに勉強
1964年大学院物理学教室素粒子論研究室に入る。

1966年5月 日本物理学会主催の半導体国際会議
開催費用の一部に米軍から資金提供を受けたことが明るみに出る。
水戸巌さんらと以下の決議を取る運動を行う。
1.責任者は米軍資金の導入の誤りを認める責任を取る
2.日本物理学会は今後一切軍隊を関係を持たない
「物理学会は学問をする学会なのだから、そこに政治を持ち込むのはけしからん」という教授たちもいた。
しかし
「資金提供を受けること自体が政治的」
「学会は米軍を支持するのか」
といった反論が上がる。すると最終的に
「科学はそれによって進歩するからいいじゃないか。」という話しになった。
共産党の見解
「学会が米軍に資金援助を受けるのは、日本の文教政策の貧しさによるものだから、政府に研究資金を要求すべき。」
しかし実際は、当時、世界トップレベルの加速器を作ることが現実課題として出てきた。研究費が少ない、というのは理由にならなかった。
そもそも、米軍の資金を導入したのは、ソニーや東大といった研究費が豊富にある環境にいる研究者。むしろ研究費が少ない環境にいる研究者が、米軍の資金導入を一番厳しく批判していた。
1966年9月9日 賛成700:反対199で決議は可決。
今でもこの決議は生きている。
「研究が進むことがそんなにいいことなのか。」
「場合によっては研究をサボタージュすべきだ。」
という考えが、学者の内部から出てきたのは、あの運動が初めて。

米軍ベトナム介入激化
東大ベトナム反戦会議立ち上がる 中心となったのは所美都子さん
東大理学部 大学院生中心
目指したのは、
「上下の関係でなく、反戦の意思を持った個人が横につながる運動」
1967年10月8日第一次羽田闘争 佐藤首相ベトナム訪問
佐藤内閣は軍事基地、弾薬庫、野戦病院提供を通じてアメリカを後方支援していた。
1967年11月11日 エスペランティスト由比忠之進さんが首相官邸前で佐藤内閣のベトナム加担に抗議して焼身自殺
1967年11月12日第二次羽田闘争 佐藤首相訪米
1967年11月13日 ベ平連が「米空母イントレピットからの4人の脱走兵を保護してスウェーデンに逃した」との記者会見
60年安保時の学生の意識
ブントの方針はともかく、多くの学生の意識は「日本が戦争に巻き込まれるのが困る」という一国主義的なもの
岸首相への反感(A級戦犯 占領軍の権力にうまく入り込んで首相になった)
しかし
1967年での反戦意識は「日本が戦争に加担していること」を問題としていた。
1956年から1973年まで高度成長
高度成長後半を支えたのはベトナム特需
1966年から1971年まで毎年10億ドルが企業に入っていた。
1960年代後半のベトナム反戦運動は、一国主義から戦争への加担に反対するものへと変化していった。
また、量質ともに最高の軍事力を持つ米軍にベトナムが勝った、ということは訴えかけるものが多かった。
ベトナム反戦運動の主体は、
三派全学連
ベ平連
反戦青年委員会
と言われている。
東大ベトナム反戦会議はその周りをうろちょろしていた。
しかし、「うろちょろしていた個人」が結構たくさんいたのではないか。
一人、少人数で運動に参加した人たくさんいた。
1967年暮れから1968年1月2月
王子野戦病院
一人または少人数で連日通っていた。
新聞報道では、
「三派全学連が帰った後(三派全学連は当時はスケジュール的に行動していた)野次馬が暴れている」と報道された。
しかし「野次馬」の中には個人参加、小集団参加、土地の人がいっぱいいたように思う。(土地の人が家からペンチや物干しを持参して参加した、など。)
1967年くらいから全共闘的個人の戦い「党派の指導をはなれた個人の運動」は始まっていた。

