「週刊アンポ」で読む1969-70年シリーズの3回目。
この「週刊アンポ」という雑誌は、1969年11月17日に第1号が発行され、以降、1970年6月上旬までに第15号まで発行された。編集・発行人は故小田実氏である。この雑誌には1969-70年という時代が凝縮されている。
1960年代後半から70年台前半まで、多くの大学で全国学園闘争が闘われた。その時期、大学だけでなく全国の高校でも卒業式闘争やバリケート封鎖・占拠の闘いが行われた。しかし、この高校生たちの闘いは大学闘争や70年安保闘争の報道の中に埋もれてしまい、「忘れられた闘争」となっている。
「週刊アンポ」には「高校生のひろば」というコーナーがあり、そこにこれらの高校生たちの闘いの記事を連載していた。
今回は、「週刊アンポ」第2号に掲載された「バリケードの意味するもの」(都立日比谷高校)を掲載する。

【「バリケードの意味するもの 日比谷高校 三年Y」週刊アンポNo2 1969.12.1発行】
「ガツン」鈍い音がして、バラ色の血が少女の頬をおおった。私のすぐそばをあの顔が、白眼をむいて引きずられて行った。そして私の眼の前をふさいだジュラルミンの盾のむこう側には、われわれが豚のような顔をした警察官たちに蹴られ殴られているのを、震えながら見物している教師たちの赤い眼があった。10月28日、われわれはそこに、自から教育者であることを放棄した教師の姿を見た。
<立ち上がった一般生徒>
戦後民主主義の美名と欺瞞の上にぬくぬくと安住してきた現教育体制が黄昏をむかえ、その中にあった矛盾が、もはやそれを内包できないところまでふくれあがり、教育自身が自己崩壊をとげようとしている現在、教師たちは「真の教育者であろうと欲すれば、教師であることをやめなければならない」という奇妙なパラドックスに直面せざるを得ない。そして日比谷高校の教師たちは、教師であることを続けるために、あえて教育者であることを放棄した。彼らは自分たちの教え子を、自らの手で官憲に売りわたした。「学校の設備を守る」という大義名分のもとに。その時校門の鉄条網を突破して座り込んだ二百名の学友たちは、けっして学校側のいう「活動家」や「過激な生徒たち」ではなく彼らの言葉を借りれば、真に「一般生徒」たちであった。その中には、全闘連による校舎などの封鎖を率先して批判していた人々の姿さえ見出すことができた。それほどこの警官導入、およびロックアウトの処置は、生徒たちにとってショックであり、学校管理者―教師との決別であった。この時、日比谷高校における闘争は、初めて全生徒のものとなった。過去1ケ月に渡ってくり広げられてきた闘争の間、学校側は問題の根本的解決には何ら目をむけようとせず、ひらすら問題の現象的平常化をあせった。そして生徒の提起した問題にいっさい誠意ある回答をしようとせず、彼ら自身のそのような態度が、ひいては封鎖や授業ボイコットを招いたことを自己批判さえしない。彼らの眼には、あのバリケードは単なる不法占拠された空間にすぎず、うずたかい椅子や机の集積としか映らない。彼らはそこに込められたわれわれの要求や、バリケードの重みを見ようともしない。そしてさらに今、彼らは高くはりめぐらされたロックアウトの壁の内側で、個々の活動家生徒の行った「不法」な行為に対しての処分を検討している。教師とはもはや、我々の管理者として、否、国家に代わってわれわれを管理しようとしている「管理人」としてわれわれの上にのしかかかっている。われわれにとっては彼らが国家である。われわれはそれを10月28日の警官隊導入の時にはっきりと確認した。警官隊の人垣に守られてコソコソとこちらをうかがい、そこに座り込んでいたわれわれを、うさんくさげにながめている彼らを見た時、私は青黒い、イボイボや巨大な突起を持った「国家」という剣竜のぶ厚い表皮を感じた。
<「過渡期」三項目要求>
