今年は激動と変革の時代、1968年から50年目の年である。50周年を記念して集会や本の出版が企画されているが、もう一つ、1978年の成田空港管制塔占拠から40周年の年でもある。3月25日には、「三里塚管制塔占拠闘争40年 今こそ新たな世直しを! 3・25」が御茶ノ水の連合会館で開催される。
 この管制塔占拠闘争に関わったH氏が、フェイスブックで『開港阻止決戦って何だったのよ、ドキュメント』と題した連載を掲載中であるが、この連載記事を私のブログに転載させていただくことになった。記事は3回に分けて掲載する予定である。(転載にあたっては、H氏の了解を得ています。)

【開港阻止決戦って何だったのよ、ドキュメント】その1
3.25集会に向けて、40年前の出来事を主観主義的な客観性をもって(笑)、振り返ってみます。元ネタ(原稿)は、別の所にかつて書いたものですが、できるだけ短く改変してここに書きます。
題して『開港阻止決戦って何だったのよ、ドキュメント』
みなみなさまのツッコミをお待ちしております。
40年前、小さな政治党派の週刊機関紙に、こんな書き出しで始まる「声明」が載りました。
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 日本人民のみなさん。
 いま北総の緑の大地には、春の暖かな微風が吹きわたり、澄み切った青い空が広がっています。四月二日から飛ぶはずだったジェット機は、影も見せていません。(略)
 これほど、すばらしいことがあるでしょうか。日本人民のたたかいの歴史のなかで、これほど見事な勝利があったでしょうか。
 皆さん、ともに肩を抱き、腕を取り合って、この勝利を喜び合いたいと思います。
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 当時は福田政権でした。かの政権が内政の最優先事項とぶち上げていた「成田空港・年度内開港」は、管制塔占拠という劇的な闘いで打ち砕かれました。
 暴力的に巨大事業を行う権力に、全国の労働者や学生が力を寄せ合って、実力で跳ね返したのです。
 それは道義に基づいた闘いでした。
 考えても見てください。その闘いの勝利なしに、政府がそれまで見向きもしなかった「農民との話し合い」や「自らの非」について、口にする事態がおこったでしょうか。
 40年前の3月26日に空港内に突入し、管制塔を占拠した反対派は、一気に成田空港を廃港にまで持ち込むには、確かに力が足りませんでした。しかし、開港阻止闘争の勝利の記憶は、政府の側が無理無体に暴力的な「解決」に踏み切ろうとする試みを、押しとどめてきたといえます。
 現地で暮らし続ける農家があり、それに心を寄せる人々が存在する限り、反対派農家を意向を無視して強権的に空港を造ろうとすれば「また、管制塔に赤旗が翻るぞ」という権力者の怯えは去るわけがないのです。

★前哨戦を通じて準備された3.26 
 3.26は1日にしてならずでした。鉄塔決戦が言われ始めた1976年頃に農民の空港建設反対運動はすでに11年を数えていました。
 管制塔占拠闘争は、岩山大鉄塔の防衛に向けての準備から始まる約一年半の攻防の集大成としてありました。岩山部落は4000メートル滑走路の南延長線上にある古村で、その台地に二基の鉄塔が建っていました。大鉄塔は、東京タワーそっくりのフォルムを持った高さ60メートル超える鉄塔で、飛行機の離着陸を完全に止めていたのです。
 1978年3.26当日に裏方として動いていた現地常駐の活動家(「現闘」と呼ばれていました)は、空港に突入していく者たちが集まった菱田小跡地の「異様な雰囲気、異様な熱気」を証言しています。

