今回は、前回に引き続き、昨年の9月28日に開催された日大930会「公開座談会-日大闘争は全国の全共闘からどのように見られていたのか」の概要レポートの後半部分を掲載する。
なお、後半部分はゲスト・スピーカー発言後の質疑の部分も含めると長くなるので、質疑の部分は、更にもう1回、「質疑編」ということで次回に掲載することにした。
したがって、この日大930会公開座談会概要レポートは3回シリーズとなる。
では、後半の部分、ゲスト・スピーカーの発言の続きである。

(会場写真)
【日大930の会(後半) 2014年9月28日 文京区・本郷のホテルにて】(前半でゲスト・スピーカー4名の発言があった。)
中大全中闘 O氏
「中央大学第二部でした。中央大学第二部というのは、60年安保の時は全学連反主流派の教育大、中央大学二部、早稲田文学部という学生運動の伝統あるところだった。しかし、私が入った65年には残念ながら民青に自治会が全部握られていた。その中にいた構造改革系の人たちは崩れてしまっていた。
中央大学は大学問題を中心にするという流れになっていたが、私たちのグループも学生運動をもう1回再構築するためには、政治課題、街頭闘争だけではダメで、大学の学内問題を取り上げて学生層全体に訴えていくということで、そういうものの先駆け的な闘いとして学館学費闘争があって、68年2月に学費値上げ白紙撤回という地平を開いた。
この流れを全国の学生運動に広げていきたいと思っていたので、68年5月に日大闘争が始まった時は、中大は近くにあるので、感動したと同時に興味深く思った。大学の在り方というのは、学生の決起の大きな課題になるという確証を持った。その中で我々の党派の活動家も獲得しなければいけないということで、しょっちゅうこの日大の闘争には出かけていた。ところがどこの党派が主導しているのか、そこも分からない。そこを見抜けないと入って行けない。
そういう中で感じたのは、中大闘争は終って正常化している、そういう中で、68年5月になると東大、教育大、日大と新しくバリケード・ストに入ってくる。そういう中で中大では2月の学費闘争の時にブントと大激論して、ブントは『このまま70年安保までバリケードで行くんだ』という方針を出した。これは学生大衆には通らない。闘いは一旦閉めようということで、またいろいろな問題を抱えて闘争をする、その時にどういう風に持っていくのかということは、今から考える正直無かったと思うが、本来であれば、その段階で東大、日大、教育大連帯ストライキというスローガンでもよかったのではないか。そこまでの政治力が弱かった。国際的な労働運動を見れば、どこかの工場がストライキに入れば、他の工場も連帯ストに入る、そういうものが問われていたと思う。神津さんの本にも『中大もバリストに入れ』ということを言われたと書いてあるが、、バリストをやるには課題、大義がなければいけない。その大義をどうするかということが、学費値上げ白紙撤回の後の闘いをどうするかという中で、バリケードを解除しようと言った我々にも問われていたものだと思う。
9月30日の大衆団交の時は、私は図々しくもあの団交に参加していた。壇上の一番隅に、いかにも日大の学生のような振りをして、そこに座って一部始終を見ていた。調印が行われて勝利した。私はこれは第二の中大だと思った。これでバリケードを解くだろう。中大の学費値上げ反対闘争の勝利の段階と同じような気分になって帰ってきたが、翌日に佐藤首相の介入があって白紙撤回した。日大闘争を権力闘争にしたのは政府側である。大きな節目は9・30だったのではないかと感じた。
三番目は、11・22。我々は全共闘の連絡会議・共闘を作ろうということで、一つは全学連が党派別に分裂している中で、学生戦線を統一するには、全共闘という組織体の連合という方向しかないのではないか、そのための大きな一歩が日大・東大闘争勝利全国学生総決起集会だった。当日、夕闇迫る中での日大部隊の登場というのは、映画になるような感動的な場面だった。どちらかと言うと、東大全共闘にしても対民青の戦術的な位置づけであって、戦略的に、これを機会にいかに全都の全共闘運動の連絡会議を作るとか、そういうところまでいかなかった。
東大安田講堂攻防戦が終わってから、5派でやっていた党派の調整会議が8派になって、その段階で初めて全国全共闘の組織を作ろうということになった。準備をして7月に全国全共闘活動者会議をやって、9月5日に全国全共闘連合を設立した。
代表が山本さんで、副代表が秋田さんで、あとは8党派の代表が事務局職員ということで、私も事務局職員としてやっていた。今から考えると8派共闘を越えるものではなかった。
9月17日に第1派として教育大奪還闘争をやっていただいたが、11月の佐藤訪米阻止闘争の時には、全国全共闘連合は機能していなかった。各派とも党派軍団でやった。そういう流れの中で全国全共闘連合が不十分なままで行ってしまった。
私は広い意味の大学闘争ということでは、日大も東大も教育大も同じだと思う。それが全体として大学をどう変革していくのかという綱領的なものが出来ていない段階で、各個別闘争の煮詰まりの中に行ってしまったということに問題があったのであって、大学変革、大学闘争という範疇の中に日大も東大も中大も全部含まれているのではないか。
ですから、68年の闘いは、大学闘争という範疇の中で、その生成、発展、ぶつかった壁というものを総括することが今でも必要ではないかと思っている。」

