今年は激動と変革の時代、1968年から50年目の年である。50周年を記念して集会や本の出版が企画されているが、もう一つ、1978年の成田空港管制塔占拠から40周年の年でもある。3月25日には、「三里塚管制塔占拠闘争40年 今こそ新たな世直しを! 3・25」が御茶ノ水の連合会館で開催される。
 この管制塔占拠闘争に関わったH氏が、フェイスブックで『開港阻止決戦って何だったのよ、ドキュメント』と題した連載を掲載中であるが、この連載記事を私のブログに転載させていただくことになった。記事は3回に分けて掲載する予定であるが、前回(2月23日)に引き続き、今回は2回目を掲載する。(転載にあたっては、H氏の了解を得ています。また、写真はブログ管理者の独断で刑しあしたものです)

【開港阻止決戦って何だったのよ、ドキュメント】その2
★横堀要塞戦(1)
 1977年の秋以降、政府と反対派のせめぎ合いの主戦場は、滑走路の延長上にあった岩山・朝倉から横堀部落へと移って行ったのでした。当時の道に沿って辿っていけば、空港東側を北上し菱田の辺田部落をすぎて、坂を登っていった開拓部落です。
 要塞は当初、鉄塔跡地の岩山要塞と、横堀の横風用滑走路予定地のど真ん中に建設が構想されました。岩山要塞は映画『三里塚のイカロス』のラストシーンに出てくる、あの鉄塔が立っている建物です。岩山要塞はなんとか完成したのですが、問題は横堀にありました。横堀の当初の予定地は、空港反対同盟の瀬利誠副委員長の家があったところです。
 反対同盟という組織は実におもしろいというか、知恵があるのです。一見、せめぎ合いに負けているように見えても、次の展開の備えて手が打ってある。転んでもタダでは起きない。瀬利副委員長が土地を売って、横堀の地を去ったときも、この宅地は、後の反対同盟の代表になる横堀部落の熱田一さんに、土地の名義が書き換えられていました。
 要塞の準備が開始された当時は、インターの横堀団結小屋として利用されており、常駐者がおりました。ここで最初の「穴掘り」が開始されました。
 これは大変でした。とにかくここには「妨害物は建設させない」という警備の意図が、現実の介入としてギリギリとやってきたのです。
 やがて横堀要塞の建設地は、もう少し北東へ移動します。インター横堀団結小屋が横風用滑走路のど真ん中だとしたら、新しい建設予定地はこの滑走路に接する、もう一本の滑走路(4000mに平行する2500mの滑走路)の延長上に位置する場所です。
 辺田部落の三ノ宮さんの所有する畑の一角でした。
 71年の代執行後、自ら命を絶った三ノ宮文男さんの家が、この土地を反対運動のために提供し、ここで、これより建設開始から2ヵ月後に壮絶な二月要塞戦が闘われることになるのです。
 横堀要塞の建設は、その役割と闘いのイメージのもとになる経験がありました。どんな闘いでもそうなのでしょうが、先立つ闘いの財産や教訓が引き継がれているものです。
 開港阻止決戦まで、当時の第四インターの三里塚闘争の方針を立案していた一人、柘植洋三は次のように語っています。
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壮絶な2月決戦*(『1978・3・26 NARITA』)
 柘植●当時の「三里塚反対同盟」はとても大きな組織で、その中で作戦参謀として活躍していたのが、Yさんのお父さんと岩沢吉井さん(現闘の若者たちから「岩沢のじいさん」と慕われた反対同盟の老闘士。2002年に92歳で亡くなった)でした。第四インターが立てた「塹壕にたてこもって強制収用に対抗する」作戦は、この2人を通し、反対同盟の方針として確立されていきました。
