今回は、2週にわたって掲載してきた日大930会「公開座談会-日大闘争は全国の全共闘からどのように見られていたのか」の概要レポートの最終回である。
座談会の後半、ゲスト・スピーカーの発言の後、会場から質問が出され、それに対する質疑の部分を「質疑編」という形でまとめたものである。

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(看板写真)


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(会場写真)

【日大930の会(後半・質疑) 2014年9月28日 文京区・本郷のホテルにて】
(ゲスト・スピーカーの発言の後、会場からの質問に対する質疑)

質問(会場から)
「9・30団交の後、佐藤発言を受けた首相官邸包囲デモが何故できなかったのか。それを日大全共闘が提示できなかったこと、そして皆さんに協力をいただけなかったこと、その辺を5人の方にご意見をいただきたい。」

中大全中闘 O氏
「これは党派の中に非常に複雑な微妙な心理があったと思う。中大の最後の問題はその最初の表れだったと思う。」

早大反戦連合(早大全共闘) T氏
「党派の話はいいんじゃないの。」

中大全中闘 O氏
「その問題があって、向こうが反古にしたというのは、ある意味で権力闘争という観点からすれば、一つのそういう心理なり意識も働いたことだと思う。その微妙なところがまだ運動の中に残っているテーマとしてあるのではないか。」

司会:日大M氏
「大学闘争が直接的な政治とどう向き合うかということで言うと、日大闘争は、まだそれに向き合う体つきになっていなかったことは事実だと思う。直接の問題でストレートに機動隊とぶつかったけれど、私どもとしては、直接政治と向き合うということはテーマとしてなかったと思う。」

早大反戦連合(早大全共闘) T氏
「一般的にはどんな感じだったんですか。大体ああいう風になれば、じゃあ敵は誰だとハッキリ見えてくる。そうしたら、それに対して抗議・行動なり、国会包囲デモ、官邸包囲デモという方針は全共闘でも出るわな。」

司会:日大M氏
「出せないということは無かった。日大闘争のスローガンは、古田を倒せなどいくつかのスローガンに代表されるものでしたから、それを突然明日、佐藤首相の発言があったからといって首相官邸のデモになるかといったら、それはなかなか馴染まなかったのだと思います。」

質問者
「むしろ党派が指導してやるべきだった?」

司会:日大M氏
「日大は党派はそんなに強くないですよ。」

会場から
「セクトの刈り上げで日大全共闘は潰れたんじゃないですか。佐藤がああいったことを言ったということが、日大生は一瞬だったから理解できなかった。何故、佐藤自身がそんなことを言ったのか理解できなかったからです。」

司会:日大M氏
「そういう流れになったのかなという感じはしたんじゃないか。個別学園闘争の問題だと思っていたら、いや、意外にそういう問題ではなかった。だからあんなに機動隊と激しくぶつからなければならなかったということも含めて皆の中にあったのではないか。僕の中にもありましたが、それが直接政治と闘うことと結びついていなかった。」

質問者
「勝利した者は勝利した決着を付けなければダメなんだよ。何故官邸包囲デモくらいできなかたのか。これからも全共闘運動をやっていく上で同じ問題が起きる。中途半端にやったらまた負ける。」

日大T氏
「後で分かったことだけど、翌日、あるセクトの人間に『いつバリケードをはずしますか』と聞いたら、『大学側が昨日の約束を完全に守るという確約するまでバリケードははずさない』と言った。僕はそれを言われた時点ては感心した。実はそうではなかった。その党派は70年までバリを引っ張ろうとしていた党派だった。所詮、セクトは我々を利用することしか考えていなかった。日大闘争が敗北したのはその辺に原因があった。次回、日大闘争が始まったら、その辺は気を付けてやろうじゃないか。」

早大反戦連合(早大全共闘) T氏
「次回の日大闘争の為に、今日ここで皆で集まって、45年前の話をしている訳だよね。
官邸を包囲しても勝てないと思う。でも、せめて包囲する、それでまた挫折する、それで起ちあがる。だから、先ほどの話にもあったように党派は大衆を利用する、党派を拡大するために草刈り場にする、党派のサガですね。ですからそういうものとして対応すればいいし、早稲田の場合は、革マルと状況が厳しくなるとセクトは皆逃げるわけだよ。残るのは反戦連合だけだよ。それで革マルにつかまって、僕も数か月入院したことがあった。
そういうものとして付き合えばいい。僕らは下の年代にキッチり伝えて行く。例えば労働運動を35年やってきたが、最近の若い連中は使い物にならない。それはどういうことかというと、学生運動の経験がないから。運動を組織したり、要求書を作ったり、デモをやったり、そういうことも知らずに、パソコンに向かっていたらこれで運動が出来るみたいなつもりでいる。これじゃ全然ダメ、それが現実です。」