1968年1月 佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争
1968年1月 東大医学部青医連(青年医師連合)スト
学生運動というより職能組合の労働協約の運動
登録医制度粉砕
研修カリキュラムを自分で作りたいと言っても大学は話し合いに応じない。
病院長を捕まえようとしたら医局長が割り込んできて小競り合いになった。
学生、研修員が大量に処分される。
局長だけに事情聴取をするが、学生には事情聴取なし。
その場にいなかった学生まで処分された。
全学的には知られていなかったけれど、処分には敏感だったから早くから医学部の人たちと一緒に行動していた。
1968年3月卒業式中止
1968年6月15日 医学部学生が安田講堂占拠
6月18日 大河内総長が機動隊1200人を導入
運動が全学化したのは秋から
各学部で教授会とやりあって、教授会の対応が酷かった。
一例
医学部の処分についての教授の意見「『疑わしきは罰せず』は法の常識だが、東大医学部では通用しない」
それに対して法学部の学生が「法学部教授はなぜ黙っているのか。」
外で言っていることと中で言っていることは全く違う。

ちょっと話しがそれますが。
1969年 丸山真男批判
「言っていることとやっていることが違う」ダブルスタンダードを批判
丸山真男は、東大闘争にはずっと沈黙していた。唯一、文学部長が監禁されたことに対する批判声明に法学部教授として連名した。
「自分が批判していた『無責任体制』が東大で行われているにもかかわらず、自らが批判していた「民主主義を弾圧するやり方」と同じことを自分がやっている。」
「丸山先生も学内の柵の中で生きている、早い話、普通の人なのだ。」と思った。
閑話休題。

6月20日 全学集会
6月28日 大河内総長会見(心電図付き)
座り込み
講堂再占拠するかどうか 延々と議論
全学闘争連合
青医連 医学部 大学院 ベトナム反戦会議が中心
各学部の自治会のメンバー(実際は党派の代表)
全部で共闘会議
党派との複雑な関係
医学部生が逮捕されて代わりに司会をやるようになった。
7月2日 安田講堂再封鎖 全ての人に解放
60年安保時に駒場寮で議論を重ねたことの重要性から
講堂占拠に反対しない人は誰でも入れて議論を行った。
夏中これをやった。
自分は縁の下の力持ちとしてありとあらゆることをやった。(映画の映写機を区役所まで借りに行って腕が取れそうに重い映写機を持ち帰った、とか。)
大衆的な運動ができるようになった。
秋以降 代表者会議200人で会議
党派とノンセクトのすったもんだは最後まであった。
自分が議長になったのは、どの党派にも属さなかったから。消去法で残った安全パイだったから。
自分は昔も今も政治音痴。何度も「強気に出ろ」と言われたがそうできなかった。今思えば強気に出た方がよかったところもあった。
当初は「共闘会議」と名乗っていたが、後に「全共闘」と名乗るようになる。
「全共闘」という言葉は日大から輸入した。
日大全共闘は、文句なしに、本当の意味での全共闘。
武装した右翼とのゲバルトに強かっただけでない。
学生大衆の正義感と潜在能力を最大限発揮した運動。
戦後最大の学生運動。
考えると涙出る。
東大全共闘は日大に恩義がある。
借りがある。返しようがないけど。
東大闘争 理学部工学部が中心
60年安保以降
「平和」「民主主義」「科学技術の進歩」これらは絶対的なプラスのシンボル
しかしベトナム反戦運動で「平和を守る」の意味が変わってきた。
「民主主義を守る」の意味もようやく変わってきた。
民主主義は結局は秩序として現れる。
秩序ができると秩序に取り残されるマイノリティーが生まれる。
マイノリティーが自己主張をしようとすると秩序に手をかけることになる。
場合によっては暴力的にならざるを得ない。
それを無視して「民主主義を守れ」はないだろう。
1968頃から
「民主主義を守る」だけでは、マイノリティーを抑圧することになる、なりかねない、そういう意識が入ってきた。