 横堀要塞が建設されるまでには、いくつかの紆余曲折がありました。
 反対同盟の建設決断について、一部の記録に、「熱田一さんが風邪をひいたために遅れた」といった書かれ方がされていますが、これは事実と異なる……というかぼかしています。熱田さんには当時、多くの党派からの引き合いがあり、簡単に決断できない状態にあった。その迷っているところに岩沢さんがやってきて「ここで旗を上げなければ開港阻止闘争はどうなるんだ」と詰め寄り、ついに決意する――これが真実です。
 そしてやっと、横堀団結小屋付近に要塞をつくる作業が始まるのですが、その直後、朝日新聞に図面が流失して、それが記事になってしまう。これを見た権力側は、収用用地内に永久建造物がつくらせまいと、収用法の適用を前提に、工事妨害の準備を始めた。そこで建設予定地を三ノ宮さんの畑に移動することになったのです。(『1978・3・26 NARITA』)
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 実は、じいさんは太平洋戦争中に横須賀の猿島砲台に砲兵としていて、その経験が大きかったのです。行ってみれば分かりますが、猿島は隧道、切り通し、を駆使して地下要塞化が図られていた砲台でした。じいさんは自ら穴掘り、塹壕掘り、そして穴の中で暮らしては、敵機がくれば砲に駆け上がり、撃ちっ放していた人だったのです。
 横堀に要塞をつくるという反対同盟の決断の様子を、じいさんは次のように語っていました(岩沢への平田インタビュー)。
●岩沢吉井 横堀要塞をつくるのにどうするのかと。2,500(mの平行滑走路)の先端でやろうか、もしくは3,200の横風用でやろうかと。で、オメらの方の小屋(インター横堀団結小屋)を使おうとなった。あれは熱田さんの名義にしてあるから熱田さんを何とかしなくちゃならない。今度は熱田さんは区長だということでしょう。で、くどきに行った。
 さんざんくどいたら「よかっぺや」と。で、「よかっぺ」じゃ困るんだと。いいならいい、悪いなら悪いときちんと決めてくれと。あとのことはあとのことでそれなりに考えるからと。とにかく基本になるのはそこから出発しなければ……お前は何のために軍隊で歩兵の下士官(班長)をやってたんだと大声でいってきた。こうなるとおれのいい方がちょっとやくざめいてきちゃうんだよな。
で、熱田さんが、「使ってもらうべや」と。
 じゃ、そのように話を進めていくぞと。ただ、(この段階では)重大な闘争の場所として使うよ、としかいってなくて、鉄塔を建てるとかはいわなかった。
 で、計画進めて図面つくって持って行って説明した。「これは熱田君、工事をやって成功して、引き渡しを受けた時点で同盟のものとして運動に使うから」と。
(後日) 「つくりたい」というのがこの間のあんたの答えだから計画を立てて図面をつくってあんたに見せた。で、このことの責任者をあんたにやってもらいたいからと。
 図面はオメらの小屋のどっかでつくったんだよ。おれがやること関するはみんなオメらがひっかかってんだ。それで初めて仕事になってオメらがブロック、戸村選挙でやった横堀のグループがかたまって闘いが組めたんだから。中核は中心に入ってないはずだ。
 それで、今度は熱田さんに、「これで責任はあんたに移ったんだよ。これからあることはあんたの指揮監督に任せるよ。しかし相談相手には私なりますよ」と。
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 じいさんはなかなか怖い人であったのであります。
 ええ、それでも私にはやさしかったのですよ。惚れちゃってたもんね。

★横堀要塞戦(2)