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(1968.9.30「叛逆のバリケード」より)

司会:日大M氏
「日大闘争を巡って、今のようにそうすべきではなかっただろうかと見ていた人がいたというのは、我々の日大闘争に対する一つの意見であることは間違いない。
何故、佐藤発言の後、国会包囲しなかったのか、そういう方針が全く出されなかったことについて、例えば副議長だったYさんに聞いていいのか分からないけれども、全学共闘会議の全体会議でそういう議論がなされたことがあるのでしょうか。」

日大Y氏(副議長)
「肩書は全共闘副議長だったけれども、私の個人的な事しか言えないが、9月30日と10月1日はすごい転換点で、私は両国講堂から歩いて法学部まで戻りました(会場から「電車が無かったので皆歩いて帰った」という声あり)。気分としては意気揚々として帰った。
それで10月1日の発言があって、個人的には次の手は何を打つのかとか、頭が真っ白になったのではないかと思います。先ほどから話があった11・22とかは、私はパクラレて11月は20日間ほど神田警察署にいて、11月22日の(東大の)銀杏並木のことろに日大生が千名とか二千名集まってすごかったという話を聞きまして、結果論ですけれども、10・1の佐藤発言に抗議の意思を持った学生が東大の前に集まったとも解釈できると思います。
頭が真っ白になったまま、1969年の1月を迎えたという感じで、全共闘の幹部の中でどうするのかという話し合いがあったかどうかは殆ど記憶にない。」

司会:日大M氏
「敢えて聞きますけれども、政治党派から指導はなかったんですか?」

日大Y氏(副議長)
「私は一応ML派だったけれども、そういう指導を受けた覚えは一切ない。ML派も法学部や経済や文理学部にオルグを派遣してやっていましたが、最終結論は『Y、お前はどうも使えない』と言われたことは覚えています。」

司会:日大M氏
「Mさん(芸闘委)はどうなんですか。」

日大M氏(芸闘委)
「結論から言うと、官邸デモなんかやらなくてよかったと僕は総括している。実際、全共闘でもそういう論儀は全く出ていない。9・30があって、佐藤発言があって、3日の2回目の団交で拒否される訳です。この過程の後も、実際に勝ったという実感を持っている訳です。全共闘の実体を残して、いずれバリケードが無くなって、大学を実体取れるかどうかという論議は何回もした。どういう風にするか、学生会館みたいなものを取らなければいけないだろうとか、いろんな話はしていたけれども、政治闘争に行こうという話はしていない。どういう風にして全共闘の組織を作ってきたかというと、全共闘は日大闘争のスローガンを実現する組織です。この全共闘を政治党派が引っ張り回さないということ、約束というか明文化したものではないが、各党派が政治闘争は自分たちの部隊を連れて行く、全共闘という形をとらないで行くべきということになっている。中核派はマル学同中核派日大支部という旗を持っていく訳です。ML派は解放戦線という旗を持っていく訳です。ただ、全共闘が政治党派と同じように動くということはしない、という不文律があって・・・」

早大反戦連合(早大全共闘) T氏
「それは一つのあり方だよね。」

日大M氏(芸闘委)
「これを守ってきたから、党派もそれを守ってやってきたから、68年の段階での日大闘争は保持できた。何で全共闘がそういう求心力があったかというと、全共闘が解体したら日大では右翼に勝てないんですよ。敵が目の前にいるんです。その頃は芸術学部で右翼とぶつかる前ですから、必ずどこかで(右翼と)ぶつかると皆知っている訳です。これに勝つためにも全共闘を傷付けたらダメということを党派の人間も皆知っているんです。
だからそういう論議にならなかった。政治闘争なんか止めた方がいいんだって。」

