先週に引き続き、6月13日(土)に東京・神田の学士会館で開催された10・8山﨑博昭プロジェクト第二回講演会の後半、白井聡氏の講演を掲載する。

第二回講演会の後半の講師は社会思想史家・政治学者の白井聡氏である。発起人の辻惠氏(弁護士・大手前高校同期生)から講師の紹介があった。

講師紹介(辻 惠)
「発起人の辻惠です。昨年、山﨑博昭の没後50年が2017年に迫っているということで、何とかそれを歴史の中に刻印をしたいということで、このプロジェクトが立ち上がりました。そういう私たちの思いを、私たちの世代だけでなくて、次の世代、これからの日本を担う世代の方々にしっかりと理解をしていただき、かつ、もっと歴史的にいろいろ分析も含めて次の時代に繋げていただき言葉化をしていただきたい、というような強い思いがあります。
そういう意味で私たちは67年10・8の山﨑の追悼と同時に、私たちの前の闘いである60年安保の樺美智子さんの虐殺という事実を踏まえて、この6月にこの2つの死をしっかりと歴史に位置付けて未来につなげて行こうということで企画をしたつもりであります。
そういう企画を新しい世代の方に是非参加をして伝えていただきたいという思いで白井聡さんにお願いしました。
昨年の秋以来、4回に渡って政治的なイベントで白井さんに講師として発言をいただいておりますけれども、「永続敗戦論」とかも含めて、情況を切り取るきわめて鋭い分析力と同時に、非常に言葉として、何か印象に残る言葉を必ず毎回毎回の講演の中でおっしゃるんです。ですから、また白井さんのお話を聞きたいということでリピーターが増えている。今日の会場にも、以前白井さんのお話をお聞きいただいて、白井さんだったらまた聞きに行こうということで、今日来ていただいている方もいらっしゃいます。
この4月から関西に行かれて、4月18日に大阪都構想といういかがわしい構想に反対するシンポジウムをやりましたけれども、その時も白井さんが来ていただいて、的確な鋭いご発言をいただきましたけれども、その時に、自分は関東の生まれだけれども『関西の方が性に合うな』というようなことをおっしゃっておられました。わざわざ今回、東京に来ていただきました。是非、今の最首先輩のお話を引き継ぐ形で白井さんから30分間お話を伺わせていただければと思います。よろしくお願いします。」

白井 聡氏 講演 3・11以降の「いのち」の問題
「皆さん今日は。ご紹介にあずかりました白井です。今回、話してくれという話をいただきまして、そして、いのちの問題、いのちを考えるというお題をいただきまして、普段、何と言いましょうか、安倍内閣がどうしてとか、安倍政権がどうしてとか、よく考えればつまらん話なんですけれども、まあしかし、世の中が大変つまらんことに、つまらんと言いながら重大な事にはなっているので、どうしてもそれに対応せねばならず、そんなような話ばかりしてしまう、そういう日々を過ごしておりまして、私も一応、社会哲学とか政治哲学とか、そういう方向から勉強してきた人間ですので、たまには本格的な問題について考えなくてはいけないということもあり、今回の話を引き受けさせていただいた訳であります。
さっそく本題に入って行きたいと思います。最初に山本義隆先生からお話もあったように、3・11によって戦後の影の部分というものがあふれ出て来たというお話がありましたけれど、私も全く同感でありまして、戦後という時代というのは平和と繁栄、民主主義というようなフレーズによって、非常にしばしば説明がされてきた訳でありまして、一言でいえば、それっていい時代だったですよね、という解釈がされてきた訳です。
しかしバブル経済の崩壊、それから冷戦崩壊という形で大きく政治経済の状況が変わる中でどうも調子が悪くなってきたな、ということで、最初は失われた10年ということを言っていた。失われた10年で何とかなりませんかね、どうにもなりませんね、どうにかしなけりゃ、どうにかしなけりゃ、と言っている間に失われた20年と言われるようになってきて、つまりこれは平和と繁栄というものがだんだん損なわれてきたということを意味する訳です。そこに対する不満や不安というものが広がってきていた訳ですけれども、それにとどめを刺すように起きたのが3・11だったと言えると思います。
そこで現れたのは何であったのかというと、これはずっと昔から指摘されてきたことではありますけれども、民主主義国家になったとは言うけれども、実情は本当はどうなんだと、かっての戦争指導者層みたいなものがずっと権力の座に逆コースを通じて居座っているじゃないか、ということがさんざん言われてきて、そこのところを何とか誤魔化してやってきた、というのが戦後の時代のすごく大掴みに言えば実態であったということになろうと思うんですけれども、その隠されてきたどす黒い部分というものが、あの原発の建屋がドーンと吹っ飛ぶのと同時に、いわば戦後民主主義の時代の民主主義や平和と繁栄という価値観が覆い隠してきたものが露出してきた、と言う風に見ている訳です。つまり外皮が吹き飛ばされた、外皮が吹き飛ばされたその中には何があるかというと、フクイチの現場にはドロドロに溶けてしまった核燃料がある訳でありますけれども、政治状況、社会状況ということで言えば、こちらもドロドロとした情念ですね、戦後民主主義、そんなものは憲法と同じで押し付けられたものじゃないか、そんなものはいらないんだという本音、これがドロドロと渦巻いている、それの一番最悪の表れが例えば排外主義の運動などという形で現れていると思うんですが、そんな状況が3・11以降展開されています。

