「週刊アンポ」で読む1969-70年シリーズの8回目。
この「週刊アンポ」という雑誌は、1969年11月17日に第1号が発行され、以降、1970年6月上旬までに第15号まで発行された。編集・発行人は故小田実氏である。この雑誌には1969-70年という時代が凝縮されている。
1960年代後半から70年台前半まで、多くの大学で全国学園闘争が闘われた。その時期、大学だけでなく全国の高校でも卒業式闘争やバリケート封鎖・占拠の闘いが行われた。しかし、この高校生たちの闘いは大学闘争や70年安保闘争の報道の中に埋もれてしまい、「忘れられた闘争」となっている。
「週刊アンポ」には「高校生のひろば」というコーナーがあり、そこにこれらの高校生たちの闘いの記事を連載していた。
今回は、「週刊アンポ」第3号に掲載された都立立川高校闘争である。この号では教師から見た闘争が書かれているが、第8号にも処分された生徒の手紙が掲載されている。今回と次回の2回にわたり、都立立川高校闘争の記事を掲載する。
この「週刊アンポ」という雑誌は、1969年11月17日に第1号が発行され、以降、1970年6月上旬までに第15号まで発行された。編集・発行人は故小田実氏である。この雑誌には1969-70年という時代が凝縮されている。
1960年代後半から70年台前半まで、多くの大学で全国学園闘争が闘われた。その時期、大学だけでなく全国の高校でも卒業式闘争やバリケート封鎖・占拠の闘いが行われた。しかし、この高校生たちの闘いは大学闘争や70年安保闘争の報道の中に埋もれてしまい、「忘れられた闘争」となっている。
「週刊アンポ」には「高校生のひろば」というコーナーがあり、そこにこれらの高校生たちの闘いの記事を連載していた。
今回は、「週刊アンポ」第3号に掲載された都立立川高校闘争である。この号では教師から見た闘争が書かれているが、第8号にも処分された生徒の手紙が掲載されている。今回と次回の2回にわたり、都立立川高校闘争の記事を掲載する。

【一教師のみたバリケード闘争 週刊アンポNo3 1969.12.15発行】
都立立川高校 浅野虎彦
10・21は本校でも集会が玄関前の広場で朝から持たれ、熱心な生徒諸君が討論をかわしていた。しかし、いわゆる受験体制中のノンポリが多いため、参加者は少なかった。論理で立ち向かえない教師たちはそれを利用して、全生徒から彼らを浮き上がらすような宣伝をした。
過去何年かにわたる学校側の非教育的な環境は、生徒諸君が安保・沖縄問題などを真剣に考えることを妨げてきていたが、そうした環境のために集会に参加しようとしない生徒の関心を喚起する目的で、一部の熱心な生徒のグループはついに同日夜中、教師警備の虚をついて教員室1、教室8を封鎖してたてこもった。
ただちに緊急職員会議が開かれた。すると、真っ先に一部の教師集団が(右翼でない)発言し、生徒諸君を暴力学生ときめつけ、犯罪者であるという前提で審議することを提案した。これに対し、右翼系の教師たちも異議なくこれに同調した。またその他の教師連中も身の安全を計るために完全に沈黙し、職員会議は両者の思うように動かされていった。
時日が経過した10月25日、私はこれ以上封鎖を続けることは不利であると判断した。そこで私は連絡をとってバリケードの中の生徒の代表者と会った。私はこの自分の判断を中の人に伝え、彼らがそれについて充分討論し、もし同様な結論に達したならば戦術を転換しなさい、と話した。彼らは結局私の意見と一致したようで、翌26日未明、彼らはバリケードをといた。
これにはバリ中の生徒の父兄までが、教師の暴力的妨害を排除して彼らの封鎖解除を手伝った。彼らは整然として校外へ立ち去ったのである。
そのバリケード封鎖の跡は完全に元の形にもどされており、いやむしろ前よりもきれいに掃除され、もちろん器物の破壊などは一点もなかった。
解除後、教師たちは中に入って破壊の跡の証拠写真を撮ろうと、カメラを持って血眼に走りまわったが、その目的はまったく果たすことができなかった。このことはさらにこれらの教師をいらだたせ、自ら無謀な行動に走り、新聞紙上で笑われるようにまでなった(後述)。
彼らは、このような解除はおとなの指導がその裏にあるに違いなく、非常に長期間に亘って計画されたものであると、さかんに力説した。翌日、会議の席である印刷物が職員に配布された。おそらく連日、宿泊警戒していた教師の中の特定集団が書いたものであることは、以下の文章をお読みになればわかって下さると思う。
都立立川高校 浅野虎彦
10・21は本校でも集会が玄関前の広場で朝から持たれ、熱心な生徒諸君が討論をかわしていた。しかし、いわゆる受験体制中のノンポリが多いため、参加者は少なかった。論理で立ち向かえない教師たちはそれを利用して、全生徒から彼らを浮き上がらすような宣伝をした。
