今回は、大分時間が経ってしまったが、昨年の9月28日に開催された「日大930会」の概要レポートである。
「日大930」会から開催案内が郵送されてきたのは昨年の7月頃だったろうか。。封筒を開けると、「公開座談会へのお誘い」と書いてある。あれ?確か昨年の930会では、今年は「救対」のことを取り上げるということだったように記憶しているが、違うテーマになったのだろうか?
「お誘い文」によると、「全共闘運動の時代を生きてきた全国の友人たちに、『日大闘争』をどのような出来事として見ていたのか、また日大闘争から何を受け取り何を考えたのかなどを、自らの全共闘経験とともに語っていただく公開座談会を開催することにいたしました。」と開いてある。
今回のテーマは「公開座談会-日大闘争は全国の全共闘からどのように見られていたのか」。
この「お誘い文」に続いて出席者の名前が書かれており、その中に何故か私の名前が!?
出席予定の方は東大全共闘のK氏、早大反戦連合(早大全共闘)のT氏、教育大全学闘のM氏、中大全中闘のO氏、いずれも歴戦の活動家の皆さんである。そして明大全共闘ということで私。
明大全共闘といっても、デモや集会に顔を出していた程度で、一般学生とさほど変わらない活動しかしていなかった私では、いかにも不釣り合い。他の方とは格が違う。そして決定的なのは、1968年の日大闘争をリアルタイムで見たり聞いたりしていないことだった。これでは座談会にならない。
そこで丁重にお断りのメールを930会事務局の方に送ったのだが、明大土曜会に930会事務局の方がやってきて、再度、出席要請があった。「68年のことを知らなくてもかまわない。相対的に多少若い世代の視点から語って欲しい」ということであった。
当日の参加費が無料ということもあり、公開座談会への出席を了承した。
明大土曜会の中でも、特に異論はなかった。
この「日大930会」概要レポートの前半と後半を、今回と次回の2回に分けて掲載する。
【日大930の会(前半) 2014年9月28日 文京区・本郷のホテルにて】
司会は日大のM氏。
「日大闘争の記録を出版しているが、今までは日大闘争の初期の事柄を中心に紙面を割いてきた。それは日大闘争の始まりの頃を探ることによって、どういうきっかけで日大闘争が起こったのか、そして日大全共闘はどういう作られ方をしてきたのか、という日大闘争らしさを表現できる部分だと思って初めの頃の特集をしてきた。
今日は私たちの日大闘争が何だったのかということを話し合っていくにあたって、その入り口として、日大闘争が私たち以外の人からどう見られていたのかということを検証してみようということになった。
930の会は主に日大の仲間を中心に集まり、日大闘争を経験した人を軸に話を進めてきたが、今回は少しレンジを広げて、日大闘争が外側からどのように見られていたのかを5名のゲスト・スピーカーの方に語っていただく。
では、順番に自己紹介をお願いしたい。」
<ゲスト・スピーカーの自己紹介>
東大全共闘 K氏
「この会には日大全共闘結成40周年の時に来た。何故、会に出席することになったのかというと、NHKのBSの番組で戸井十月さんのインタビューでTVに出演したこと。私は末端活動家なので、こういう場に出て来ていいのかなと思うが、前回は東大安田講堂の隊長だった島さんが来ていたので付録みたいな気分だったが、今日は島さんがいないので、よろしく。」
早大反戦連合(早大全共闘) T氏
「930の会とは、この間、一緒にやらせていただくケースが多い。全共闘白書作成の前後から日大の方と会って話をするようになった。プロジェクト猪で活動している。自治労本部に勤めて、定年後は『ふるさと回帰運動』を現在やっている。この『ふるさと回帰運動』が早稲田の全共闘運動の延長線上にあることを公言している。」
明大全共闘Y
「69年明大入学なので、68年の日大闘争のことはリアルタイムで分からない。930会への出席は一度は断ったが、年齢が比較的若いということで出ろ、ということなので、それだけで出席させていただいた。」