私はあの事故が起きた事自体も大変ショックでありましたけれれど、その当時、またこれは現在までも引き継いでいる事でありますけれども、この社会の人びとのこの事故に対する反応というものに対して、ある意味で事故以上の大きなショックを受けているかもしれません。というのは、あれで明らかになったのは、日本人は生物としても生命を持つ存在としての本能というのが壊れている、あるいは失っているのではないか、そう思うからなんですね。
私自身はあの事故の当時どうしたかと言いますと、妻の実家が名古屋にありまして、まず3月11日、最初は地震と津波が起こり、その後原発大丈夫かなと思っていたら、案の定ということになった訳ですね。夕方だったか夜だったか、電源車を呼んでいるというニュースを聞いた時に、ああこれはあかん、と思った訳です。電源車を呼ぶということは、その現場だけで物事が完結しない事態になってしまったということ意味する訳ですから、これまで経験したことがないような事が起こるのではないか。私は当時、原発のことに対して全然詳しくなかったので、よく分かっていなかった訳ですが、がしかし、ともかく直感的にこれは何か大変まずいことになると思いました。それで2.3日経ったところでこれは非常にまずい、これは東京からの大脱出ということが起きてくるんじゃないかということを予感しましたので、名古屋に妻の実家があるものですから、ひとまず動こうということで、微妙な情勢に立ち至った訳です。一方で名古屋の妻の実家にころがり込むということになると、それはそれで向こうは非常に心配するでしょうし、他方でこれはもう早く動かないとダメだろうと、これ以上、事態が決定的に悪くなると脱出不能になるだろうということも考えました。なので、中間的に岡崎市あたりまで行きまして、そこでとりあえず様子を見ようということになりました。その当時、名古屋から高速道路にいまして思ったものです。眠かったので夜寝たんです。それで朝まだ暗い時間に目が覚めて、窓を開けてみたらきっと高速道路がとんでもない渋滞になっているのではないかと思って窓を開けた。しかし、そんな事は起きていなくて、普通に車は流れている。その時私は思ったですね。ああ壊れているんだな、と。というのは、こうやって今、このような集会が出来ている、つまり日常生活が出来ているというのも、これも全くたまたま運が良かっただけの話であって、もうちょっとだけ運が悪ければ、それこそ当時の吉田所長や菅首相が予測した最悪の事態、使用済み燃料が溶け始めて手が付けられなくなるという事態、これで東日本全部がダメになるというような事態が紙一重で回避できたということですね。たまたま運が良かったことだけの事であります。
こういう事があって、首都圏の人間にしても直接的に近い形で生命の安全を脅かされたに等しい事態が生じた訳です。しかし、ああいう事になっても、東京から首都圏から人口大移動、いくらかは起こったみたいですけれども、パニックに至るような大移動というものは起きなかった。これに関して、日本人というものは冷静沈着な判断が出来て落ち着いた国民である、などということを論評する人たちもいるようですけれども、私に言わせれば正に愚かの極みであります。脱出しなくて、結果として首都圏から緊急の脱出が必要なほどの危険性はなかったということは確かですけれども、それはたまたまです、もうちょっと運が悪ければそういう事態になっていました、という話であり、結果としてそういったパニック的な脱出が起きて、それはそれで確かに大きな問題が生じただろう。例えばその過程で交通事故が起きるなど、死傷者が出るということがあったかもしれない。だけれども、それだって結果論であります。ある意味、私は生物としての健全性ということから考えるならば、脱出パニックが起こって、そこで車が衝突して犠牲者が出るというくらいを、よっぽどこれは生き物として健全であろうと私は思う訳なんですね。
というのは、生き物というものは、例えば自分の部屋に入ってくる蚊であったりハエであったりしたって、これをうるさいなと思ってやっつけようとすれば逃げる訳ですね。殺されたくない、殺されてたまるかという行動を取るのがあらゆる生き物の原則であるはずです。がしかし、日本人はそのような生き物としての本能というのを失っているのではないかということですね。私は今、ある意味、この国の社会に、あるいは隣人たち感じる不気味さというものはそれであります。