 三ノ宮さんの畑の一角の横掘要塞は、不眠不休で建設が行われました。全国からやってきた学生中心の「建設現闘」数十人が、三交代で穴を掘り、型枠を作り、セメント粉にまみれてコンクリートを打設していったのです。
 三里塚は雪こそ降りませんが、冷え込みといったらなかなかに凄まじい。日が落ちればぐんぐん冷えて凍てつく土を踏みながらの作業です。完成をうたう空港の燈火がすぐそこに煌めくのを睨んでは、「いまにやってやるから!」の建設現闘の心意気であります。
 ミキサー車にぶら下げられたラジカセからは、威勢のいい労働歌!………ではなく、ばんばん売り出し中になってきた中島みゆきなんぞがかかっていました。
 反対同盟は、ブルを動かすIさんの姿がよくありました。「この人、大工さんだな」と思う人もいて、学生さんたちに指示しながら、自分もさっさとノコを使ってドジなところを補強する。建設が本格化すると、他の反対同盟の人たちもよく現場を訪れていました。もちろん、折りあれば差し入れ。現闘でなかった私達も、お手伝いに行って、そんなおこぼれの幸運に出会うこともありました。
 警戒のヘリが建設中の要塞の上に飛んできては、警告をしていました。まだ、できてもいない用地に対して、それも敷地内でもない場所の「形状変更」は違法というのでありました。橫風用の滑走路予定地からこの場所に要塞建設地が移されたのは、「空港建設予定敷地内であるか否か」が大きなポイントでした。その分、政府の側はこの場所の要塞妨害に動きが遅れたのでしょう。
 壁の厚さ1メートルなんて話が支援者の口にのぼり「完成したら壊せんわ」の期待が語られ、一方で「空港突入占拠ってどうやるんだ?」の、これまたお笑いのような戦術が語り合われていました。
 反対同盟の動きでも分かるように、岩山鉄塔が破壊されてのち、この要塞が人々の意識をひきつけ、幻想のような希望のような、はたまた確固たる信念が集って形を取るような場となっていきました。
 なんでも「ヘルメットにツララを垂らしてたったまま眠るやつ、叫びだすやつ、ささいなことで喧嘩を始めるやつ」続出の限界のさなか、要塞破壊に手をつけてきた機動隊との「厳寒の40時間の死闘」が始まるのでした。1978年2月6日のことでした。

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★横堀要塞戦(3)
2月横堀要塞戦の戦端が切って落とされたのは、6日、まだ明け切らぬときでした。
2月4日夜、要塞の3,4階部分に相当する部分にビル用鉄骨が組み上げられ、日をまたいだ午前1時頃、その上に一気に20mの鉄塔が立ち上げられたのでした。
反対同盟の「やる!」の決定が3日。むろん、今度は岩山大鉄塔撤去のような闇討ちは、けっしてさせない、ケンカの準備をして臨むということでした。
もちろん、機動隊がこなければ、すぐには戦闘にはならない。しかし、来れば直ちに、徹底抗戦に入る、ということです。
公団・機動隊からは「航空法違反」の警告が繰り返し行われていました。事業認定から漏らしていたアプローチ・エリアの「航空法違反」です。2月1日の「警告」では、「高さ9mを越えれば、航空法違反となる」という、あきれかえった理屈でありました。
建設できなかった数十年間には、時効という法の原則にも思い切って目をつぶるサービスをしてやるとして、それにしてもあの時点で9mの高さ制限とはこれいかに。
彼らの本音は、「こんなコンクリートのどデカイ箱を完成させてしまったら、この先も撤去できなくなる」であったでしょう。
反対派は「やっちゃうもんね」でしたから、3,4階部分の鉄材ががっしりと組まれた時点ですでに12m、「航空法違反」ということになりました。