教育大全学闘 M氏
「元旧教育大ということを最近肩書きとして書いているが、東京教育大がなくなったので旧教育大と称して、それの出身なので元旧教育大と書いている。
65年入学で、文学部自治会闘争委員会副委員長だった。文学部の常任委員を務めていた時に、正副委員長は民青で常任委員は反代々木系だった。呉越同舟の時期があったが、正副委員長が出て来なくなり、文学部自治会闘争委員会を作った。
2007年に同人誌『置文』で大学闘争の回顧と総括の事業をしようという呼びかけをしたら、それが日大の方の目に留まって、それからこの会にも毎回出させていただいている。 去年『大学闘争45周年記念フォーラム』を行い、日大の方々にも参加していただいた。
この時の報告をパンフレットに作ったので、購入していただきたい。」
中大全中闘 O氏
「1965年に中大Ⅱ法に入学。昼間働き夜学ぶということですが、霞が関役人、都庁役人が半分以上いた。あとは昼間の法学部を目指す人など。
中大は昼間は社学同で夜は民青。全中闘の主流派は社学同で、非主流派として共学同で活動していた。67年に行われた中大学館自主管理闘争に勝利し、67年末から68年にかけて学費闘争が行われ、68年2月に全面勝利しバリケードを自主撤去した。そんな中で日大闘争が起こった。」
(1968.9.7神田三崎町)
司会:日大M氏
「今回は比較的レンジを広げて集まりを持つことなった。主にこの集まりでは日大闘争を軸に話を進めていく。それは1968年の出来事であり、全共闘でありということで、全共闘とはどういう運動であったのか、1968年はどういう時代だったのか、それと私たちの今との繋がりがどういうものだったのかを含めた議論になっていくと思うが、できるだけ実感的な形で、私は日大闘争をこう見ていた、あるいは知り合いが日大でこういう闘争をやっていましたという具体的で実感的な話を入り口にしていきたい。」
(2年前の930の会に参加して発言された「福島原発行動隊」の山田さんが、7月に亡くなられた。山田さんを含め、この間亡くなられた全共闘の方に対し1分間の黙祷を行った。)
東大全共闘 K氏
「68年6月は日大だけでなく東大でも闘争が大きなうねりになった時で、私の記憶に大きなものとして残っている。新聞TVで日大闘争を知った。日大に関しては、日本で一番大きいマンモス大学で、かつ学生自治会もないという、我々の抱いていた大学のイメージとは違う雰囲気の大学だった。6月に様子を見に行った時、数が圧倒的に多いことに驚かされた。まさに白山通りを埋め尽くして、皆笑っているような 嬉しいことがあったような感じだった。67年10・8羽田闘争で山﨑君が殺されて、私自身も何かやらなくてはいけないと思っていた時期だった。
東大では医学連が安田講堂を占拠して、当時の大河内総長が機動隊を導入して排除したということがあった。それに対して機動隊の導入を糾弾するという運動が始まった。
東大の社会問題に感心がある学生の中では、日大でとうとう始まったのかという感じだった。日大は学生の自由な活動が抑制されて、学ランを来た人たちがカッポしているというイメージがあったが、そういったものが一気に変わって、正に革命的状況という印象を受けた。私の経験では、何が革命的だったかというと、日大闘争の大衆的広がりと嬉しそうな雰囲気で、世界の若者たちの騒乱と通じるイメージがある。
具体的な日大との連帯は、11月になってから。11・22で日大全共闘の皆さんが東大の本郷キャンパスに大挙来て下さった。確か到着が遅れたと思うが、安田講堂の前の広場を日大全共闘用に開けていたところに、暗くなってから意気揚々と入ってきたことを記憶している。安田講堂のバリケードの強化や駒場での闘いなどでは、日大全共闘の方には本当にお世話になった。東大全共闘は日大全共闘をお世話したこのはないと思う。そんなことで今日は出てきた。」
(1968.11.22東大安田講堂前)
早大反戦連合(早大全共闘) T氏