一体、何時からこういうことになってしまったんだろうか。これはなかなか難しいところなんですね。今、生命保存の法則という、生命というのは必ず自らの生命延命というか延長を図る、その脅威から逃れるという行動を取るだろうということを申しましたけれども、それじゃあ、どういう行動を具体的に取るのか、危ない事があったら一目散に逃げるというのが大体の本能なんじゃないかと申しましたけれども、がしかし、これはおそらく生物学の世界でも様々な研究がされてきながら、また、なかなかこれこそ大変難しい問題、そう簡単に結論が出ない問題だと思いますが、一目散に集団から離れて逃げるというのは、おそらく一つの行動の一パターンに過ぎないのだろうと思う訳です。例えば魚の群のようなものがあります。何であれは群れを成して泳いでいるのだろうか。大きな魚がそれを食らおうと思ってやってきて、そうしたら、蜘蛛の子を散らすように散るかと思えばそうはならない訳ですね。あくまで群れの形状を保ったまま逃れるような運動をするということがあります。あるいは、アフリカあたりのサバンナに行って観察してみると、草食動物が肉食動物から捕捉される時に、あくまでも群れの単位で逃げる。それで脱落したものがライオンとかに食べられてしまう、ということが観察されるようです。ですから、これを大雑把に一般法則化してみるとどういうことなんだろうか。つまり、個体は常に自分の生命を何とか維持しようとする。その時に、いわば個人主義的な方法でそれを維持しようとするような動物もあれば、おそらくは集団の動きということに、とにかく一体化する方が、おそらくは経験則上その方が生き残れる可能性が高いという場合もあるのでしょうね。
自分の頭で判断して自分の行きたい方向に逃げるんだ、という考え方もあれば、とにかく集団が進む方向にひたすら合わせていく、その方が生き残る確率が高いと、言わば集団主義的な方法によって生き残りを図るという、どうやらたぶん2通りの方向性というのが、すごく大雑把に言えばあるんじゃないかということですね。
そう考えると、3・11当時の日本人の行動というのは何であっただろうかと言えば、おそらくそれは極めて集団主義的なものである。とりあえず左右を見渡してみて、みんな、これは何だ大丈夫じゃないかというような顔をしておる、ということは大丈夫だと思うことにしよう、こういう訳ですね。おそらくこれは諸国民、諸文化、諸民族によってかなり
行動様式が異なることであって、おそらくこれは日本文化論的な説明で言えば、こういう日本人の行動、集団主義というのはおそらく水稲耕作文化というものが、水稲耕作の伝統というものが影響しているのだろうなどというような説明がしばしば成される訳ですね。
つまり稲を作るというのは、村落共同体でとにかく一丸となってやる外ないから、集団の決定というものには 四の五言わずに従うしかないということで、何百年か何千年か分からないですけれども、かなり長い間やってきましたので、もうそういう行動様式、思考習慣というのが完全に内面化されて当たり前になっているというような説明がある訳です。
いや、それだけじゃないでしょう、日本人だっていろいろいるはずでしょう、ということを主張をして、いわばそういった水稲耕作文化に基づけられた日本人の自然な集団主義のような見方を批判したという方もいた訳ですが、どっちが本当の日本人なのかということを言いだすと、それこそ非常に本質主義的な言い方になってしまうので、おそらくどっちの傾向というのもあるでしょうし、一人の人間の中にその両方の傾向というものはあるでしょうし、そう簡単に結論の出る問題ではないと私は思っています。