この鉄骨を枠にして、コンクリートを打設されたら、ほんとに彼らにとって、大変なことになるのでありました。
5日、午後1時すぎ、大量の警備車両と機動隊を引き連れて、公団が「警告」にやってきたのでした。係官の緊張して上ずる声、えらく具体的な細かい条項。形だけの「警告」とは明らかに違っていたそうです。
夜、あちこちから機動隊の動きが急と知らせが入るようになります。大掛かりな動員では、高速道路を走るカマボコ(機動隊バス)の数や、緊張感は隠しようもないし、公団周辺で取材している新聞記者は受ける印象がいつもと違ってくるものです。
鉄塔が立とうが立つまいが、機動隊はこの要塞に手をつけにくるという決意と方針をもっている、ということがはっきりしたということです。
「明日、来る」の情報は、徹夜続きの建設隊員を色めきたたせ、必死に作業を急がせます。この時点では、もう要塞完成ではなく、戦闘準備に入るしかない。
反対同盟が篭城の人選に入り、大量の戦闘ブツが運び込まれます。
6日、4時半、反対同盟の緊急動員の通知。5時過ぎ、要塞外周の支援をする労働者や学生が労農合宿所あたりに結集して、部隊が編成されていきます。
6時前、横堀街道(横堀と菱田を結ぶ村の動脈)で、最初の戦闘が開始されます。いろいろ勇ましいことが言われるのは世の常でありますが、ま、小手調べ。要塞が最後の戦闘準備に入る時間を稼ぎながら、機動隊に少しでも打撃を与えるということです。
朝焼けの中で、朝日とは別の赤い色と黒い煙が、この街道を包んだのでした。
要塞に立て篭もったのは40数名。その中には6人の反対同盟の幹部たちがいました。
内田寛一行動隊長は朝倉部落で酪農を主にやっていて、芝山町の社会党の中心人物でもありました。熱田一さんは横堀要塞の責任者、横堀部落の人格的な代表者でもあり、後に反対同盟(熱田派)の代表になった人。当時の肩書きは副行動隊長でした。小川源さんは、二期用地内の木の根部落を開拓で作り上げた、これも木の根部落の代名詞のような存在。石井英祐さんは辺田部落の重鎮、地域や農協関係の核になる人だった。岩山部落の長谷川タケさんは「長谷川せんせい」と呼ばれた方。元教師の婦人行動隊長。小川むつさんは婦人行動隊の副隊長で、のちに農協全国理事になって農村の女性をリードしていく「ほんと地頭のいい人格者」(ある新聞記者)です。
いま、これらの人々の名前は、ほとんど実名で出てきません。しかし、私はあえて書き記します。亡くなったり闘争を離れたりして、名前が過去に霞んでいる人もいます。それだけなら、まだいいのです。
彼らの名誉と名前は記憶されなければなりません。
のちに、中核派を中心とする「支援」党派が、農民政府との接触、成田用水問題、一坪共有地問題などで、「脱落派」だの「裏切り者」だの、あきれ返る物言いで、これらの人々を非難し中傷し、家まで押しかけて脅迫まで及ぶ行動を行いました。
よ~く、覚えておかなければならないのは、この要塞建設から二月要塞戦の激闘を、反対同盟のこれらの人々は力の限りに闘ったということです。もうひとつ、よ~く覚えておかなければならないことは、のちに彼らを非難した連中は、これらの闘いの最中、ほとんど影さえみえぬ「闘わぬ人々」であったという事実です。
嘘だというのなら、当時の新聞でも資料でもひっくり返してみればいい。
その党派が自己の勢力(メンバー数や資金を含めて)、それにふさわしい人とカネを拠出し、闘いを組み上げる努力をしたのか。別に逮捕されることがいいわけではないけれど、何人の逮捕者を出し、それが全体の逮捕者の中に占める比率はどれくらいだったのか。
人は恥というものを知らなければならない。前衛を名乗っていたのなら、さらなり。
農民を責めるような資格があったのか、考えてみるがよろしい。
