以前、重信房子さんを支える会(関西)が発行していた「さわさわ」という冊子があった(写真)。この冊子に、重信さんが「はたちの時代」という文章を寄稿し、連載していた。「はたちの時代」は、重信さんが大学(明治大学)時代を回想した自伝的文章であるが、「さわさわ」の休刊にともない、連載も中断されていた。
この度、「さわさわ」に掲載された部分と、未発表の部分を含めて、「1960年代と私」というタイトルで私のブログで公開することになった。
目次を付けたが、文章量が多いので、第一部の各章ごとに公開していく予定である。
今回は、第一部第2章である。

(「さわさわ」)
【1960年代と私*目次 重信房子】
第一部 はたちの時代
第1章 「はたちの時代」の前史として (2015.7.31掲載済)
1 私のうまれてきた時代
2 就職するということ 1964年 18歳
3 新入社員大学をめざす
第2章 1965年大学入学(19歳) (今回掲載)
1 1965年という時代
2 大学入学
3 65年 御茶ノ水
第3章 大学時代─65年(19~20歳)
1 大学生活
2 雄弁部
3 婚約
4 デモ
5 はじめての学生大会
第4章 明大学費値上げ反対闘争
1 当時の環境
2 66年 学費値上げの情報
3 66年「7・2協定」
4 学費値上げ反対闘争に向けた準備
第5章 値上げ反対!ストライキへ
1 スト権確立・バリケード──昼間部の闘い──
2 二部(夜間部)秋の闘いへ
3 学生大会に向けて対策準備
4 学費闘争方針をめぐる学生大会
5 日共執行部否決 対案採択
第6章 大学当局との対決へ
1 バリケードの中の闘い
2 大学当局との闘い
3 学費値上げ正式決定
4 裏工作
5 対立から妥協への模索
6 最後の交渉─機動隊導入
第7章 不本意な幕切れを乗り越えて
1 覚書 2・2協定
2 覚書をめぐる学生たちの動き
(以降、第2部、第3部執筆予定。)
「1960年代と私」第一部第2章
第2章 1965年 大学入学
1.1965年という時代
1964年10月のオリンピックを契機に様々に「戦後復興」から「繁栄の道」にすすみはじめるスタートラインが1965年といえるでしょう。
その社会的ひずみや矛盾が顕在化していきます。学生運動が正義や真っ当うな社会を求めて闘う故がありました。
オリンピックにむけて、東海道新幹線が開通し、日米海底電話ケーブル、名神高速道路などインフラ整備がすでに行われてきました。米国の占領政策に組み込まれた日本は、60年安保を経て、アメリカの意向に合致した勢力が国家暴力装置を強化し、日本の舵を握る構造が定着しはじめていました。岸信介ら、かつての戦前の支配勢力が親米勢力として転向し、政界・経済界に再編されて残りました。戦前の官僚支配のシステムも又、再編されつつ日本はそのまま残されました。かっては軍の意向に鉛って、戦後は、米軍基地の存在にみられるようにアメリカの意向に沿って日本は、歩きはじめたのです。国内のインフラを整備しながら、よい技術でよいものをつくり、海外に市場を求めていく年として、65年は、画期をなしています。
64年に佐藤内閣が成立し、1965年に日韓基本条約が6月に調印されます。この条約は、これまでの国内の生活と生産に忙しかった企業が海外アジアに経済進出していく足がかりとなる条約です。アメリカを介して、韓国と反共戦路のもとで戦前の日本のアジア侵略を清算しアメリカの傘の下で協調することを示したものでした。米国の反共戦略の仲介と利害なしには、日韓条約は成立しなかったでしょう。日韓条約に象徴されるように、アメリカの反共路線下のアジアの融和をめざし、日本は経済進出を計っていく時として、1965年がありました。
又、国内的には、当時は、衣食住において、いまだ一般国民は貧しい時代です。大学に行けるのは、わずかな層であった時代から、このころには、無理してでも子供を大学に入学させて、将来の子の出世を夢見る庶民も多かったと思います。又、支配の側は、新しい国づくりにふさわしい人材育成を「期待される人間像」で語り、文部行政にみあった産業に役立つ人材を育成することを考えています。国に奉仕する軍人から、会社に奉仕する人間づくりです。そして又、大学の経営を安定させるために大学生の大量生産(マスプロ化)と授業料の値上げが頻発しはじめるのもこの年です。
60年日米安保条約に反対して、市民・青年・学生・野党が闘いながら敗れた後、その総括をめぐって沈滞していた運動も、基地反対闘争、日韓条約反対闘争として盛り上がりはじめていました。65年1月に米軍による北ベトナムヘの北爆がはじまり、ベトナム戦争に反対する国際的な世論が生まれてきました。反戦平和をもとめる市民・労働者・学生の声が高揚し、騒然としはじめました。