「早稲田は65年66年に学費闘争があって、68年ころに文連の主導権を巡る解放派と革マルの争いで、駒場に解放派が追い出された。そういう中で日大、東大闘争が起きる。早稲田はどうするということで、68年夏以降 各学部から有志が集まり「反戦連合」が作られていく。ある程度の数が集まって、革マルとゲバルトをやっても恰好がつく段階で表に出た。69年の2・7集会で4~500名で学内に初めて登場した。そこに日大の田村書記長が来て連帯の挨拶を行った。革マルのしめつけが厳しくて、下宿にいても襲われるような状態だった。党派の連中は革マルが来ると逃げるが、反戦連合は革マルとぶつかる。そうでなれれば学内で集会ができなかった。学内的には全共闘系の運動体の登場を心待ちにしていた部分もあって、結構な人たちが集まってきた。折にふれて日大とは連携して、文理には何回か行った。初めてヘルメットを被った日大の人たちに会ったのは新宿東口のカンパ。日大の人たちはうれしそうだし、誇らしげだった。学生運動は大衆運動だから、ニコニコ笑ったり誇らしくないと、人が寄っていかない。
田村とはその後もずっと付き合っていた。いろいろと思い出がある。あと、早稲田で全都全共闘の集会をやった時、夜、法学部の民青を襲ってたたき出して法学部を奪還した。その時、どうしても壊せなかった民青のバリケードを芸闘委が取り囲んで、あっという間に解体して整理した。改めて日大の芸闘委のすごさにひれ伏した。」
(1968.5早大構内)
明大全共闘Y
「69年に明治大学入学。ということで68年は高校3年生でノンポリ高校生だった。日大闘争はテレビで観ていて、大学って大変なところだと思っていた程度。69年4月に明大に入って、最初に大学に行った日が全学ストライキだった。これは、日大全共闘の闘いの影響で、駿河台の明大学館に機動隊が乱入して無実の明大生が暴行されたり、逮捕されたことに対する抗議のストライキだった。大学の最初の日が授業ではなく、大衆団交だった。
和泉の学生会館運営委員会に入っていた。学館には日大の方もたくさんいて、場所的に日大の方をお世話したというか、受け入れたと思う。日大の文理の方が多くいて、私の知り合いの文理の方に話を聞くと、私より食堂のメニューをよく知っていた。当時の和泉は明大というよりも、明治大学日本大学みたいな感じで、非常に日大の方が多かったような記憶がある。
(会場から「学館の1階と地下は日大で使っていた」という発言あり)
70年以降、Nプロの方と付き合いがあったと思うが、詳しく記憶していない。73年に新宿警察署の前の『秀新』という経済のKさんがマスターをやっていた店でアルバイトをしていた。その店にも日大の方が来ていて、そこでも付き合いがあった。」
(1969明大和泉学生会館)
教育大全学闘 M氏
「私は直接日大の方と接触したことが少ない。68年6月から69年2月まで教育大の闘争があったが、初めの頃は弾圧を受けるとか民青と激しくやり合うことがあまりなかった。
他の者が外に支援に行くことはあったが、私は65年入学で党派の責任を担う立場でもあり、バリケードの中で留守を守る役割を行っていた。その後、69年2月にバリケードから撤収した後は逮捕状が出たので、1年間逃げ回った。
バリケードの中で留守番している生活と、逃げ回っている生活だったので、日大の方と接触する機会はなかった。
日大の闘争は新聞で知ったが、68年の6月7月の頃のことは印象に残っている。私たちから見ると、学生運動とあまり関係のない方々も立ち上がっている。これは何か新しいものが出てきたのかなという気持ちはあった。同時に、我が教育大もそれに間に合ってよかったという感じだった。大学に入って学生運動に関係するようになって、先輩から『学生運動の御三家というのを知っているか』と質問されて、『それはどこですか』聞いたら、『早稲田と東大と教育大だ』と言うんです。御三家であるならば、自分が学生運動に関わろうと思っている以上、あまり恥ずかしいことは出来ない、それなりのことはやらなくてはいけないという意識があった。