さて、立て篭もった40数人は徹底抗戦をやりました。
機動隊は「航空法49条違反の容疑で現場検証を行う」というのであります。引き連れてきた大型クレーン2台は「では何のため?」です。
タケさんは「夜もあけぬうちから、非道な行為をするというのですか。ここは私たちの土地、ただちに出ていきなさい」
近寄る機動隊員の上に、火炎瓶と石つぶてが雨あられ。
機動隊は「内田さん、違法行為をやめさせなさい。さもないと、あなたたちを逮捕することになる」と、やさしいご警告。
内田行動隊長「私たちはこれまでの生涯すべてをかけて、ここにいる。逮捕など覚悟の上だ」
熱田さんは要塞から身を乗り出して両手を広げて叫ぶ。聞いたのは、要塞内にいた篭城組だけでした。超低空にホバリングするヘリの音で、周囲に聞こえるわけもない。
この時のことを、その後、鉄塔最上部にしがみついて、酷寒零下の放水に耐えつづけることになるOは、「簡潔な言葉だった。闘って生きてきた人の本当の言葉に心を打たれた。短く『感動した』と伝えた」と振り返りました。
からだ、生涯、胸のうち、すべてをそこにかける農民と、ともにいる労働者や学生の間に虹がかかる一瞬。そりゃ、幸せでございます。
クレーン車の前に婦人行動隊が身を投げ出す。機動隊が容赦なくジュラルミンの盾で殴る。立て篭もった石井英祐さんの妻、節子さんが、つまりジューゼム(屋号・十左右衛門)のおっ母ぁが顔を盾で割られる。鼻の骨を折られ眼の下が陥没する。
これが空港建設だ。成田空港が作られてきた姿そのもの。
節子さんは「機動隊が見えたから要塞に入るか、クレーン車が来る道を塞ぐがしかないって思って、機動隊のところへ駆け出していったんだよ」
なんていう人たちなんだろう、俺は泣けてくる。

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★横堀要塞戦(4)
機動隊の急襲を受けたとき、要塞は完成していませんでした。
3階部分に板枠の防具をめぐらし、旗を飾り付けてあったと記憶します。
かろうじて機動隊の突撃を跳ね返して、中に篭ったのですから、支援者の方はあらかじめ人選されて準備されていたとは思えません。
切磋琢磨してこそ、好勝負ができるのでありましょう(マルキとの切磋琢磨にまるで興味のない「最大支援党派」も前述のごとくありましたが)、警視庁の誇るレインジャー部隊まで投入して攻撃に移った割には、ちょっと情けない泥縄攻撃でした。
こういった間抜け振りは、3月の開港阻止決戦にも、実はいかんなく発揮されるのでありますが。
反対同盟は実に反対同盟らしく闘っていました。
おっかさんたちが、阻止線を張る機動隊の盾をゆすっては、「おっとうに弁当をもってきただよ。自分たちの土地に入っていくのに、なんでおめえたちは、じゃましてんだ」と食い下がります。
機動隊は、要塞に向かって放水を繰り返すうちに、下はどろどろのぬかるみと化し、どでかい重機は身動きならず、それでもやりようがないから、時間ばかりがかかる。
機動隊は頭上を盾で覆って動き回り、それが射程距離に入れば、籠城組は「てっ~!!」とビンやら鉄材やら石やらを放つのでありました。高いところから機動隊のあの姿をみると、コックローチそっくりです。ゴキブリ退治に使うにしては、ちと過激すぎるものが投下されます。何度かの機動隊の総攻撃は、どひゃああ、と寄せては、ボコボコとブツを放られて、撤退の繰り返し。
一方、辺田と結ぶ横掘街道だけでなく、空港周辺でヒットアンドアウェイが起こり始めます。検問所、ゲート前にトラックに満載された赤ヘル部隊が乗りつけ、攻撃を加えていたのです。
機動隊が要塞への進入路を確保したのは午後も遅くなってでした。