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「全員が逮捕される覚悟。(略)、『もう今日は全員が捕まるぞ』っていう気分を持っている何千人の集団っていうのは、それはものすごく異様で、そして巨大な力を感じるものがあるんだよ。そういうものは、それまでの1年間をかけてつくられてきたわけだけどね」は、それを端的に表したものです。
 3・26当日の天を衝く闘争意欲の「気分」は、一つ一つの攻防を経て圧縮され、この日には、もう誰にも止められない爆発的なエネルギーの迸りとしてあったのです。
 その過程をおおざっぱに年表で見てみます。
・1976年 2月、産土参道土どめ破壊阻止闘争。
     5月、三里塚廃港要求宣言の会結成(前田俊彦さん代表)
     10月、「(岩山)鉄塔決戦勝利」全国総決起集会。
     12月、福田内閣発足。
・1977年 1月、福田首相、年頭会見で「年内開港を内政の最重要課題とする」と発言。
       岩山鉄塔破壊道路工事が再開、現地攻防続く。
     3月、千葉で「ジェット燃料貨車輸送反対」集会、
     4月17日、現地集会に最大の2万3千人結集
     5月6日、千葉地裁が4日に出した鉄塔撤去の仮処分執行、岩山鉄塔破壊
     5月8日、千代田農協前広場で抗議集会。
         「5・8」戦闘。機動隊のガス銃により東山薫さんが虐殺される。
     5月15日、代々木公園で「沖縄と三里塚を結ぶ」中央集会。
     5月29日、「東山君虐殺糾弾」現地大集会。
     7月~8月、ジャンボ飛行阻止闘争。三里塚と全国を結ぶ大行進、
     10月、 現地総決起集会。
     12月、横堀要塞の建設はじまる。
・1978年 2月6日、警察機動隊が横堀要塞への攻撃を開始、鉄塔攻防戦。
     3月1日、現地集会で反対同盟「3月開港阻止決戦突入」を宣言。
     3月26日、「包囲・突入・占拠」闘争。横堀要塞で第二次戦闘、
         開港延期を閣議決定(28日)。
 年表の冒頭を少し考えて見ます。
 空港建設の具体的な動きは常に「道路作り」からです。測量があり、資材輸送や(彼らの側からする)妨害物撤去のための道路が作られていきます。言葉を変えて言えば、周辺の地形が変わっていくことが、強行建設の始まりなのです。
 産土様は、古い歴史を持つ岩山部落の人々を見守ってきた神様です。政府は、ずっとこのようにして村を破壊してきました。このとき、71年の代執行以来、表立っては見えていなかった強権的な建設の動きが露になったのです。しかも、これは福田内閣が発足する前でした。
 もう一つ、これも成田空港建設らしい話ですが、福田は当初、「年内開港」とぶち上げていました。無理強いにやればやるほど齟齬は重なり、まもなく「年度内開港」と言うようになります。政府は現地の様子も、農民の気持ち、抵抗の意欲、全国の支援者の力をまるでわかっていなかったということになります。
 この産土参道破壊阻止闘争は、しかし、その後から思えば牧歌的な雰囲気でした。もちろん、槍衾を組んで機動隊の盾をボコボコ突いたり、泥まみれになって泥団子合戦ごっこ的攻防戦をやっていたのです。かわいらしい前哨戦でした。そこから開港阻止実力闘争は始まっていったといえます。
 さて、後に管制塔占拠につながる闘いは、主として「三里塚闘争に連帯する会」という大衆運動団体に参加していたものたちによって担われたものでした。第四インター(第四インターナショナル日本支部)やプロ青同(プロレタリア青年同盟)は、それに当初から参加していた政治党派でした。
 この大衆団体は、74年の参議院選挙で、反対同盟の戸村一作委員長を押し立てて選挙運動した者たちのつながりで出来上がっていたものです。
 全国的な反対同盟支援の体制は、このような大衆的な運動の積み重ねでつくられていたのです。
 この財産の上に、一年余りの実力攻防戦で反対派は鍛えられていきました。
 もっとも重要なことは、三里塚闘争の特性です。何より、農民の過激な闘いに「学生さん」は学んでいったのです。