過去何年かにわたる学校側の非教育的な環境は、生徒諸君が安保・沖縄問題などを真剣に考えることを妨げてきていたが、そうした環境のために集会に参加しようとしない生徒の関心を喚起する目的で、一部の熱心な生徒のグループはついに同日夜中、教師警備の虚をついて教員室1、教室8を封鎖してたてこもった。
ただちに緊急職員会議が開かれた。すると、真っ先に一部の教師集団が(右翼でない)発言し、生徒諸君を暴力学生ときめつけ、犯罪者であるという前提で審議することを提案した。これに対し、右翼系の教師たちも異議なくこれに同調した。またその他の教師連中も身の安全を計るために完全に沈黙し、職員会議は両者の思うように動かされていった。
時日が経過した10月25日、私はこれ以上封鎖を続けることは不利であると判断した。そこで私は連絡をとってバリケードの中の生徒の代表者と会った。私はこの自分の判断を中の人に伝え、彼らがそれについて充分討論し、もし同様な結論に達したならば戦術を転換しなさい、と話した。彼らは結局私の意見と一致したようで、翌26日未明、彼らはバリケードをといた。
これにはバリ中の生徒の父兄までが、教師の暴力的妨害を排除して彼らの封鎖解除を手伝った。彼らは整然として校外へ立ち去ったのである。
そのバリケード封鎖の跡は完全に元の形にもどされており、いやむしろ前よりもきれいに掃除され、もちろん器物の破壊などは一点もなかった。
解除後、教師たちは中に入って破壊の跡の証拠写真を撮ろうと、カメラを持って血眼に走りまわったが、その目的はまったく果たすことができなかった。このことはさらにこれらの教師をいらだたせ、自ら無謀な行動に走り、新聞紙上で笑われるようにまでなった(後述)。
彼らは、このような解除はおとなの指導がその裏にあるに違いなく、非常に長期間に亘って計画されたものであると、さかんに力説した。翌日、会議の席である印刷物が職員に配布された。おそらく連日、宿泊警戒していた教師の中の特定集団が書いたものであることは、以下の文章をお読みになればわかって下さると思う。
『事態の性質について
69年10月から11月にかけての情勢の中での一連の動きの一環としての政治問題であって単なる学内問題、教育問題ではない。その動きは民主的な組織及び個人に対して分裂と混乱をもたらし、退廃とあきらめにもちこみ、ファシズム的な体制への移行の条件をつくりだすものである。これ故に極左をよそおいながら容易に右翼的諸団体やアナーキズム、ニヒリズムとも、あるいは単なる精神の荒廃(非行的な)とも結びつきうるものであることは、今われわれが目前にしているところである。
こうした動きはすでに大学では展開されてきたが、大学立法等によって大学を拠点とできなくなった現時点では、高校にまでおりてきて、生徒の歪みや弱さを拡大しながら利用して全国的に高校教育と高校生を荒廃させようとしている。
従って全高校が狙われているのであるが、とりわけ立高は日比谷、青山、都立大附属等とともに現在の立高の廃校にまで至りうる徹底的な攻撃の目標高の一つである可能性は充分にある。この攻撃に対する闘いは心情だけではない展望をもった統一と団結以外にはない。(中略)われわれはこの情勢の中では教師と生徒の、生徒間の、教師間の団結を強め、はげまし合いながらも、われわれの分裂をきたすようなまた、バリストグループを援助するような部分についてはきびしい批判をもってのぞむのは当然であり、生徒、父母であってもあいまいな部分に対してはきびしい警戒をゆるめるわけにはいかない。』
以上のような文章が高校教師の間でなんの異議もなく承認され、教師間の共通意志として確認されたというような、そんな職員会議がほかにあっただろうか。
69年10月から11月にかけての情勢の中での一連の動きの一環としての政治問題であって単なる学内問題、教育問題ではない。その動きは民主的な組織及び個人に対して分裂と混乱をもたらし、退廃とあきらめにもちこみ、ファシズム的な体制への移行の条件をつくりだすものである。これ故に極左をよそおいながら容易に右翼的諸団体やアナーキズム、ニヒリズムとも、あるいは単なる精神の荒廃(非行的な)とも結びつきうるものであることは、今われわれが目前にしているところである。
こうした動きはすでに大学では展開されてきたが、大学立法等によって大学を拠点とできなくなった現時点では、高校にまでおりてきて、生徒の歪みや弱さを拡大しながら利用して全国的に高校教育と高校生を荒廃させようとしている。
従って全高校が狙われているのであるが、とりわけ立高は日比谷、青山、都立大附属等とともに現在の立高の廃校にまで至りうる徹底的な攻撃の目標高の一つである可能性は充分にある。この攻撃に対する闘いは心情だけではない展望をもった統一と団結以外にはない。(中略)われわれはこの情勢の中では教師と生徒の、生徒間の、教師間の団結を強め、はげまし合いながらも、われわれの分裂をきたすようなまた、バリストグループを援助するような部分についてはきびしい批判をもってのぞむのは当然であり、生徒、父母であってもあいまいな部分に対してはきびしい警戒をゆるめるわけにはいかない。』