ここから本格的な放水が始まります。高さ20メートルのゴンドラを備えた高圧放水車など、十台の放水車が要塞に接近して、猛烈な放水を開始しました。
要塞が水煙にかすんで見えなくなるという凄まじさ。
けれど、また、この放水のさなかに鉄梯子で近づく機動隊に、火炎瓶や鉄片、石などを投げつけて抵抗する篭城組の姿が、水煙の霞みがたなびく向こうに垣間見えるのでした。
6日午後4時過ぎ、要塞近くに取り付いた機動隊が、催涙ガスを乱射し始めます。またまたクレーン車を近づけようと、図ったのでありました。
すでに放水車もクレーン車も、火炎瓶を落とされて炎上、後退して消化液まみれになっていたのでした。ガス弾の援護射撃も、「チェックメイトキング2、マル対の抵抗が激しく持ちこたえられません」てな具合でした。
クレーン車に3発の焔ビンが着弾、炎上。またまたクレーン車は後退なのです。
三里塚の大地に日は落ちて、ついに夜戦に突入したのでありました。
何台もの投光器の光に照らし出されて、要塞はますます堅牢に居座り、地上30mの鉄塔はいよいよりりしい姿でそびえるのでした。
火炎瓶よけの金網トンネルが持ち出され、そこを通って機動隊の射手。えらいぞ、機動隊、いい根性だ。そして、ガス弾が当たって跳ね返る音が、カン、カンと遠く離れて見守っている支援者の耳に連続的に響いてくる。
超高圧の放水と、息も出来ぬはずの催涙ガスの乱射の中で、あらゆるものが投げつけられ、ついにはガソリンが上からまかれて、焔ビンで火がつけられます。
要塞の外壁一面がぐわぁと炎に包まれたのでした。放水でも炎は衰えません。
こうして、また、機動隊とクレーン車はすごすごと撤退。
夜8時、ついに機動隊の指揮官車がマイクで要塞に呼びかける。
「これ以上、立て篭もっているのは君たち自身が非常に危険になります。ただちに出てきなさい」
これは警告ではありませんね。確かに命ぎりぎりのところに篭城組はいました。日が暮れての放水でずぶ濡れになった彼らは、身体を凍らせ、ヘルメットに氷を張らせ……、体力を奪われていきました。しかし、むしろ、この呼びかけは機動隊の悲鳴でありました。
「悲鳴」がもっと深刻になっていくのは、これからなのであります。
また、数次に渡る横堀街道の外周戦で、反対派は3人の逮捕者を出しました。実は3月の管制塔占拠の隊長に抜擢されていた男が、その中にはいたのでありました。代わりに8ゲート大隊の指揮者から管制塔攻略部隊へと移る前田くん。
ああ、不運なのか運がいいのか、我らがデバラ・前田隊長。

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★横堀要塞戦(5)
2月6日午後10時、放水とガス弾の乱射のなか、クレーン車のアームが要塞3階部分の防御板を破ります。穴は横に広げられ、鉄骨が剥き出しになります。
内田寛一行動隊長や、熱田一さんはじめ、6人の反対同盟員は、この防御板から半身を乗り出す最前列にいました。本当に揺るがない人達でした。
機動隊はそこに梯子をかけて決死の登攀。投光器の光のなかに、催涙弾を浴びながら、梯子を外そうとし、焔ビンを投げ、抵抗しつづける篭城組の姿が浮かび上がります。
要塞内の火炎瓶に引火した炎が、火柱が。
20分後、機動隊はついに3階部分に侵入。水と催涙弾のカクテル液にずぶずぶになりながら肉弾戦。ボコボコ…ボコボコ、ま、やられます。
引きずられたり、ヤッケを引き千切られたり、けが人多数。
いいんだよ、十分やったんだからボロキレになっても、しっかり誇りをもって、連行されていけば。
ここでの逮捕者、反対同盟6人を含めて45人。
彼らが乗せられたカマボコに、おっ母さんたちがとりすがる。
だがぁ、まだ鉄塔の上に、4人が残った!