それで、こういった前提を置いてみた上で、戦後って何なんだろうということを少しお話したいと思うんですけれども、やはり戦後という時代には一つ特殊な意味があると思うんですね。日本の戦後というのは特殊だと思います。何故かと言うと、戦後という時代区分は既に70年に達しようとしている訳ですけれども、これは大変長い。このように長い時代を一つの時代区切りとしている国というのは、たぶんあまり他にないだろうと思います。
例えばフランスの文脈で言えば戦後というのは、インドシナ戦争、アルジェリア戦争が終わって初めて戦後ということになるのでしょうし、例えばソ連、ロシアだったら90年前後にソ連崩壊という歴史を画する出来事が起きている訳であります。
ではその特殊性というのは何なのか。おそらく日本人が戦後という言葉を使う時に、自然と二つの意味をそこに含ませているのだろうと思うんです。それは何かと言うと、一つには第二次世界大戦の後という、これは世界共通の意味です。もう一つは何かというと、戦争一般の後ということだと思うんですね。つまり、もう戦争は起こらないというある種の了解であります。もちろんこれは現実に反する訳です。確かに日本自身は自ら主体となって戦争することは70年間なかったけれども、米軍に基地を提供し、そして日本にその米軍基地があるということを抜きにして、アメリカの世界戦略というものは全く成立ち得なかった訳ですから、今もそうですが、ですからアメリカは大中小の戦争をずっと続けてきた訳です。だから、戦争が全部終わった後の時代などということは、決して言えないはずなんですが、不思議なことに日本人は何となくそう思っていると思うんですね。だから日本はもう二度と戦争をやらない、少なくとも日本はやらないのだから、いわば戦争と言うものと手が切れたいい時代だと、こういう了解というもを、戦後という言葉によって暗黙のうちにしていると思います。
その歴史感覚、あるいは言語感覚というは一体どこから来たのか。それは、私がこれからもっとちゃんと腑分けして考えていこうと思っているんですけれども、一つには原爆の体験というものがあるだろうと思います。それこそ、昭和天皇ですら玉音放送の中で言っている訳ですね。『残虐ナルへ兵器ヲ使用シ、シキリニ無辜(むく)ヲ殺傷シ』、これは原爆投下のことを言っている訳ですね。こんなことをやっていたら、日本がこんな恐ろしい兵器を使っての戦争をやっていると、日本が滅びるだけではなくて人類が破滅する、大変なことだという事を昭和天皇ですら言っている。つまり、それこそ黙示録的な経験であります。
現代の戦争というのはこんな恐ろしいことまでするのである、となればもう戦争なんてこれ以上出来るはずがないでしょう、という意味で、だから戦争は二度と来るまい、こういう感覚というのを持ったということのが一つの要因だっただろう。
そして実はもう一つ僕が考えるのはこういうことだと思うんです。それは大日本帝国の、何と言いましょうか、人間の扱い方ですね。大日本帝国、特に軍の人間の扱い方。今でも私は本当にそれを思うと、誠に慚愧の念に堪えないと思う訳ですけれども、日本の300万人の死者のうち、大体200万くらいは最後の1年で亡くなっている訳ですね。つまり軍事的には全く意味のない、完全に勝敗のついた戦争になっていた訳ですが、国体を護持して負けるにはどうしたらいいんだろう、どうしたらそれが出来るんだろう、どうしたらいいんだ、どうしたらいいんだと小田原評定をやっているうちに200万人が死んだ。まさにいのちの軽視の極限ですね。結局、余談的に付け加えれば、今年は戦後70年、また日韓基本条約50年という節目の年になっていますけれども、結局、対外的な戦争責任の問題というのが、今もってずっと燻り続けて解決できないというのも、結局、対内的な300万の犠牲者のうち、その大部分が本当に軍事的に何の意味もない無駄死にだったという体制、その落とし前というものを全く我々自身の手で何も落とし前を付けていないこと、これが私はずっと引っかかっているんだろうと思います。そのことについての落とし前を付けられない限り、対外的な落とし前も付けることが出来ない、その能力を持たんだろうと思う訳です。
あまりにも非合理な、合理性のかけらもない戦争指導というものが行われて、人々のいのちというのは虫けら以下の扱いを受けて、消費されていった訳であります。いわば、そのようなことをやってしまうのが日本国である、日本政府であるとすれば、そして宿命的にそうであり続けるのであるとすれば、もう二度と戦争なんて出来る訳ないじゃないですか、、というのがおそらく戦後というものがもう二度と戦争をやらない時代という風に日本人が思うことの、実は無意識的な根拠になっているんじゃないかと思うんですね。
つまり、あの戦争以降、みんなのために誰かが犠牲になる、誰かが犠牲にならねばならないのだというレトリックというか論理を誰も使えなくなった。あまりにそれが胡散臭い、あの戦争の具体的経過というものを見るに、みんなのために、そのみんなということが実は天皇陛下のためにというものだったという話がありますけれども、天皇というのは国民の結晶、国民の象徴として、天皇イコール国民全体そのものという形で思念されていた訳であって、そう考えると、天皇のためあるいはみんなのために死ななければならない、犠牲を払わなければならない、いのちを捧げなければならない、それこそが最高の生き方であると戦中は言っていた訳ですけれども、その実体たるやどれほどひどいものであったかということが、多くの人がそれを自ら経験し、そして様々な事を知るに至って、戦後もはや誰もみんなのために犠牲になれということを、決して言えない社会になったんだろうと思うんですね。
ある意味それは、ある種の社会的イデオロギーとしては生命至上主義あるいは個人主義として現れてきたんだろうと思います。つまり、とにかくいのちは大事である、それから全体的なものへの嫌悪というものが、あの戦争の経験を通じてものすごく強くならざるを得なかったんだというのは先程最首先生がお話をされた中にも出てまいりましたけれども、これは歴史的経験からして当然の事だっただろうと思います。つまり、全体なんてものは、はなから絶対碌でもないと、個人の方が絶対大事な個人主義しかない、日本の戦後の右翼というのは、そういう生命至上主義や個人主義というのは戦後民主主義の悪しき部分なんだ、というような批判をずっと繰り返してきた訳です。
そして3・11を迎えた。私はそこで、一つやはりこれは容易ならざる事だと思わざるを得ないのです。というのは実際あのような事故が起きてはならないことなんですけれど、起きてしまいました。起きてしまった時、起きてしまったからには何とか食い止めねばならないということになった訳ですね。その時、生命至上主義や個人主義ではどうしたってこれは食い止められない訳です。というのは、これも正に運よく最悪の状態にはならなかった訳ですけれども、それこそチェルノブイリのような形での放射性物質の露出ということが起きてしまうと、ある種、誰かが決死部隊で突っ込んで止めるということをせざるを得なくなる。現状だって、ある意味、それがチェルノブイリに比べれば緩和された形でそうなっている訳ですよね。現実にあそこで被曝をしながら作業をしている人たちというのが、今日、この日もいる訳です。正にこれは犠牲であります。ある意味、みんなのために犠牲を払う、いのちへの危機、リスクというものを冒して犠牲を払うということが現にされているし、それが必要になってしまった、そのような状況を私たちが残念ながら作ってしまった訳なんですよね。