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★岩山鉄塔破壊反撃戦(1)77年5月8日
三里塚闘争の現場で、鉄パイプとジュラルミンの盾の戦乱的攻防戦が闘われたは、管制塔占拠の1年前からのことでした。これは、それまで飛行機の離着陸を阻んでいた岩山部落の鉄塔二基が、抜き打ちで5月6日に倒されたことに対する反撃戦として行われたものでした。
 もともと開港阻止の闘いは、岩山大鉄塔の防衛戦から始まると考えられていたのです。
 権力は「肩透かし」のつもりだったでしょう。
裁判所が撤去の仮処分決定を不意打ちで出し、夜陰に乗じて機動隊が周囲をかため、抵抗らしい抵抗ができぬようにしたうえで鉄塔を倒したのです。
 理屈はつきます。「反対派の抵抗による混乱、怪我人を避ける」という慈愛に満ちた配慮です。しかし、裁判官さま、公安のみなさま、警察のご同輩、そんなナマ言っちゃいけません。
 反対同盟のじいさんから子どもまで、そんな甘ちゃんではないのです。「あなたがたがそのように育ててくれたではありませんか」と私どもは感じたのでありました。
 かくして、部隊と部隊がぶつかり、石や火炎瓶が乱れ飛びました。1971年の強制収用をめぐる一連の闘い以来、6年ぶりのことだったといっていいと思います。
 このとき、5月8日の空港第5ゲート前で行われた戦闘がもっとも激しいものでした。この過程で坂志岡団結小屋の常駐者、東山薫さんが機動隊員にガス銃で殺されました。
 この日、機動隊が使用したガス銃から撃ち出されたのは、催涙弾だけではありません。機関銃弾のような流線型の強化樹脂製のタマが大量に撃ち込まれたのです。
 催涙弾はそれ自体、化学兵器のようなもので許しがたい治安武器です。しかし撃ち出されてからの軌跡も見えるし、避けることもまぁ可能でした。
 プラスチックの模擬弾はそうはいかない。見えないし、ダメージが大きい。直撃を受けて重傷を負うものが続出しました。東山さんは野戦病院という負傷者救護の仕事をしていたのですが、機動隊は彼の頭蓋を至近から狙って撃ち砕いたのでした。
 空港反対派はこうしてまたむごい犠牲を引き受けました。
 そしてまた、ひきかえに5・8闘争は、現地の闘いの「スタンダード」を手に入れたといえます。その後に向かう意識や闘いの方法を決定付けたのです。政府の側が暴力的に、あるいは詐欺的にことを行おうすることに、その企図を頓挫させる可能性を、現実的に垣間見せてしまったのですから。
 鍵は大衆の結集した力、実力による反撃にありました。その闘いを支える共感のうねりを現地・三里塚へ向かって作り出し、陣形を作り上げることでした。
 陰惨なテロではなく、爆弾のような支持なき先鋭でもなく、一人ひとりが自分の責任で闘いに参加し、自分の意志と身体をそこに賭ける、過激にして愛嬌ある本質的にラジカルな闘いの方法でした。

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★岩山鉄塔破壊反撃戦(2)77年5月8日
 三里塚闘争は、支援へ向かった初期の学生や労働者が、実力による生活防衛闘争を学ぶ場でした。そのなかで、開港阻止が日程に上り、約一年の実力攻防で、反対派がさらに鍛えられてきたと前回は書きました。
 岩山大鉄塔が闇討ちで破壊されて、その反撃の機こそが、後の開港阻止部隊にとってエポック・メイキングなできごとだったとも。
 既にこのときまでに、三里塚闘争は12年の歴史を持っていました。それがどのようなものだったのか。反対同盟にどのように刻み込まれていたのか、ひとつ例を挙げておきたいと思います。
 加瀬勉さんという人がいます(『三里塚のイカロス』にも登場します)。羽田に代わる国際空港があちこちに候補地を捜し、成田市の隣の富里町に決定しかかったときから、空港反対運動に関わってきた人です。社会党員で、日本農民運動のオルグでした。富里、三里塚と、誰よりも農民の運動を長く見てきた人です。
 1977年5月8日、部隊は、戦闘が終えて横堀の労農合宿所前に集合していました。戦った部隊が持つ鉄パイプは、ポケモンのピカチューのしっぽのようにひん曲がっていました。
 脳死状態に陥っている支援者の名が告げられると、「かおる~」と、悲鳴のような長く尾をひく声があがりました。パイプが揺れ、「報復だ!」という声も響きました。
 総括集会は「権力の虐殺行為を許さず、東山薫の意志をついで闘う」という発言が相次いでいました。いったい、こんな犠牲を前にほかに何を語ればいいのか。
 しかし、それらの発言は、言葉の軽さばかりが浮き上がって、中空に消えてしまうかのようでした。
 そこに、初めて加瀬さんが壇上に立ったのです。加瀬さんが現地の集会で発言するのを、それまでもそれからも見たことがありません。
 加瀬さんは傾いていく陽の中で、髪を振り乱しながら部隊に向かって獅子吼しました。彼は、地に付く鬼人のように闘って死んでいった大木よねのことを、くびれて下っていた青年行動隊の三ノ宮文男の遺体を自ら木から降ろした日のことを、全身全霊をかけて語りました。
「三里塚の大地は血を吸い、闘争はその血で進んできたのだ……」と。
 それは新左翼と呼ばれる運動の中で、聞いたことのないアジテーションでした。内容と質と迫力において、まるで違うものでした。
 加瀬さんは特別なことを言った訳ではありません。
「これが三里塚闘争」。彼はそう言ったのです。日本の農民運動、住民運動が持ちつづけ、格好付けの日本の「学生さん」「新左翼」になかった、真の意味の過激(土着的なラジカルリズム)と、その粘り強さ、闘うものの腹の据え方を語ったのでした。
 5・8闘争は、単にある部隊が実力闘争をやりきったというところに意味があったのではありません。東山薫というかけがえのない命を犠牲にして、涙も怒りもいっしょくたになり、それでも進む三里塚闘争の特質が、支援者たちの胸の内に深く刻み込まれたことが重要だったのです。
 闘争に命をかけることを簡単に受け取るふりをするな、利いた風な口をきくんじゃない。このようにして闘争は続けられてきたし、続けられていくのだ、と。
 私個人は、そのようにあの演説を聞いたのでした。