例えば、教育大ですぐに出てくるのは ハガチー事件。60年安保の時にアイゼンハワーの来日の下見で、ハガチーが羽田に来た。それに対して全学連の反主流派が迎え撃ちのデモをやってハガチーの乗った車を包囲したため、ハガチーがヘリコプターで救出されたという事件です。その後すぐに、権力は教育大に踏み込んだということがあった。そのように教育大はいろいろな運動をやってきたという思いがあるが、私が入った65年に文学部が日共民青に乗っ取られてしまうということがあった。それをきっかけに、我々のグループは凋落していく、それをどう食い止めるかということが私の大学生活の大きな部分を占めていた。それと、大学解体・破壊の策動が動いていた。東京教育大を解体して文部省立的な大学を作ろうという構想があって、67年に移転が決定された。当時、日共民青が指導部だったので、有効な反撃の闘争が出来ず、ピケット・ストも崩壊してしまう。68年にそれを挽回する闘争があった。68年の6・7月にバリストに突入できてよかったと思た。フランスの5月革命を始めとする闘争の一端に付くことができてホットしたというのが正直な印象だった。
あと、日大の闘争と教育大の闘争は非常に対極的であるということ。日大の人たちは陽気に楽しくやられているということに対して、教育大はそういう雰囲気の闘争は出来なかった。67年で移転が決まってるので、それをどうやって引っくり返すのか、というところに追い込まれており、権力は教育大を潰そうと思っている。権力の強い意志と、学内でのそういった意志に同調する勢力の力があり、一方で日共民青も力を持っており、反対闘争をするが、過激なことはやらない。ピケット・ストどまりで実質的な力にはならないという状況だった。沈鬱というか、非常に苦しい闘争になっていった。
もう一つは、党派と大衆の関係が非常に違うということがある。外からは自然成長的な大衆の爆発というように見えていた。教育大の場合は、10のうち6が党派的な割合で4がノンセクト・大衆の割合ではなかったのかという感じだった。もちろん小党派だから大した指導もできないが、そういう運動構造が大分違うということがあった。
三番目は、教育大は日共民青との対峙関係が非常に強いということ。60年安保からの経緯があり、全学連の反主流派が日本共産党と近かったが、反主流派が60年代初めに分裂して、いわゆる構造改革派が日共民青から飛び出すということがあった。その時に教育大は殆どが飛び出した。それは日共中央にとっては衝撃だったと思うので、それをまき返すための彼らの策動は大変なものがあった。日共民青とゲバルトをやることはあまりなかったが、日共系と反日共系の抗争の陰湿さは想像できると思う。教育大と日大を闘争を対比的に見てみると、日大闘争のいろいろな面が浮かび上がってくると思う。
闘争の衰退期のことをお話すると、教育大から追い出されていたが、日大のテロ・リンチが凄まじいという噂が飛びかっていた。
それから全国全共闘連合のことです。全国全共闘連合の結成にいろいろな問題があったということは、この間、議論されているところですが、教育大の人間としては、全国全共闘連合が結成の第一派闘争として教育第奪還闘争をやっていただいたことは、すごく恩義に感じている。教育大はそれまで他のところから恩義を受けたことがなかった。その時は日大の方にも来ていただいて、大いに力づけていただいた。お礼を申し上げたい。
最初は日大闘争と教育大の闘争を比べて異質感みたいなものはあった。教育大の筑波移転反対闘争は特別と思っていた、しかし、日大の9・30の大衆団交の後、いよいと権力と対峙することになった時に、急速に同質感を感じた。日大の場合は大衆団交が持てて、要求がぶつけられて、一時的には回答が得られた。教育大の場合は全く妥協がなかったので、正直、羨ましかった。」
(1969.9.16教育大正門前)
(次回に続く)
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