ここからほぼ24時間、零下7度の夜の寒風、放水、飛んでくるガス弾を受けながら、4人は頑張りぬくのです。
北総の闇の中に投光器に照らされた鉄塔がそびえ、その闇を通して、彼らが鉄塔を鉄パイプで打つ音が、カン、カン、カン…と響いてきます。
生きている証。
夜がふけていくのに、次々に反対同盟や支援が要塞が見える台地の阻止線の外側に集まってきます。
彼らは、封鎖された道を迂回して、谷に降り、あぜ道を踏んで、四つんばいになって林を這い登って、やってくるのでした。
そう、トロツキーが『ロシア革命史』でかつて書いたではありませんか。コサック兵の馬の腹の下を通って進む労働者の姿を。「革命は道を選ばない!」
ここは、農民の大地であり、機動隊は侵略者。地を知り大義をもつのは三里塚農民。
鉄塔のてっぺんには、インター現闘員の大島。
鉄塔にしがみつき、支援者が焚く火に向けて、音で闇夜を裂く鉄パイプ。三里塚3月開港阻止決戦へむけての命がけの打鐘棒でした。

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★横堀要塞戦(6)
高さ12mの要塞の上にそそりたつ20mの鉄塔には、中段と頂点近くの高段と二つの足場がつくられ、防護枠がしつらえてあったように記憶しています。
鉄塔のてっぺんには、
♪輪輪輪がぁ三つぅ、の反対同盟旗が翻っていました。夜が更けるにしたがい寒気に覆われ、放水に濡れそぼった同盟旗は、凍てつきながら鉄塔にまとわりついていた、という感じでした。
鉄塔四戦士とても同様、かぶったヘルメットにツララをさげ、この酷寒の夜を耐えます。
谷津を挟んだ台地に据えられた宣伝カーから激励の声が響いていました。。
「眠ってはいけない、凍死の恐れがある。声をかけ、励ましあって、戦い抜くんだ…」
点々と焚き火の炎があがる台地で、腕を組んだ支援者がインターナショナルが歌う。サーチライトの鉄塔上で、彼らも身体を揺らして歌っているらしい。
「俺らは歌を歌うぐらいしかできんのか、いったい何しにここに来たのか? 火に当たっている自分がなんか情けない…。早く、早く…朝が来てくれ」
正直に言うと、そんな感情をもって、鉄塔を見つめ続けておりました。
さすがに朝まで放水はなかったように記憶しております。
けれど、夜が明けるや、直ちに強烈に水が四人に叩きつけられ始めたのでした。
そのたびに、鉄塔は揺れ、反対同盟旗の結わえてある戦端のポールが撓みました。
よせばいいのに、お前はマゾヒストか、大島さんよ!
撓むポールにわざわざ登りあがり、旗に身をくるむようにして、放水を浴びにいく。
ただひたすらしがみ付いて、ヘルメットを高圧の水のほうに傾けて、揺れているのです。
中段にいるお仲間は、これまた銀色の防護服をきた機動隊のレインジャー部隊が近づくたびに、ありとあらゆるものを落として戦い続けていました。
遠く離れた支援者のところまで、音が聞こえてきそうな放水で吹き飛ばされそうになりながら、タンクが空になって放水が止むと、ドバっと立ち上がって両手を振り、パイプを打ち鳴らして、こちらに挨拶を送ってよこすのでした。
いやいや、ほとんど機動隊を愚弄しているというようにも見えるのでした。
こうして何度も何度も、凄まじい高圧の放水を身に浴びながら、彼らはまた夜を迎えたのでした。
横堀街道でもまた、火炎瓶による攻撃が、機動隊に向けられます。
反対同盟は「飯を届けさせろ。上杉謙信だって信玄に塩を送ったではないか」と詰め寄っていました。
後で聞けば、アドバルーンを使って運べないかという案まで、検討されていたのだそうです。
日が落ちてからは、反対同盟のおっ母さんたちが、別の人間に詰め寄るのでした。
「もう、おろしてやってくれ。りっぱにアンちゃんたちは闘ったでねえか」
要塞建設のときから、現場につめて、この闘争を建設隊と一緒につくってきた青行の新二さんや、インターの指導部相手に、涙を流しながら懇願し、命令し、「おろせ」と詰め寄るのでした。