こういう事態が生じてきてしまったということは、これもまた一つ、いわば戦後の地金が露出したということの一環なんだろうと思うんです。そしてまた、ある種、戦後の価値観というものが、今日生じてしまった状態に対して、実際的な解決を図れないという無力さをある種呈しているということでもあると思います。
では、戦後的価値観というものがある種破産しているのだとして、私たちはどういう価値観を見つけ出していったらいいのか。それがもちろん、いわゆる今の安倍政権に代表されるような右翼的なものへ回帰するなどというものが全くのお話にならない代物であることは、もちろん申すまでもない。がしかし、さりとて戦後的価値観をもう一度、そなまま更新しないでやっぱりこれが大事なんですよと言っても、残念ながらそれはもはや大衆の心を掴めない、そういう時代に入っているだろうと思います。
その時、果たして私たちは、いのちを守らない政府なんだということが明らかになったという風に山本先生がおっしゃいましたけれど、正に私もその通りだと思います。
じゃあ、そのいのちを守らない権力とどう闘うのか、そしてその闘いはある意味で本当に命がけになってしまうかもしれない。命がけになりながら、ある種命がけになるというのは恐ろしい話で、それは自分のいのちを粗末にすることになりかねない。
でも、いのちを粗末にするのではない形で、しかしある種死に物狂いの闘争をしなければならない。果たしてそれは具体的にどういう形をとらなければならないのか。私もそれは今なお考え続けていることであり、また簡単に答えが出ないことであり、考え続けなければいけないし、また実際にしなければならないことだと思っていますが、それこそ今、本当に問われている問題であろう、という問題提起をして私の話を終わらせていただきたいと思います。
どうもありがとうございました。」
司会(佐々木幹郎)
「どうもありがとうございました。戦後の地金が出てきた。その地金の中で人間のいのちという価値観の問題が、実は戦後の中で誤魔化されていた問題が、今問い詰められてきているんだという最終的なまとめがありました。どうもありがとうございました。
今日は最首悟さんの『焦点なき場についてーいのちはいのち』という講演と、白井さんの『3・11以降のいのちの問題』という講演の2つで締めさせていただきます。」、
【発起人紹介と挨拶】
司会(佐々木幹郎)
「今年の秋、第三回目の講演会を開きます。10月10日です。そして大阪でもやります。11月7日に御堂会館で15時から山本義隆さんの大阪での初講演をやります。私たちは、こういう形で連続講演会をいろんな角度からやっていきたいと思います。
それでは発起人のご紹介をいたします。歌人の道浦母都子さんです。」
道浦母都子(歌人)
「さきほど最首先生が新書の帯に書かれている歌を紹介してくださいましたが、その作者でございます。」