そんな65年2月に私は、お茶の水の駿河台校舎で入学試験を受けました。19歳の私は、18歳まで町田から通っていた高校のあった、渋谷や新宿には馴染みがありました。又、東京駅から、日本橋の妙に静かな小網町や水天宮、人形町辺りのキッコーマンの職場の周りも馴染みがあります、でも、お茶の水は通勤で電車で通ることが時々あっても、降りたことはありませんでした。お茶の水駅の改札を出て、駿河台の大学へと願書を取りに足早に歩いた時にも、時間に追われている日々で、それ以外あまり印象はありませんでした。でも、歩道をはみ出すほどの学生たちが行き交い、昼間から、楽しそうに語り合って、そこここに一杯なのには、驚きました。学生街とは、こういうものかと。労働しなくても学べる人たちが多い街なのだなと、実感したものです。

(明治大学記念館)
2.大学入学
夜間大学の入学。当時は、ほとんどの受験生が入ることが出来たのではないかと思います。難しい問題が出題されたという記憶もないし、とても易しかったように思います。市販の入試問題集を解いては、当然受かるだろう思っていました。それでも合格発表の日、貼り出された受験番号を見た時は、ホッと嬉しかったものです。合格の番号を確認してから、父や母に、明治大学の夜間部に行くと告げました。
確か、受験票と引き換え又は見せて、入学金の払い込み用紙や学校案内など一式を受け取りました。その時、机を出して明治大学のバッチを売っていました、私は小さな白いMを象った明大のバッチを買いました。大学生になれたこと。それは、これから先生になれることと同義語であり、誇らしかった思いが、それを買わせたのでしょう。
それから、何日かして、入学金の払い込みに、再び大学に行きました。もう、入学式を間近にひかえていた頃だったと思います。
まだ少し寒さの残る御茶ノ水駅に降りて、人波の続く駿河台の方に向か・って歩きました。大学院校舎の前にマットを敷いた上に胡坐(あぐら)をかいた数人のよれよれの服装の髪のもじやもじやの男たちがいました。何か異様でした。そのうちの一人は、ハンドマイクで演説をしている。立て看板や旗がありました。もうよく思い出せないのですが、「不当処分上杉君の復学を勝ちとろう!」というようなことが立て看板に書かれていました。立ち止って、読んでいると、不当処分について男たちは口々に説明し「一緒に座りませんか?」と私を誘いました。自分のためではなく、次に 入ってくる学生たちの為に、学費か管理費か値上げされるのに反対しで闘っているという話です。他人の為に尽くしたそうした人が処分されるなんて不正義ではないか。彼らの言う通りだと思いました。そんな風に知り合った人々が、文学部と政経学部自治会にいた反日共系の学生たちだったのです。
明治は当時、昼間部の自治会はずっと60年安保闘争の時代から反日共系の人々が引き続き担っており、夜間の二部の全学自治会の学苑会は60年安保の後、それまでの反日共系から、日共系の人々に渡っていたようでした。学苑会の主流の日共系に属さないこの人々が政経学部の自治会と文学部の自治会の人々で、それが反日共系の人々の残された拠点だったようです。当時は、私は日共も反日共も知らないので、「人々の為に尽くした人が当局によって処分されるのは、おかしいではないか?」という素朴な考えから、この人々の話に共感を持ったに過ぎませんでした。
キッコーマンの仕事は、デルモンテの拡売が軌道に乗り出して忙しかったし、丁度、出来はじめたスーパーやデパートの食品売り場で私もディスプレーしたりしていました。又、その調査にあちこち現場に出掛けたりと楽しかったのですが、残業が出来ないごとは心苦しいことでした。又、会社は、将来を見越して、ワインを作って売るために私たちの食品課の隣に「キッコー食品」を新設しました。この「別の子会社」の形をとった「キッコー食品」は牧歌的です。いつ出来るかなど、勝沼ワインの夢を語り、輸出課から天下ってきた「キッコー食品」のトップの外国滞在の長い石川部長から、大学行きを励まされたり、居心地は悪くありませんでした。大学も又、会社も楽しく生きがいの夢に向かって走り出していました。

(1970年当時の明大駿河台校配置)
3. 65年お茶の水
2000年のある日、降りたって歩いてみたお茶の水駅は、ちっとも昔と変わりありませんでした。駅のホームというのは、一番変らない記憶の地図の砦のようです。ホー-ムに立ってみると、当時の方位や情景を、正確に思い出すことが出来ます。お茶の水の明大通りは昔の面影のまま、そこにありました。