「科学技術の進歩」について。
理科系の学部が学科共闘で学科の垢を洗い出し、問題が明らかになってきた。
ヨーロッパでは科学と技術は別
技術 職人 経験主義的
科学 思想
科学と技術結びついたのは19世紀半ば
蒸気機関
ジェームス・ワットが改良 ワットは職人
1840年代 熱力学第一法則第二法則
物理学的根拠を持って蒸気機関が改良されるようになった。
科学技術としての蒸気機関
エレクトロニクス
1800ボルタ電池
恒常的に流れる電流 それで発展
1820年
電流の磁気作用
1830年代
有線の通信施設
日本には、ペリーによって、蒸気機関とモールスの通信施設がもたらされた。
徳川幕府は価値がわからなかった。
本当の価値を理解したのは明治新政府(薩摩長州)。
薩摩長州は西洋の科学技術の威力を知っていた。
西洋と闘ったから。薩英戦争、下関戦争でコテンパにやられる。
彼らはヨーロッパの技術の優秀さを骨身にしみてわかった。
技術の優秀さはまずもって軍事技術に現れた。
戦争に勝つのは優秀な軍事技術(銃)を持っている方。
日本には「科学」と「技術」は「科学技術」として入ってきた。
明治2年電信設備 5年蒸気鉄道
西洋の科学の優秀さ=技術の優秀さと理解されていた。
しかし実際は、科学と技術とは相当に違いがある。
特に20世紀の科学は原子、分子、原子核を対象とする。
原理主義な科学と技術までの距離はとても大きい。
物理化学の科学理論の作り方
対象をシステムとして捉える。
周りを環境・外界として切り離す。
完全にコントロールした理想的なシステムを作り、そこで起こる現象についての法則を見出すのが科学。
その科学法則をそのまま拡大しても技術にはならない。
実際の環境には相互作用があるから。
大気汚染などの「公害」
工業化の過程での技術の問題(費用をケチるなど)と考えられている。
しかし半分の責任は科学にある。
科学のあり方からして。
例えば、
化学の研究は試験管の中だけに注目。
廃液のことは考えなくてもよい。
原発を学者側から言い出したのは、伏見康治。
結果として学者から原発産業を補完することになった。
放射性廃棄物の問題は現在では周知されている。
しかし原発開発初期はそうではなかった。
伏見がインタビューを受けて
「物理学者として当時廃棄物をどう考えていたか?」と聞かれ、
「その頃はそんなこと考えていなかった。」と答えた。
自然科学の原理論では、環境との相互作用は最低限しか考えない
「公害」問題の半分は科学そのものの問題でもある。
「公害」問題が現れ、東大闘争の中でも「研究そのものの意味」にまで考えが至るようになった。

60年代の3大シンボル「平和」「民主主義」「科学技術の発展」に対する疑問が10年かかってようやく生まれてきた。
しかし「その後何だったのたか。」と問われると、返す言葉がない。
3.11原発事故が起こり、今や戦争とファシズム前夜のようになってきた。
若い頃は、戦前の人たちに、太平洋戦争が起こったことに対して、「なぜあの戦争とファシズムを止められなかったのか」と問いかけたが、今、10代20代に同じことを問われるんじゃないか、と思う。
官邸前に何度か行ったが、そこで10代20代の若者にこれを言われたら返す言葉がない、と思う。
何もやらなかったわけではないですが、結果的に3.11をもたらすことになった。
悔しい思い、情けない思いでいっぱい。
67年68年から50年も生きてきて現実と折り合いをつけながら生きてきて、今73歳ですが、心入れ直して、残りやれるだけのことはやりたい。
個人がばらばらにされているので個人的にしかでしかできないだろうが、個人的にできることをやらなあかんかなぁと思っている。
今日はありがとうございました。
【山本義隆さんのお話はここまで。】
その後懇親会で少しお話しをすることができました。

