2018年6月2日、東京・文京区の全水道会館で、10・8山﨑博昭プロジェクト主催によるシンポジウムが開催された。タイトルは「死者への追悼と社会変革」。当日、シンポジストとして、三橋俊明さんと真鍋祐子さんが参加したが、今回のブログでは、そのうち三橋俊明さんの発言を掲載する。
(当日のレジメを文末に掲載しましたので、併せてご覧ください。)
【「死者への追悼と社会変革」10・8山﨑博昭プロジェクト東京集会 2018.6.2】
佐々木幹郎(司会:詩人)
「今日のメインイベントです。シンポジウム『死者への追悼と社会変革』というタイトルで、今日は三橋俊明さん、日大全共闘です、それと真鍋祐子さん、このお二人に来ていただきましてお話を伺いたいと思います。
ちょうど絶好のタイミングとなりまして、日大アメフト部問題、50年前と全く変わっていない現在で、三橋さんはそのことも含めて、いろいろとこの間、マスコミやいろんなインタビューなどで大変ご活躍されております。本も、私は昔出た河出ブックスで『路上の全共闘1968』を読ませていただいて、面白い本だなと思いました。そして、今日2冊、まだ本屋に出ておりません。彩流社から『日大闘争と全共闘運動』それからもう1冊『全共闘、1968年の愉快な叛乱』、今日出たばかりですので、是非ご覧ください。
佐々木幹郎(司会:詩人)
「今日のメインイベントです。シンポジウム『死者への追悼と社会変革』というタイトルで、今日は三橋俊明さん、日大全共闘です、それと真鍋祐子さん、このお二人に来ていただきましてお話を伺いたいと思います。
ちょうど絶好のタイミングとなりまして、日大アメフト部問題、50年前と全く変わっていない現在で、三橋さんはそのことも含めて、いろいろとこの間、マスコミやいろんなインタビューなどで大変ご活躍されております。本も、私は昔出た河出ブックスで『路上の全共闘1968』を読ませていただいて、面白い本だなと思いました。そして、今日2冊、まだ本屋に出ておりません。彩流社から『日大闘争と全共闘運動』それからもう1冊『全共闘、1968年の愉快な叛乱』、今日出たばかりですので、是非ご覧ください。
もう一つ、真鍋祐子さんの博士論文を基にしてまとめられた『烈士の誕生―韓国の民主運動における「恨」の力学』、冒頭からとっても面白い問題意識で書かれたものだと思いました。
韓国の問題も、今日、トランプが6月12日にシンガポールで(北朝鮮と)会談をやることを決定したという報告がありましたけれども、南北朝鮮の問題が、これから世界史的に大きく展開していくというこの時期に、真鍋さんに韓国における民主化運動はどういう歴史をもっているのか、その構造は何であったのかをお聞きするのは絶好のタイミングだと思います。『恨』という力学の視点から見た場合、我々は韓国人のその考え方を、我々はどんな風に誤解しているのかというのが、この本の中ではよく描かれています。
私は司会をさせていただきますが、今日は三橋さんに最初20分ほど、そして真鍋さんにも20分ほど報告を受けて、その後、お二人の対話という形で一部を終わります。それから休憩をはさんで、皆さんからの質問を受け付けたいと思います。
では三橋さん、よろしくお願いします。」
私は司会をさせていただきますが、今日は三橋さんに最初20分ほど、そして真鍋さんにも20分ほど報告を受けて、その後、お二人の対話という形で一部を終わります。それから休憩をはさんで、皆さんからの質問を受け付けたいと思います。
では三橋さん、よろしくお願いします。」
三橋俊明
「三橋です。どうもとんだ時期にお引き受けしまして、レジメを作るというお話だったんですが、その最中に今報道されている日大アメフトの「悪質タックル」が起こったものですから、急にレジメに付け加えさせていただきました。ただ、今日のシンポジウムは「死者への追悼と社会変革」がテーマです。私も寄稿しておりますが、『かつて10・8羽田闘争があった-山﨑博昭追悼50周年記念(寄稿編)』が主役ですから「悪質タックル」についてお話するつもりはないのですが、三点だけ今も日大全共闘として活動している僕から指摘しておきたいと思います。
その一つは、事件の経緯は皆さん報道でご存知だと思いますが、日大の体質が1968年当時と全く変わっていないことがアメフト部の「危険タックル」問題を通して見えたという点です。それは日大全共闘に引き付けていうなら、50年前の日大闘争は民主化要求闘争だとマスコミの皆さんは仰っていましたが、その目的が達成できずに、日大を民主的な大学に変えることができなくて今の日大に引き継がれてしまったという忸怩たる思いも含めて、その現実が透けて見えたというのが一点目です。