当時、職場の日本橋から東京駅ハ重洲口を通り抜けて、中央線で東京駅から高尾行きに乗ってお茶の水のホームに、いつも急ぎ足でした。お茶の水駅で降りて、階段を駆け上がり古い改札口を抜けると、すく、活気のある大学の街。聖橋口は、中大の学生たちが溢れるのですが、明大の私たちは、反対の駿河台通りに向かう出口です。この二つの出口の間は、ホームの長さに並行して、喫茶店・焼肉屋・楽器屋・画材店などが並びその対面の駅前にはパチンコ屋や喫茶店が並んでいました。
駅から明大までの100メートル程の道は純喫茶とか、名曲喫茶と呼ばれた「丘」とか「穂高」とかが並び、マロニエ通りへと折れる角が、学生会館の旧館です。旧館に続くブロックは、大学院や短大、本館と続き、駿河台下までずっと、明大の敷地が続いていました。マロニエ通りに折れると、大学院の裏は文学部の校舎で、右手に新学生会館と商学部校舎がありました。左に折れると法学部の建物や山の上ホテルに続きます。法学部の校舎の坂道の下は錦華公園になっていて、神田古本祭りの賑やかな会場にもなります。

(喫茶店「丘」の広告)
入学した当時は、5:00の会社の勤務を終えると、すぐ大学へ急ぎます。明大に向かうお茶の水駅から、足早に旧学館の横を曲がるとすぐ、大学院の建物の横の入りロから、文学部の授業のある建物に入ります。入ってすぐ掲示板で、今日の授業のプログラムを見ながら教室ぺと急いだものです。今日の仏語の授業は休講だとか、教室の変更とか、掲示板には、貼り出されているからです。急ぎ足で、夕方5時に職場を出てお茶の水駅から大学に5時半すれすれに着くと、まず、その掲示板を見ながら、教室へ急いだものです。
新入生のオリエンテーションを受けた後で、高校のようなクラス担任が居た記憶がないのですが、日本史科のクラスにはまとまりがありました。日本史科の先生が、当初は、コンパにも来てくれたような気もします。入学式直後からクラスで自己紹介をしあったし、世話役を決めて、コンパも飲み会もやったりして仲間意識が育ちました。夜間大学だったことは、今になってみれば、とても有意義な貴重な体験だったと思います。昼間は何をしていますか?溶接工ですとか、郵便局員ですとか、自衛官や警察官もいました。公務員も多くいました。
夜学は、地方から、高卒で東京に就職してきた向学心の強い村の優秀な青年たちの溜まり場でもありました。クラスで討論し、職場の苦労を語り、下宿や就職の世話をしあったり、クラスやクラスを越えた友だちがひろがっていくようになりました。サークルも又、同好の志の集まりで時間が限られている分、みな真剣です。今の時代と追って、戦後の、新しい体制の中で、政治的・社会的にも体制自体が安定しておらず、国民の衣食住において貧しかったし、こんなに物が溢れてもいませんでした。まだ、「正義」や「反体制」の主張が、60年安保闘争を経て、国の意見を二分するような勢いのある時代にありました。
明治大学では、60年の、日米安保条約改定に反対して、学長白身が、全学ストを呼びかけて、正門をロックアウトし、紫紺の明大旗を掲げて校歌「おお明治~」と、歌いながら数千が参加しで参加者の一部が国会に突入したのは有名な話です。国会へなだれ込む先頭に夜学の紫紺の学苑旗が、なびいているのを毎日新聞映画ニュースで、6、15記念の日こ見たのは、入学した年か、その翌年でした。
私が入学した年は、60年安保闘争の敗北から、新しい闘いに向けた上り坂の時代の65年にあたります。また日韓条約が締結批准され、65年、1月には、米軍による北爆が始まる年で、一挙にベトナム戦争反対と日韓条約反対の運動が盛り上がっていく国際的な時代の中にありました。加えて、学費値上げ反対闘争が、既に慶応、早大で始まっており、反戦反米反基地闘争と重ねて、学生運動も又、ラジカルにならざるを得ない状況にありました。
こうした環境の中、日共系も反日共系もクラス討論に、授業前の教室に入れ替わり入ってきては、時事問題を語りビラを配っていました。クラスに入ってきてアジる反日共系の人は、大学院の前に座り込みをしていた人々でした。60年安保以来の生き残りの人々も居ます。このうち一部の人々は、田安門から入っていく皇居のなかにあった旧近衛兵の宿舎だった「東京学生会館」を根城にしていました。この戦前の近衛兵の兵舎を戦後、学生寮に使っていたものです。皇居の堀の内側が、学生運動の拠点になっていたので、追い出そうと政府は画策していました。明大の学生たちも時々集まったり、学習会などをしていました。一度、1年生だった私たちは何人かこの東学館の学習会に連れて行かれたことがありました。あまりの暗い雰囲気と希望のない顔つきのよれよれの人たちにその雰囲気のまま一方的に話しまくられて、二度と行くまいと、クラスの友人と話したものです。この人々が反日共系のMLとか中核の人だったらしい。日共系の人々は、二部の学生自治会の学苑会を牛耳っていて、自分たちが正当に選ばれた自治会の執行部であり、中央執行委員会のもとに、開催されるベトナム反戦や、日韓条約に反対する学苑会主催の行事に参加するようにと訴えていました。彼らは、反日共系の人々と違って身ぎれいにして、話し方も、ソフドだったのですが、私にはわざとらしく感じられました。サークルでは、社会主義研究会や民主主義科学研究会などに属していて、「赤旗」を宣伝し、民青の新聞を配ったり売ったりしていました。