★岩山鉄塔破壊反撃戦(3)77年5月8日
 この駄文を某所に書き綴っていた折に、どなたか存じ上げぬのですが、5.8闘争の現場にいらした方が書き込んでくれたものがあります。空気をよく表現しているので、ここに再掲します。
 あっと、代島さんの『三里塚のイカロス』が毎日映画コンクールの「ドキュメンタリー映画賞」を受賞したのですね。めでたい! こころよりお喜びを申し上げます。
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 あの日(1977年5月8日)は,千代田農協前から一端移動を始めた時点で、鉄パイプは折れ曲がり使い物にならなくなっていた。皆が口々に「もっと太いのはないのか」と云っていた。全身から立ち上るガスのにおいで、またげーげーしながら、畦道で田の柵に使われたパイプを探したりもしていた。小次郎スタイルにしたときに、抜き出し易いと考えると、「配給」されたくらいのモノになるんだろうが、役に立たなかった。
 FIH(国際主義高校生戦線)から活動を始めた私は、いわゆる「ゲバ棒世代」ではなく、少し遅れて来た世代だ。「武装」は身近では無かった。芝工大の寮に残る「学生インター武装突撃隊」などの落書きを前に「先輩」の専従から「激しかった頃の話」を聞かされるくらいだった。然し、所謂テント村建設前後の「訓練」、トラックで遠くに連れて行かれて、歩いて帰ってこいとか、「組み手」をやったりとか。あの辺りから次第に「武装」というモノがなし崩しに身近になっていった。
 しかし、77.5.8 あの日は全てにレベルが違った。500に満たない部隊だと思ったが、鉄パイプを握りしめて朝倉を飛び出していった我々の決意は次元が違っていた。 然し、この日は敵も次元が違っていた。何しろ機動隊が打ち込んでくるのはガス弾だけではない。魚肉ソーセージと同じくらいの大きさで、色も同じようなピンク色の強化プラスチック弾(おそらく東山君に打ち込んだもの)をぽんぽん水平打ちで打ちこんでくる。そんなのがうなりをあげて耳元を、メットをかすめていく。
 その弾を拾ってポケットに入れた新聞記者が、機動隊にけっ飛ばされているのも見た。「格好付けの日本の学生さん、新左翼」だったかもしれない我々も「腹を据える」事をたたき込まれた日であった。そうして僕らはへとへとになり、足を引きずって労農合宿所にたどり着いた。
「水平打ち」「死者3名」「いや1名」そんな言葉が飛び交っていた。そこで始まった加瀬さんの演説は、そんな僕に、我々に、ずしっとのしかかった。「ディエンビエンフー、インターナショナル」、そんな言葉が北総大地にこだました。この大地で戦うと言うことは絵空事ではなく、こういう事なのだと、あらためて自身に刻み込む事になる、そうした演説であった。