山中幸男(救援連絡センター事務局長)
「山中幸男と申します。本来なら水戸喜世子さんの方が羽田10・8救援会で、今日は来られなかったので、一緒に救援連絡センターというものを作ってきた立場です。」

山本義隆(科学史家、元東大全共闘議長、大手前高校同窓生)
「山本です。」
佐々木幹郎(詩人、大手前高校同期生)
「10月10日の講演は下重さんに講演していただきます。下重さんは、今ベストセラーの『家族という病』を出されていますが、それをテーマにして戦後の問題、そしていのちの問題、そして我々が受けとめてきた死者とはどこにいるか、そういうものを含めて素晴らしい講演を期待しております。」

下重暁子(作家、元NHKアナウンサー)
「下重でございます。昭和30年に、歳が分かるんですが、大阪の大手前高校というところを出ました。私は中学、高校が大阪だったものですから、これは山﨑君と同じ学校です。それで、もう大学を出てNHKに勤めておりました時に山﨑君が亡くなった事件が入ってきました。その時のショックといったらもう口に出来ないほどで、いったい私は何をして生きてきたんだろうという気がしました。それが私がNHKを辞めた一つの原因でもあります。
ということで何かできないかなと思って発起人になりました。よろしくお願いいたします。」
司会(佐々木幹郎)
「10月10日は是非期待してください。第一部は下重さんの講演、第二部は道浦母都子の短歌の朗読、そして小室等さんが来てくださいまして歌ってくださいます。」