夜間の学生たちは午後5時30分に授業が始まり、9時50分くらいまで、3単位くらいの授業を受けます。その後終電まで思い思いに自治会やサークル活動で活気があります。授業は、教室が固定しているわけではなく、選択した自分の授業のある教室へ急がねばなりません。こうした教室の入れ替えの始まりに、反日共系の文学部自治会と目共系の全学自治会の学発会の、ピラや演説が授業までの短い間に、学生に語りかけオルグするのです。時々は、両者が教室に鉢合わせして、怒鳴りあいすることもあります。誰に頼まれたわけでもないのに、よくやるなあ…というのが、当初の私の感想でした。 私は、誘われたら時々、目共の友人にも反目共の友人にも顔を出すけれど、これといった熱意があったわけでもなかったのです。ことに、文学研究部に入って、詩や童話、小説を書いてみたいと思ってい
たのでなおさらです。勧誘の熱意に時々つきあうというくらいでした。4月の入学から夏の間は、キッコーマンの仕事のサイクルと大学のシステムを学び、何事にも興味津々に関わりました。ただ、先生になる!先生に成れる!と喜び一杯だったのです。
私のはじめてのデモは、5月か6月、出来たばかりのべ平遠の米国のベトナム侵略北爆に反対するデモです。小田実のシュプレヒコールに合わせて、歩きながら芝公園に向かいました。この時、少し白髪の「おじさん」と、もう一人の人がデモで歩きながら、ちょうど私たちの隣にいました。私はクラスメートと二人で中ヒールにスーツのOLスタイルです。「どうして参加したの?」と話しかけてきました。私たちが、「デモは初めてです。今日デモがあるのを大学の掲示板で見ましたから。」と言うと、私たちの横を歩きながら、ベトナム反戦の意義を語ってくれました。私たちは初めてのデモが嬉しくて、ミーハーのノリでカメラも持っていました。芝公園まで行進した後で、そのおじさんと一緒の写真を撮りました。ずいぶん後になって、この「おじさん」が、いいだももさんと、開高健さんだと、写真を持っていたので気付きました。
初めてのデモはとても小さなものですが、達成感がありました。私たちはただ、何キロメーターか、みんなにくっついて歩いたに過ぎなかったのですが。
(つづく)
【10・8山﨑博昭プロジェクト大阪講演会のお知らせ】
11月7日(土)に大阪での初の講演会「【大阪発】あかんで、日本!―理工系にとっての戦争―」を開催します。
この講演会は、2014年に発足した「10・8山﨑博昭プロジェクト」の大阪での最初の講演会です。1967年10月8日に戦争に反対して死んだ山﨑博昭(大阪府立大手前高校卒。当時、京都大学1回生)を追悼し、半世紀後の現在、ますます戦争への道を歩んでいる日本に対して、関西弁で戦争に反対する声を上げたい、関西弁で考え、語りたいという講演会です。
戦前・戦中にかけて、理工系の専門家たちはどのように戦争を迎え、戦後どのように反省したのか、しなかったのか。現在の日本の「科学技術立国」という思想は、戦時下の総力戦体制の中で生まれています。その歴史をふり返り、3・11以降の現在、原発に反対し、戦争に反対するほんとうの声を新たに求めたい。世代を超えて、その展望を見つけるための講演会です。
山本義隆さんが関西で講演を行います。大阪・関西在住の方は是非お申込み下さい!
【大阪発】あかんで、日本!―理工系にとっての戦争―
講師:
○ 山本義隆(科学史家、元東大全共闘議長)
「日本の科学技術―理工系にとっての戦争」
○ 白井 聡(政治学者、京都精華大学専任講師)
「ネオリベラリズムと反知性主義」
日時:11月7日(土)13:30開場、14:00開演
場所:御堂会館・南館5階ホール
〒541-0056 大阪市中央区久太郎町4-1-11
TEL(06)6251-5820(代表)
アクセス
・地下鉄御堂筋線「本町駅」8号出口南へ200m
・地下鉄中央線「本町駅」13号出口南へ50m
参加費:1500円
主催:10・8山﨑博昭プロジェクト
公式ホームページ http://yamazakiproject.com/
参加を希望される方は以下のメールあてに申込み下さい。
E-mail monument108@gmail.com

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