(1968.2中大大衆団交)
司会:日大M氏
「5人の方から日大とどういう形で接触してきたのか、日大闘争をどう見て来たのかについて発言をいただいた。会場に来ている他の方からも発言をもらいたいと思う。
明治大学も中央と同じように闘争課題をどうするのかということで、全共闘がどういう形で出来たのか発言をもらいたい。」

明大Y・R(会場から)(68年学生会中執委員長)
「明大全共闘ですか?私は明大全共闘の時にいないので、今回、彼(Y)に出てもらった。全共闘ではなく党派の人間として69年の東大安田講堂で逮捕されているので、明大全共闘結成や9・5全国全共闘結成の過程にもいない。」
明大全共闘Y
「明大全共闘は69年6月に結成した。私が作った訳ではないが、69年4月に駿河台の学生会館に機動隊が入ってきて、それがきっかけで大衆団交があり、全学的な盛り上がりがあり、学内的には学生部の廃止とか農学部再編反対とか学館の自主管理とか大学立法粉砕など六項目の要求を出して、6月に学生大会をやってスト権を確立して、並行して全共闘を結成した。学生大会で、これからの運動は全共闘に一任していくという形で、全共闘が自治会の運度の範囲ではなくて、全共闘の運動としてやっていくことが承認されてやってきた。6月にバリストに入ったが、10月初めに機動隊が導入されてバリストは解除された。元々、明大全共闘も党派主導で、党派が7から8、残りがノンセクト(一般)という割合だったので、ブント内あるいは党派間、ML派と解放派の内ゲバなどがあって、70年に入ると全共闘は実質的に解体していった。
(筆者補足:全共闘結成に至るきっかけとして、69年4月の日大全共闘の闘いに伴う駿河台学生会館への機動隊乱入があったが、これはあくまでもきっかけであって、それがなくても他のきっかけがあれば、それによってバリストや全共闘結成に至ったと思う。それだけ情勢が煮詰まっていたということだろう。なお、69年6月に結成された明大全共闘は、一部(昼間部)の全共闘であり、二部(夜間部)は別組織として、7月に全二部共闘会議を結成した。その後、9・5全国全共闘結成を前に、一部と二部の全共闘を統一した全明全共闘結成に向けた動きがあったが、ブントとML派の組織論の違いにより決裂。結局、ML派と中核派主体の全明全共闘が9月に結成されたが、、ブントと解放派、ノンセクトの大部分は参加しなかった。全共闘が解体し、70年6月以降、運動は停滞期を迎えるが、72年に明大新聞学会闘争を闘うノンセクトを中心としたマップ共闘が結成された。ここに明大全共闘の総括を踏まえた運動の遺産が受け継がれたと考えている。)

(1969.6明大全共闘結成大会)
司会:日大M氏
「学内問題があって大衆運動があって全共闘が結成されたのではなく、どちらかというと政治的なスローガンが全面に出て、俺たちも遅れるなということで全共闘が結成されたということですね。」
【会場に来ていた「福島原発行動隊」のS氏(60年安保社学同委員長)から60年安保世代から見た日大闘争について話を伺う】
司会:日大M氏
「闘争が日大で起こったということは、どんな形で知ったのでしょうか。」