三田誠広(作家、大手前高校同期生)
「三田です。学校の先生もしていますが小説家もやっております。山﨑君とは同じ高校の同じ学年でありまして、高校時代に友人にすごいリーダーがおりまして、そのリーダーの次くらいにいろいろ作戦を立てまして、学校内にマルクス主義研究会というものを作りまして、そこに集まっていたメンバーがだんだん過激になっていって、みんな中核派に入ってしまって、私一人が文学にしがみついておりましたので、友達がみんないなくなったというショックがありまして、それが今の私の文学を作っているという風に思っておりますが、この集まりに入って昔の友達とどんどん再会できるということで、もう私も高齢者でありますけれども、戦後生まれとして、今が戦前と言われないように何かしなければならないと考えております。よろしくお願いします。」

小長井良浩(弁護士、当時遺族代理人)
「小長井です。こういう非常に過激な方々の中に入ってしまったんですが、一番高齢なものですから、違う世界に入ったような感じになっているんですが、しかし、私の発言が昭和42年、1967年10月8日に非常に大きな社会的な意味を持って今日に至っているという責任は痛切に感じておりまして、もう絶対に警察が嘘をこしらえて山﨑君の虐殺をつくろったということについて、生涯かけて証明していきたい。もう声もかれてきましたけれど、何とか続く限りやっていきたいと思っております。よろしくお願いいたします。」

福島泰樹(歌人)
「後ろの方にいたんですけれども、お話を聞いているうちに俺はやっぱりやらなくちゃいけないなと思いました。1966年、早大学費学館闘争が私の出発点です。来年50年になります。いろんな意味を含めて、ちょっとお手伝いさせていただくことにしました。」

【「声なき声の会」からの挨拶】
司会(佐々木幹郎)
「会場に声なき声の会の世話人細田伸昭さんが来て下さっております。60年安保の時から始まった声なき声の会。現在もずっと続いておりまして、私たちは声なき声の会と連絡を取り合いながら、これからも活動をしていこうと思っています。」

「声なき声の会」の世話人 細田伸昭氏
「声なき声の会というのは、ご存知のように1960年に、当時の岸信介が言った『声なき声の支持がある』ということに対して、そうではないというところから始まった運動です。
私自身が1960年は小学校2年生でした。この山﨑さんが亡くなられた時は中学校3年生でした。どちらもテレビで観て大変大きなショックを受けました。一人の学生の死をこうやってこだわってずっとここに来ていらっしゃることに、私はとても尊敬しますし、私たちも1960年の6月15日に樺美智子が亡くなって、そのことにずっとこだわってきた声なき声の会です。
当時、安保ブントの学生だった樺さんなんですけれども、声なき声の会は、60年安保闘争の中の象徴的な運動の中で亡くなったと捉えています。立場もその時いた立ち位置も違うんですけれども、そのことがずっと声なき声の会の6月15日の集会を守ってきた動機になっています。私自身は1976年から声なき声の会に具体的に関わって今に至っているんですけれども、60年代の活発な活動の時代は実はよく知りません。でも、反戦と平和ということに対して、ずっと一貫して市民の立場から活動してきた、行動してきた、そして6月15日にこだわり続けた、そいう声なき声の会を大切にしていきたいと思っています。」
10・8山﨑博昭プロジェクトの第二回講演会はこれで終了した。この後、近くの店で懇親会を行い30名の方が参加した。
【10・8山﨑博昭プロジェクト第三回講演会のお知らせ】
「戦争に反対する講演と音楽の夕べー10・8山﨑博昭プロジェクト・50周年まであと2年」
日時:10月10日(土)19:00開場、19:30開演
会場:新宿文化センター小ホール
第1部 講演:下重暁子(作家、元NHKアナウンサー)
第2部 詩と音楽の夕べ:出演 小室等(歌手・作曲家)
こむろゆい(シンガーソングライター)
道浦母都子(歌人)
佐々木幹郎(詩人)
※ 詳細は、今後、山﨑博昭プロジェクト・ウェブサイトで公開していきます。
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