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★テスト飛行阻止闘争(1)
 岩山の鉄塔が闇討ちで撤去されてから、まもなく4000メートル滑走路を使って離着陸するテスト飛行が開始されました。頭上を通過していく飛行機を小屋から初めて見たときには手を伸ばせば届きそうだと思うくらいの高さ(低空)なのでありました。それまで静かな田園地帯だった岩山や朝倉といった部落は、航空機の騒音が真上から降ってくるようになりました。
 ある農家に行ったとき「ヤギの背中がなんかじっとりと油がつくような感じがしていてよ」という話を聞きました。岩山や朝倉は騒音で追い出しを掛けられている、という状態です。
  テスト飛行はこの空港になれる訓練です。タッチ&ゴーという滑走路に降りては止まらずそのまままた飛び上がっていく、という確か慣熟飛行訓練と呼ばれていたはずです。夏にはひときわ大きなジャンボジェット機が飛来するようになっていました。
 もちろん、そのまま反対派は指を加えているわけがなく、その朝倉あたりからアドバルーンが上げられ、きっちり飛行はとまるのでありました。それをやれば、もちろんアドバルーンを撤去にやってくる機動隊と追っかけっこ。
 ピシッピシッと白い粉を飛ばす催涙弾が道を滑るのを横目に、たいがい一目散に林に駆け込み、彼らが去るのをじっとやり過ごすのです。頭上にはヘリがいつまでも部隊を探し続けるというわけです。
 慣熟飛行阻止・ジャンボ阻止闘争は、ある意味とてもそのころの三里塚闘争を象徴していたように思います。農民と支援の労働者・学生がきっちりつながって、なるだけ無駄な犠牲を出さぬようにしながら、やれる打撃は与えていくという方法です。
 自分たちのホームで闘うというのはアドバンテージがあるものです。やってきた機動隊は思いもよらない所からいきなり攻撃をかけられて、大慌てになるなんてこともあります。ほんと、そういうときって情けないくらいに機動隊は弱くなる。
 後に厳寒の横堀要塞で2昼夜放水に耐えることになるOさんなど、なにかと機動隊からぶんどった装備を掲げて記念写真など取っておりました。悪い子です。
 そうはいっても時折、逮捕者は出します。アドバルーンを上げつつ、一方で空港ゲートに数十人がトラックで乗り付けて、ひと暴れしてくるなんてことがあると、撤退時にころりとトラックから落ちて、「あ、200万がおちた」なんてひどい言い草になるのでありました。保釈金です。火炎瓶や鉄パイプが標準装備になれば、なんだかそんな感覚になってしまいます。やっぱりみんなも悪い子です。
 ある日、トラックで乗り込んだ兵隊さん私は、空港第5ゲート前だったとおもいますが、赤だか青だかの色付き放水を見舞われました。濡れるの嫌いなので、当たってあげませんでした。なんだか現在のわたくしのごとくに元気がなく、ちょろりんのへなへな放水なのでした。放水に勢いがついたのは、さっさとわが隊が撤退にかかったあとだったかもしれません。色付きの水の装填に慣れていなかったのか、いや突然の部隊の出現に射手がビビってしまったのか。
 はい、あちらがタッチ&ゴーなら、こちらはヒット&ウェイなのでありました。
 全国からやってきていた特に学生どもは、そんなことをやりながら、数日間現地に留まって援農に入っていたのです。
 そして、大事なことはこんなことをやりながら、すでに空港に突入し管制塔を占拠するプラン化は進められていたのでした。