福島原発行動隊 S氏
「当然、ニュースなどで知りました。私は60年安保闘争を闘いまして、61年の末に最後にいたのは革共同ですね。当時全学連委員長をしていた唐牛健太郎と、私は社学同の委員長をしていましたが、この2人は運動を離れた訳です。その時、私も唐牛も考えたことは、すでに革共同とブント、全学連主流派を指導していた政党が分裂をして、お互いに理論闘争で済めばよかったんですが、角材を持ち出した暴力的な闘争になりだしたところだった。自分たちは、これは何かおかしいんじゃないか、帝国主義と闘い、共産党と闘うということで血盟の約束をして発足したブントだったんじゃないのか。これが内部分裂をする、これは仕方がない。分裂してもお互いが理論的に闘うというのならいいんだけれども、これが暴力を持って闘い出したということに対して、自分もその暴力に手を染めて、これは何かおかしいということですね。別に理論的根拠がある訳ではないんですが、自分たちはエリートだ前衛だ、これを言っている限り、俺こそが正しい、あいつは間違っている、間違った奴は反革命、こういう理屈になる前衛意識そのものに間違いがあるんじゃないかと言って、私たちは運動を離れる訳です。
私はそれから神戸の港湾労働、山口組の田岡さんが社長をしている会社に入って、港湾労働者の中に入る、その後は埼玉県の工場に行って共産党と掴み合いのケンカをするといったように労働運動ばかり歩いて行った。68年9月30日は、夜の工場でそういうことをやっていました、連日、赤旗に叩かれてやっていたことを覚えています。
そうした党派とか前衛意識とか、そういうものから離れた日大の闘争は、そういうものとは無関係なものだなと、本当に新しい学生たちが自分たちで闘争を盛り上げて行く、とても素晴らしい闘争だなと、唐牛とも話をしたのを覚えています。大変新鮮に見えました。
60年安保闘争の時は日大の自治会の旗を見た覚えはないんですね。活動家として日大芸術学部の学生とのお付き合いはありましたが、日大がまさか学生運動をするとは60年当時は思っていなかった。
縁が無いと言えばウソで、実は共産党と闘うためには、相当こちらの態勢を強化しなければいけないということで、日大の空手部の人と非常に親しく、空手部が組織として当時のブントにやってきては、空手その他で社学同などの行動隊を教育してもらうこともありますし、いくつかの全学連の大会には日大の空手部の人に大勢来てもらいまして、共産党が攻めて来るのに準備をするということがありました。先ほど、東大の中で民青の宮﨑君たちの団体のことが出て来て、学生でなくて大人が出てきたと言っていましたが、共産党の行動隊というのは力があると覚えていますが、幸い日大空手部の前には共産党も現れませんでした。60年安保闘争においては日大とのつながりはそのくらいしかありません。
私は労働運動をやっていましたので、日大の現場を見に行くことは出来ませんでしたが、唐牛の方は東大の闘争にお手伝いをしたいと思って動いていたようです。私は年寄りが出て行く場合じゃないから止めた方がいいんじゃないかと言いましたけれど、そんなことを覚えています。あの全共闘闘争というのが、日本の学生運動にしっかり根を下ろして活動した。これから、いつかまた学生運動が盛んになるとしたら、やはり同じように全共闘というスタイルの闘争になるんだろうと僕は思います。今、党派党派と言われておりますが、党派が主導するようなものは党派のための学生運動であって、全共闘は自分たちのための運動だったんだなと思います。(後略)」

(1968.9.30日大講堂での大衆団交)
(ゲスト・スピーカーの発言の後、会場から質問が出されたが、この部分は次回に掲載する。)
以上、昨年の9月28日に開催された、日大930の会「公開座談会-日大闘争は全国の全共闘からどのように見られていたのか」でのゲスト・スピーカー発言の概要を2回にわたり掲載した。
日大全共闘は他大学全共闘からどのように見られていたか・・・やはり、この人の発言が日大全共闘に対する正当なかつ最大の評価だろう。
この公開座談会の1週間後、品川区の「きゅりあん」で10・8山﨑博昭プロジェクト「講演と映画の会」が開かれ、山本義隆氏(元東大全共闘議長)の講演があった。
山本氏は講演の中で日大全共闘について次のように発言している。

山本義隆氏
「その点ではね、本当にね、初めのうちは(東大では)共闘会議と言ってたんですが、そのうちに全共闘という言い方、これは日大から輸入したんですけどね、あれ、全共闘と言ったのは日大なんですけどね、本当の意味で全共闘を作ったのは日大です。これは文句なしに本当に。単に日大全共闘というのは武装した右翼とのゲバルトに強かっただけじゃないです。
本当に、あのね、学生大衆の正義感と潜在能力を最大限発揮した、最大限組織した、ボク、あれは戦後最大の学生運動だと思います。今でも、あれ、考えるとナミダ出てきます。
ホント、そうです。ボクは、東大全共闘はものすごい恩義があるのです。借りを作っているのです。返しようもないけど、ホントすごいです、本当にそう思います。」
(日大のJUNさんによる書き起こし)
※この山本義隆氏の講演の動画は、以下のサイトでご覧になれます。
「10・8山﨑博昭プロジェクト」 http://yamazakiproject.com
(次回「質疑編」に続く。)
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