日比谷高校における闘争は、9月の下旬に全学闘争連合(社研、雑誌部員などを中心としたノンセクト連合)の提起した「過渡期三項目要求」に端を発している。これは「過渡期」という言葉がつけ加えられていることからもわかるように、それ自身として自己完結しないいわゆる要求闘争と次元を異にするものである。三項目とは、「1.3・15警官導入自己批判及び今後一切の警察力を導入しない事の確約。2.文部省指導手引書の拒否。3.都教育庁処分基準案の拒否と一切の処分を行わない事の確約。」である。
われわれにとって闘争とは、単なる功利的要求でなく、受験という日常性からの脱却であり、自己に対する存在論的問いかけであり、実存的投企であった。われわれの闘争は、近頃ジャーナリズムが面白半分に「灰スクール」などと取沙汰している「われわれの高校生活の虚しさ」から始まっており、また、われわれにとって運動とは、その虚しさの表現以外の何物でもなかった。(そして今、われわれはその虚しさの中に帰って行こうとしている・・・)
<放火という中傷>
過渡期三項目要求はわれわれにとって一つの闘う砦であった。われわれはわれわれの集会における三項目の討論に、職員会議の参加の要請をくりかえし、そのつど拒否され続けた。しかし一般生徒の三項目要求に対する関心はしだいに高まり、われわれはついに10月6日に、大衆会見を開く確約を学校当局から取ることができた。ところが、学校当局は当の10月6日に卑劣な居直りを行った。大衆会見はいつのまにか学校側主催による「説明会」にすりかえられていたのだ。これは一部活動家学生と一般学生の分割を目的とした。運動を圧殺せんがための学校当局の陰謀以外の何物でもなかった。われわれは「説明会」をボイコットし、再度学校当局に要請したが、回答は拒絶であった。そして彼らはわれわれを、ふだんの授業という日常性の中に引きもどそうとした。このような状況のもとに、全闘連および有志生徒によって日比谷高校の卒業記念館「如蘭会館」及び校門の封鎖が行われた。そして10月12日には八百人の一般生徒諸君によって授業のボイコットが決議され、全職員出席のもとに初の大衆会見が行われたのである。この席上、清水正男校長は全くの人形的支配者であることを、自ら暴露してしまっている。校長は生徒の質問に全く答えられず、学内の状況を全く把握していないことを示したのみか、不法占拠されている講堂において、授業をボイコットして集会を開いている八百人の生徒たちにむかって何を勘違いしたか「このような先生と生徒との話し合いの機会は、私も前々から願っていたもので、それがこのように実現したことは、誠に喜ばしいことと思います。」とやったのである。この校長の発言は、まったくの無知と状況の曲解からきたものか、われわれに対する皮肉を込めた、徹底的な居直りであったかは、諸説乱れとんでいる。ともかくこの大衆会見によって、一般生徒の間に教師に対する不信の声が高まってきたことは事実である。
また、同時にいわゆる「活動家学生」に対する、学校当局の卑劣な個別的恫喝がひんぱんになってくる。ハンストに参加している生徒や、積極的に教師批判を行っている生徒の両親に対して、学校当局より、担任を通じて「このままでは退学の恐れがある」などとほのめかした文章や電話が行われ、問題児の家庭を訪問して歩く教師がふえている。これは親の心配を逆手に取った教師の破廉恥な闘争圧殺に他ならない。このような学校当局の卑劣な妨害工作はついに如蘭会館放火中傷事件にまで発展する。これは10月24日付の毎日新聞の社会面に、トップ記事として「日比谷高校でナゾのボヤ」と称して掲載された記事の件である。事件の真相は学校当局がバリケード内の水道電気を全て切っていたため、泊まりこみの生徒がつけていたローソクが引火したのであるが、学校当局は「封鎖生徒が腹いせに焼いた疑いがある」と発表、漱石や尾崎紅葉の自筆の原稿などが焼失したとして、世論の反発を買うようにしむけたのである。この原稿は、数日後に、ぬけぬけと「校長室の保管されていたことがわかった」などと発表されているが、この中傷は、学校当局の陰謀であることは既に明白である。
<彼らに怒りと憎しみを>