★テスト飛行阻止闘争(2)
 この頃の記憶にある話を書いておきます。
 最近、狭山事件の石川一雄さんが再審を求めて、裁判所前に立ってアピールしている記事をFBでもよく見るようになりました。彼の裁判の上告棄却の報を聞いたのが、このテスト飛行阻止で現地に駆り出されていた時のことでした。
「人民耕作地」と呼んでいましたが、三里塚には耕作を放棄された農地がけっこうありました。地主ではない現闘がそこの耕作を続けたのです。
 理由はさまざまあったでしょうが、反対同盟員が持つ田や畑のすぐそばに雑草生えまくりの手の入らぬ土地がならぶのは、営農にとても困ることは誰が考えても分かる。援農(反対同盟の農作業の手伝い)はもちろんのこと、現地に小屋を持つ支援者で、独自に耕作を続けた土地があったのです。
 1978年の8月9日、汗塗れで一息つきお茶を飲もうとした時に、この畑で私は「狭山裁判上告棄却」の報を聞かされました。すぐに全国に緊急動員がかかり、関西に戻る予定だった私は三里塚から日比谷公園の抗議集会に向かったのでした。
 狭山裁判は被差別部落出身の石川一雄さんが、殺人の冤罪で逮捕・起訴された事件です。部落差別による予断による捜査とでっちあげで逮捕され、彼はこのときまでに14年間を拘置所でとらわれていたことになります。
 裁判そのものは一審でまともな審理がなされないまま死刑判決が出され、高裁でようやく差別が根底にある人権侵害・冤罪事件として、闘いがなされることになりました。高裁では死刑判決が破棄され、無期懲役になりましたが、それはもちろん被告の石川さんを有罪と認めたものでした。この判決が最高裁に追認されて、石川さんの上告を棄却したのでした。
 上告棄却で刑が確定した石川さんは、千葉刑務所に下獄しました。千葉拘置所(刑務所房に暮らしていたものもいた)には春からの闘いで逮捕された三里塚闘争関係の被告が数十人いました。このあと、「おい、石川さんに会ったよ」という話が、けっこう外に伝わってくることになったのでした。
 石川さんも、あの日からまた40年を無実を叫びながら生きてきたことになります。殺人罪による無期懲役で、その罪を認めないまま、仮釈放になるというのはたいへんなレア・ケースでしょう。彼を応援してきた弁護士や支援者達の奮闘もなみなみならぬものだったでしょうし、石川さんの意志の強さにも驚嘆させられます。
 同じ獄中暮らしや、その後のシャバの生き方でも、わたしらお笑い管制塔戦士とやらとは比較になりません。人が学ぶべきは彼の不屈の数十年なのだと思います。
 数年前に地下鉄の駅でばったりと石川さんとお会いしました。ああいうときはただただ身が固まってしまうらしい。数秒間、わたしはそこに突っ立ったまま、石川さんと見合ってしまったのでした。そんなにまじまじ見つめられたらというふうに、あるいは「この人誰だっけ?」というふうに、石川さんもこちらを見つめ続けるのでありました。
「石川さん、ですよね。少しの間、千葉刑でご一緒していたのですよ」
 そばにいらしたお連れ合いが
「まぁまぁ、お仲間なんですねぇ」というのでありました。
 1970年代はすでに遠い。若い人たちにこの時代の雰囲気を伝えるのは難しいのかもしれない。酷いことがたくさん起こっていましたが、その不正義を許さぬ空気も確かにあったのです。その気持ちはつながり合っていました。
 三里塚は、まちがいなくそれら一つ一つを結い上げて、闘っていたのでした。
(つづく)

【お知らせ 1】
三里塚管制塔占拠闘争40年 今こそ新たな世直しを! 3・25集会

◎ 日時 2018年3月25日(日)午前11時から19時30分
◎ 会場 連合会館2階大会議室(御茶ノ水駅)
◎ 集会
/第1部 映画「三里塚のイカロス」上映
/第2部 現地から報告、発言、他
/第3部 懇親会
◎ 参加費 1部+2部 1000円、3部(懇親会) 2000円
◎ 主催・三里塚芝山連合空港反対同盟(柳川秀夫代表世話人)
    元管制塔被告団
◎ 連絡先
 ・三里塚芝山連合空港反対同盟 千葉県山武郡芝山町香山新田90‐5
   TEL・FAX0479‐78‐8101
 ・元管制塔被告団 090-8171-1810 中川
 ・三里塚空港に反対する連絡会
   東京都千代田区内神田1-17-12 勝文社第二ビル101
   研究所テオリア/TEL・FAX03-6273-7233
Mail:email@theoria.info

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【お知らせ2】
●日大全共闘結成50周年の集い

2018年6月10日(日)午後
水道橋近辺で開催

【お知らせ3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は3月9日(金)に更新予定です。