司会:日大M氏
「確かに10月1日の佐藤発言で、私の所属していた3年生闘争委員会での話の中では、本当に勝利するためには、もしかしたら政治と向き合わなければいけないのかもしれないという議論は、話としてはしました、ただ、我々が何をするのかという時には、例えば一番象徴的だったのは、10・21国際反戦デー、ああいう政治的テーマの時にはわれわれは全共闘としていくのは止めよう、個人で参加しよう、全共闘は政治的テーマについて取り組むべき組織・運動体ではないという了解の中で全共闘をやってきた。」

日大M氏(芸闘委)
「もう一つ、芸術学部で起こったことですが、元々革マルだった人たちが中心のグループが、学生権力ということを出してくる。これは元々書記局グループが言いだして、それは9月でものすごい爆発が起こって、それを見て急に左ブレしたのか、そういうことを言い出した。ところが学生権力ということ自身には理論付けできなくて、結局、第四インターと結びついて、というのはインターの書記局の人が芸術学部に泊り込んでいたので、それの意見について行って、日大闘争が越えて行こうという論議がいっぱいあったんです。
政治化しようという論議もあった。だけど、全共闘自身ではそれを取り上げなかったということです。」

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(会場写真)

日大N氏
「10・1の佐藤発言があって、一時、日大全共闘が方針を出し切れないことがあったと思うんですけれども、68年の11月頃には9・30確約事項の内実化ということを言ったと思うんです。具体的に学生会館を獲得する委員会とか、生協設立準備員会とか、そういうのを打っていって、そいうスローガンを揚げて進んで行ったと思います。私は生協の設立に関わって明大生協に大変お世話になって、補助金をいただいたのに踏み倒したんですけれども、それがどうにか方針として持ったのは(68年の)暮くらいまでです。暮れになってくると、今度は向こう側が疎開授業を始めて、それを潰しに行くので忙しくなってしまって、内実化の運動の組み立てが殆ど出来なかった。そのまま69年に流れこんで行ったという経過があったと思います。」

会場から
「違う話ですが、1966年くらいだったと思うんですが、佐藤栄作の翼賛組織で日本総調和連盟が出来る。1967年の秋に日大のオール体育祭というのがあるんです。僕はそのために盆踊りを練習させられた。その盆踊りは、当時人気絶頂だった橋幸夫が歌っていたんです。今でも踊れるかもしれません。10・1の佐藤発言といいますけれども、それ以前にずっと古田重二良は相談していたはずなんです、その流れの中で、もっとも政治意識を出したのは日大なんですから。私の感覚は全く勝ったと思っていなかったし、嬉しくも何ともないし、次の日に佐藤さんが発言した時も普通なんです。当然なんです。だって親方は佐藤栄作なんだから。だから皆さんの感覚と大分違うなと思った。私の感覚からすれば普通なんです。当然です。古田重二良は(佐藤栄作の)子分みたいな形で来た訳ですから、ある意味で企業舎弟。佐藤栄作の発言によって何も驚くことはないし、あれから始まったというのは僕の日大闘争なんです。皆さんと分析の仕方が微妙に違うと思った。」

司会:日大M氏
「国会包囲はどうなんですか?」

会場から
「国会包囲だろうが学内だろうが、相手は国家権力だと思っているから、それは単なる戦術の問題で、しようがしまいが大した問題ではないと思う。」

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(会場写真)

日大T氏
「私も付属の体育会出なので補足しますが、日本(にっぽん)会という会があって、総裁が佐藤首相。日本の精神を日本に反映または浸透するということで、ポツダムの憲法を当然否定している訳です。それの会長だったのが古田なんです。その中には自民党だけでなくて、当時の民社党の連中がメンバー全部入っている。そのルートで、日大は古田体制になって文部省から補助金を日本で一番もらっていた。国立大学ではないのに。当然そこから佐藤派の方に現金は行っている訳だし、そうしたグループの1員だから佐藤と古田がくっ付いたって何もおかしいことはない、ということなんです。それが他大学にはない、汚い世界の大学に我々は居たんだということです。」