(反対同盟ではない、おそらく)農家の婦人が「テレビで見てて、いてもたってもいられなくなっただよ……」と、私たちのまえをオロオロと、何か手にもって(ひょっとして食い物だったのでしょうか)、行きつ戻りつしておられました。
機動隊も手詰まり。なすすべがない状態に追い込まれていました。
このまま、また酷寒の中で激しい放水を続ければ、今夜こそ、闇の中から「死」がその顔を覗かせかねない。
機動隊も、反対派も、その意識がありました。
放水が止んでいました。
そこに新聞記者から情報が入ります。
「1人が体調を崩しているらしい。鉄塔では、1人だけ下ろすという交渉が機動隊と行われていて、機動隊がそれを拒否して全員降りて来いと言っている」というものでした。
反対同盟はここで決断します。
濡れたもの全てが凍り、鉄塔も凍てつく午後9時半。
スピーカーからの新二さんの声が響きます。
「鉄塔死守隊の同士の諸君。これから反対同盟の決定を伝えます。聞こえたら大きく手を振ってください」
サーチライトに照らされたシルエットが手を振る。
「機動隊はもう手も足も出ません。反対同盟は勝利を確認し、全員を降ろすことを決定しました。決定に従って降りてください。2日間の闘争、ごくろうさまでした。わかったらもう一度、手を振りなさい」。
こうして半ば凍傷を負い、曲がらぬ手と足で、ゆっくりと4人は地上に降り立ちました。大島はその前に、また一度、ポールの先端に登攀し、反対同盟旗をほどいて収納しようとしたように見えました。
結び目が凍った旗は、そのままつわものどもの奮戦のあとをとどめました。
降りてくる彼らに、きっと私たちは、叫び続け拍手をしていたに違いないのに、私の記憶では、何か凄まじいばかりに静かな光景として残ります。
「やっと降りてきてくれた」。それが機動隊の感情だったのではないでしょうか。
機動隊の中には、降りてくる4人を拍手で迎えた者たちもいたのだそうです。
(つづく)

【お知らせ 1】
三里塚管制塔占拠闘争40年 今こそ新たな世直しを! 3・25集会

◎ 日時 2018年3月25日(日)午前11時から19時30分
◎ 会場 連合会館2階大会議室(御茶ノ水駅)
◎ 集会
/第1部 映画「三里塚のイカロス」上映
/第2部 現地から報告、発言、他
/第3部 懇親会
◎ 参加費 1部+2部 1000円、3部(懇親会) 2000円
◎ 主催・三里塚芝山連合空港反対同盟(柳川秀夫代表世話人)
    元管制塔被告団
◎ 連絡先
 ・三里塚芝山連合空港反対同盟 千葉県山武郡芝山町香山新田90‐5
   TEL・FAX0479‐78‐8101
 ・元管制塔被告団 090-8171-1810 中川
 ・三里塚空港に反対する連絡会
   東京都千代田区内神田1-17-12 勝文社第二ビル101
   研究所テオリア/TEL・FAX03-6273-7233
Mail:email@theoria.info

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【お知らせ2】
●「三里塚のイカロス」アンコール上映!
第72回毎日映画コンクール ドキュメンタリー映画賞受賞
管制塔占拠から40周年を記念してアンコール上映決定!
4月14日(土)~4月27日(金)連日10:00より
「新宿 Ks cinema」
新宿駅東南口階段下る 甲州街道沿いドコモショップ左
www.ks-cinema.com

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【お知らせ3】
●日大全共闘結成50周年の集い

2018年6月10日(日)午後
水道橋近辺で開催

【お知らせ4】
ブログは隔週で更新しています。
次回は3月23日(金)に更新予定です。