10月22日、学校当局は大衆会見において一方的に授業再開の発表を行った。その日の午後、6つのクラスにおいて封鎖決議が採択され、全学バリケード封鎖が行われている。ここではっきりと確認しておかなくてはならないのは、この教室の封鎖が、如蘭会館封鎖のように全闘連などの一部活動家によって行われたのではなく、各ホームルームの決議によって、いわば内側から封鎖されたことであり、これが日比谷高校における闘争の性質を表しているといえよう。全闘連はその過渡的な存在の役割は終わったとして自主的に組織を解体し、各ホームルームにおけるクラス闘争委員会および各学年共闘と合流して、真に全学的な闘争を展開しようとしていた。そしてこのように教師が、まったく管理者的な対応しかできなくなってしまった状況において、彼らについに国家という自らの本性を暴露したのであった。日比谷高校において彼らの行ってきた行動は、まさに都教育庁の役割を、そのままなぞったものであった。彼らは通達どおりに官憲を導入し、ロックアウトでわれわれ生徒たちをしめだし、そして現に今、トタンの城の中でわれわれの処分を検討しているのだ。われわれはあの28日、彼らに感じた怒りと憎しみを忘れてはならない。いやあの怒りをこそ、われわれの糧としてゆかねばならない。11月3日、日比谷高校生三百人は警官導入、ロックアウト反対を叫んでデモンストレーションを行った。われわれは闘う。われわれは負けてはならない。今後おそらくやってくるだろう処分、確約書、通行書路線およびすべての当局による規制を認めてはならない。15日現在、学校は木材とトタンのロックアウトによって鎖されたままである。われわれはそれを見る。そしてわれわれは知る。
【編集部より】
「高校生のひろば」は、連載です。あらゆる高校生の生の声を載せたいと考えています。「週刊アンポ」編集部高校生係あてに原稿を送ってください。
次号には青山高、葛西工高、広島の修道高などのアピ-ルが載る予定です。
以上、「週刊アンポNo2」に掲載された記事である。
日比谷高校の闘争はその後どうなったのか?
2012年に発行された「高校紛争1969-70 闘争の歴史と証言」(中央新書:小林哲夫著)から引用する。

『69年10月8日、全闘連は校内の如蘭会館(同窓会館)を封鎖する。69年3月の卒業式への警察官導入の自己批判、文部省手引書の拒否などを訴えた。17日、教師によって解除。しかし22日に再封鎖する。日比谷高校は23日から休校となった。
10月28日、機動隊が導入され、立てこもっていた全闘連を排除した。このとき、抵抗した生徒2人が逮捕された。校内立ち入り禁止としたが、生徒百十数人が校門を突破して座り込んだ。再び機動隊が生徒を次々とごぼう抜きして排除する。生徒1人、卒業生2人が逮捕された。その様子をじっと見ているだけの教師たちがいる。生徒の多くは「教師が生徒を警察に売っている」と受け止めた。この日、校門には次の掲示があった。
1.日比谷高校職員以外の一切の者の立入りを禁止します。
2.右に違反すると逮捕されます。 学校長
数日後、学校は校門周辺を鉄板で高塀化するとともに、ガードマン6人を雇って警備にあたらせる。また、生徒は入構証の携帯を義務付けられ、クラブ活動は当分なし、ホームルームも行わない。無許可の集会、掲示、ビラ配布は一切禁止。生徒が集まって話し合うことにも神経をとがらせていた。全闘連はビラで「日比谷アウシュビッツ」と糾弾する。
11月3日、27日と、千代田区清水谷公園でそれぞれ生徒約400人が、学校に対して抗議集会、デモを行う。
11月21日、学校は無期停学6人、停学10日16人、訓告10人、訓戒16人の処分を発表した。』
※この「高校生のひろば」の掲載にあたって、ホームページ「明大全共闘・学館闘争・文連」にも、高校闘争のビラをアップしました。(このビラのコピーはK氏から提供していただきました。)今後、「高校生のひろば」のブログ掲載に併せて、ビラをアップしていく予定です。
【お知らせ】
来週は夏休みです。ブログとホームページの更新はお休みです。
次回は7月22日(金)の予定です。
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