会場から
「日大の付属出身ですが、今、2人が言ったことは、後で考えればそうだなということで、僕は1年生だったので、その時、次の日にどうしていいか、一瞬で理解ができなかったのが本当なんです。何で首相がそんなこと言うの?そこで、日大闘争は実はかなり大きい闘争なんだな、政府もこれはマズイと思っているんだな、つまり学園闘争ではないんだと、その時初めて知ったというのが、一般のレベルの闘争に入っていた人たちの考え方だったんじゃないかと思う。つまり、後から考えればそうだなと。でも、その現場にいたあの日の頭の中はそうではなかったと僕は思う。」

司会:日大M氏
「多くの人の頭の中はどうだったのかということと、後からどうだったのかということは確かにあると思う。」

日大Y氏(芸闘委)
「話が変わりますが、69年1・18-19の時、何故、安田講堂にたどりつけなかったのか。白山通りのバリケードは何だったのか、一指揮者として今でも不満です。行けたのではないか。誰か邪魔したのではないか。邪魔をしたのは誰だ。7不思議なんです。」

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(1969.1.18-19神田カルチェラタン)

日大T氏
「行けましたよ。」

司会:日大M氏
「私も医科歯科大の前にいたけれど、バリケードは自分たちで敷石積みました。でも何でこんなことしなくてはいけなのかなという・・・。」

日大T氏
「医科歯科の前はテーブルを重ねただけだから、あんなものはバリケードではない。」

日大Y氏(芸闘委)
「白山を潰したバリケードは誰が作ったの。」

司会:日大M氏
「分からない。」

日大T氏
「本郷交差点まで3時過ぎたらガラガラだった。誰もいなかった。」

司会:日大M氏
「行けるか行けないかということだったら、行けました。」

会場から
「僕もその時、学ラン着て見ていたんですが、どうして行かないのかと思った。たぶん、その秘密を知っている人たちはいるはずです。」

司会:日大M氏
「私の記憶では、法学部は何人かヘルメットをカバンに入れて安田講堂の周りをウロウロしていました。私も最初はそうしてましたが、現地の方は結構、(警備が)厳重だった。それで御茶ノ水に戻って、ガラーンとした御茶ノ水で、何で安田講堂に行かないのか、頭の中に疑問としてありました。多くの人がそうだったのではなかったかと思います。」

日大Y氏(芸闘委)
「全部撤収して安田講堂に行ったからガラーンとなった。情報がたぶん掴んでいたはずなのに、行動隊に伝令が来なかった。」

日大T氏
「来なかったんじゃないよ。『経済、動くな』というのは初めから朝から言われていたし、追加で2時頃にまた言われた。」

日大I氏
「僕は、あの時にこうした方がよかったんじゃないかとか、これだったらこうなるんじゃないかという考えを捨てたんです。今やっていることと、今生きていることが大切で、疑問は疑問で、あの時、だからこうならないかというのと、先輩には申し訳ないけれど、一時は何なんだろうと思ったけれど、それを越えられなかった僕らも考えた方がいいかな。それは恨みとか何とかではなくて、今何をするかということで、あの時、こうだったからこうならなかったという考えはありません。その方がいいと思っている。」

日大Y氏(芸闘委)
「それを総括しないと、次に全共闘運動をやった時に同じ過ちを犯してはいけない。」

日大I氏
「俺も先輩も、もうそんな力はないんだよ。」

日大Y氏(芸闘委)
「あるんだよ。」

日大I氏
「グズグズ考えることは止めよう。」

日大N氏
「誰が止めたかというのは、去年あたり明らかになっていると思う。日大全共闘の情報局が警察無線を傍受して、催涙弾が無くなったということを聞いた連中が2人くらいいて、その人たちがどこかの党派の偉い人に軟禁されてしまったということだと思う。それが日大全共闘が安田講堂に行けなくなった一つの要因ではないかと思う。」

司会:日大M氏
「我々の日大の集まりとしては初めて外部のゲストをお招きしてお話をということで 当初は5人も呼んだら時間がないので碌な話も聞けないのではないかということで、確かに一言くらいしか話を聞けなくてもう少しという感じもありますが、今日の公開座談会はここまでとします。」


以上、昨年の9月28日に開催された日大930会「公開座談会-日大闘争は全国の全共闘からどのように見られていたのか」の概要レポートを掲載した。
こうやって文字起こししてみると、当日、話を聞いていただけでは気付かなかった事も見えてくる。
この座談会の詳細については、次号の「日大闘争の記録 忘れざる日々Vol.6」に掲載されると思うので、それをご覧いただきたい。

(終)