私が、「福島の原発事故をめぐって いくつか学び考えたこと」について、とてもわかりやすかった、と申し上げたら、「物理学者なら誰でも知っていることを書きました。」と言われました。
「これまで60年代のことをお話しにならなかったのに、この期に及んでお話しになったのは、やっぱり、今の状況を考えてのことですか?」とうかがったら、「水戸喜世子さんに強く頼まれたから。」とのお答えでした。
他の方の質問に対して、
「自分は当時からずっと政治音痴。よく『思想的に誰に影響を受けましたか?』と聞かれるが、特に誰かの影響を受けたことはない。その都度自分で判断してきた。」ともおっしゃっていました。
また、別の方のお話しでは「東大闘争の時、いろんな人がアジったが、声が大きいばかりで何言ってるのかわからないことも多かったけど、山本が話すと、意味がすーっと頭に入ってきた。」とおっしゃっていました。
私は学生運動の知識は、フォー・ビギナーズ・シリーズの「全学連」を読んだだけです。
でも大学には、色々な自治会や党派が活動していたので、友人たちから話しを聞いたり、立て看やチラシを見たりはしました。
印象に残っている言葉は、誰が言っていたのかは忘れましたが「日本で『平和を守る』と言うのはおかしい。日本の現在の状況は他の国の犠牲の上に成り立っているから。」ということです。
山本義隆さんのお話しには、私の知らない事件や団体などがたくさん出てきたので、調べながらまとめました。
ネットで検索したところ、10.8羽田闘争は、運動の転換点と言われているらしい。学生の運動が「素手」から「ヘルメットと角材」になったから。(ただし機動隊は昔から棍棒を持ってました。)
「ヘルメットと角材」が世間に流布されている「学生運動」のイメージ。そして「暴力」だったからという理由で「学生運動」を全否定する人も多いように感じる。私も非暴力がよいと思う。
しかし私は、山本義隆さんが提示なさった「平和」「民主主義」「科学」に対する問題意識はとても納得できる。また多くの人たちが徹底的に議論をした、というのはとても大事なことだと思う。
最後に。
所美都子さんを調べてみたら、こんな文があった。
「10・21のストを成功させるため何が自分にできるか考えてみた。
東京駅頭にプラカードを持って立つ。十七日から仲間が立ち始めた。
今日も夕方六時から入時頃まで東京駅八重洲中央口に立つ、明日も。
東京駅の群衆にもまれるなかで、自らのすり切れた反戦の肯志を再びよみがえらせ、それがその群集の中の火種となって育つことを夢み「一人であっても意志表示ができるのだ」ということが当り前となるように。」
(「東大ベトナム反戦会議」アピール)
お茶の水駅での花くばりは、所美都子の独創的なアイディアであった。プラカードを持って彼女一人雑踏に立ち、街行く人に花を渡す。主張を書いたビラも持たず、声をあげて呼びかけもしない。花を手わたされた人は、自分の頭で花とプラカードを結びつけなければならない。与えられた、ビラにかかれた「反戦の意志」ではなく、みずからの答えをださなくてはならない。彼女はそこから何かが生まれるかもしれないと信じている…。
50年近く前から、「スタンディング」をなさっていた方たちがいたのですね。』
以上、Iさんのフェイスブックから転載させていただいた。
山本義隆氏の講演のまとめ以外の部分もとてもいい文章である。
「10・8山﨑博昭プロジェクト」を通して、我々より若い世代を含めて、いろいろな方と繋がっていければと思っている。
<お知らせ>
山﨑博昭プロジェクトへの賛同依頼
プロジェクトの賛同人の申込みは随時受けております。下記アドレスからお申込み下さい。
「10・8山﨑博昭プロジェクト」 http://yamazakiproject.com
また、このプロジェクト」を支える事務局スタッフ(ボランティア)及びサポーターを募集しています。ご自分の出来る範囲で結構ですが、当面はワードやエクセルで文字を打つ作業などが中心になると思います。志のある方の参加をお待ちしています。プロジェクトを一緒に支えて行きましょう。事務局までメールをください。
メー ル:monument108@gmail.com
(終)
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