以上のような文章が高校教師の間でなんの異議もなく承認され、教師間の共通意志として確認されたというような、そんな職員会議がほかにあっただろうか。
<学校教師の背信行為>
バリがとかれてから、これらの教師グループは、生徒の中の民青系グループを使って。彼らの方針にそったいわゆる学校民主化案を次々と代弁させ、しかも時々その代弁者を交代させてその陰謀を隠すというような工作も忘れなかった。その結果、ついに彼らの策動は成功し、授業再開へのホームルームが始められるようになった。
しかし、バリストの諸君は教育の前提となる処分制度、単位、成績表、検閲制度、出席率の撤廃を要求する公開質問状を、百余名の生徒の署名をそえて学校側に示し、その回答をせまった。だが、学校は「君たちとは住んでいる世界が違うから話し合えない」という暴言まではき回答を待つ生徒を残し、夜中12時過ぎ学校を出て行った。
翌16日も午前中は同様な対立が続いた。午後になると校内にいた教師は、生徒の「話し合おう」という叫びをきかずに帰っていった。ところが、そのあとどこかわからない所で何かを決めた教師たちは、夕刻になって再び隊列を組んで校門に入り、「不退去罪になるぞ」とおどしつつ生徒の引き抜きにかかった。
事態の重大さを感じたある生徒が、電話で私に急を告げてきた。私がかけつけた時には、何ら険悪な空気はなかったものの、対立はまだ続いていた。私は両者の意見を聞いたうえで、生徒から出されている校長への質問書を学校側が受け取り、生徒集会でそれに回答するよう要求したが、校長は頑としてそれを拒否し、あまつさえ早く帰らないと警官を導入すると恫喝し始めた。私は繰り返し事態の重大さを校長に説き、質問書の受理をせまったのだが、ついに11時校長は「警察の方、私は立川高校の校長です。入ってください」と要請した。こうして警官隊の実力行使が行われ、生徒諸君は校外に押し出されたのである。

このことについて言えば、学校は前々から警官は入れないと誓言していたのだし、また組合の校内委員の教師たちも組合は絶対に警官導入に反対するという印刷物を生徒に配っていたのである。だから、この警官導入は絶対に許せない学校教師の生徒諸君に対する背信行為である。
<生徒を車輪にかけて>
このことで再び事態は悪化した。それにろうばいした教師たちは、警官を入れたのは止むを得なかったという、生徒を対象にした説明会を11月20日、雨の降る中で所もあろうに多摩川畔の空地で開催した。そこで彼らは一方的に学校の意見を押しつけ、生徒の中の質問のあるものには紙片に要旨を書かせて内容を制限し、時間も一人2分に限るという強い姿勢で臨んだ。午後4時となるや、約束の時間がきたと称して教師たちは用意されたマイクロバスに乗り、もっと話そうとバスのまわりをとり囲む生徒を、まさに車輪にかけるようにグイグイ車を動かさせ、居合わせた母親たちの、危ないからやめて下さいと叫ぶ声も聞こえぬふりをして去って行ったのであった。
このことはさすがに各新聞社も重視した。今まで消極的であった社をふくめて、各紙の都下版はこの事件を大きく取り上げ、学校の卑劣さを市民に初めて明らかにしたのである。あわてた学校は、この記事は事実をまげて報道しているという印刷物をつくり、全父母に速達で郵送したが、これこそ恥のうわぬりをする以外の何物でもなかった。
以上のように立川高校では、都立の各校に起こっているバリストの中でも全く並はずれて異常な紛争状態を、教師自らが作り出しているのであり、その対策も非常識なやり方を続けて、事態はますます困難になっているのである。
きょう(11・25)も組合では本部委員会を開いたが、学校管理職が父母たちに配布した印刷物の写しまでが、日頃「赤旗」の購読を勧めて歩く本部委員によって、臆面もなく委員会の席上で配られた。
このような矛盾を平気でやる教師から授業を受けている生徒が、変革をせまるのは当然のことだろう。このような教師が生徒を説得し、学校を正常化しますから御協力を、と呼びかけるそのごまかしに、世の中の父母はぜひとも気がついてほしい、と私は訴えたいのである。
※ 次回も「週刊アンポ」第8号の「高校生のひろば」に掲載された都立立川高校の記事を掲載します。
【お知らせ】
今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は7月21日(金)に更新予定です。
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