その今の日大の体質を作ってきたのは田中英寿理事長なんですが、彼は1968年に日大闘争がたたかわれていた当時、相撲部に所属していました。日本大学の本部体育会相撲部で大活躍していたわけです。その体育会がどういう役割を日大闘争の中で果たしていたかというと、象徴的な出来事としては1968年の11月8日、関東軍を名乗る連中が江古田にある芸術学部のバリケードを襲うという事件が起こりました。そのときは日大全共闘が各地のバリケードから駆けつけて撃退し、何人もの関東軍を捕まえました。襲った連中が誰なのか確認したところ、他大学や暴力団もいましたが日大の体育会運動部もたくさん襲撃に参加していたんです。中には、日大の付属高校時代に私と机を並べていたN君という剣道四段でインターハイや国体に出ていた選手もおりました。一生懸命に剣道の道を歩んでいたヤツでしたが、そのNが角材で一般人を殴る行為を自ら望んでおこなうでしょうか。そんなはずはないと思いますが、でもそれを引き受けざるを得なかった。たぶん運動部の中で『やってこい』と言われて行かざるを得なかったんでしょう。それは正に、田中理事長体制下でアメフト部の内田前監督が命令に従わせようとしてきた体質と同じだったのでしょう。アメリカンフットボール部には上から言われたことは「悪質タックル」であろうともしなければならない上意下達の命令が生きていましたが、その体質は1968年に全共闘を襲った体育会の相撲部だった田中英寿によって築かれてきたわけです。それが2点目です。
もう1点は、しかし、変わったものが一つありました。今お話しした剣道部の友人は、たぶん罪悪感を抱きながら芸術学部のバリケードを襲ったんだと思いますが、その行為をきっと誰に話すこともなく、また懺悔することなく日大を卒業して今を生きているんでしょう。しかし今回は、その運動部の中から「私が何をしたのか」を記者会見を開いて告白する運動部員が出てきたわけです。1968年の話として言うなら「関東軍として全共闘のバリケードを襲って悪うございました」と謝って記者会見をするようなことを、一人のアメフト選手がしたわけです。日大全共闘としては、その勇気ある決断に、もしかしたら日大が変われるかもしれない希望を見たいと思っています。これから果たして日大はどうなるのでしょうか。とりあえずアメフト部員たちは集まって声明を出しましたけれども、次に声をあげるのは日大で学んでいる学生たちだと思います。学生たちがどういう形で行動に起ち上がるのか。もし起ち上がることになったら、我々は日大全共闘OBとして喜んで学生たちとともにあらためて日大闘争を闘いたいと思います。以上が、日大の「悪質タックル」問題についてです。
その一つは、事件の経緯は皆さん報道でご存知だと思いますが、日大の体質が1968年当時と全く変わっていないことがアメフト部の「危険タックル」問題を通して見えたという点です。それは日大全共闘に引き付けていうなら、50年前の日大闘争は民主化要求闘争だとマスコミの皆さんは仰っていましたが、その目的が達成できずに、日大を民主的な大学に変えることができなくて今の日大に引き継がれてしまったという忸怩たる思いも含めて、その現実が透けて見えたというのが一点目です。
その今の日大の体質を作ってきたのは田中英寿理事長なんですが、彼は1968年に日大闘争がたたかわれていた当時、相撲部に所属していました。日本大学の本部体育会相撲部で大活躍していたわけです。その体育会がどういう役割を日大闘争の中で果たしていたかというと、象徴的な出来事としては1968年の11月8日、関東軍を名乗る連中が江古田にある芸術学部のバリケードを襲うという事件が起こりました。そのときは日大全共闘が各地のバリケードから駆けつけて撃退し、何人もの関東軍を捕まえました。襲った連中が誰なのか確認したところ、他大学や暴力団もいましたが日大の体育会運動部もたくさん襲撃に参加していたんです。中には、日大の付属高校時代に私と机を並べていたN君という剣道四段でインターハイや国体に出ていた選手もおりました。一生懸命に剣道の道を歩んでいたヤツでしたが、そのNが角材で一般人を殴る行為を自ら望んでおこなうでしょうか。そんなはずはないと思いますが、でもそれを引き受けざるを得なかった。たぶん運動部の中で『やってこい』と言われて行かざるを得なかったんでしょう。それは正に、田中理事長体制下でアメフト部の内田前監督が命令に従わせようとしてきた体質と同じだったのでしょう。アメリカンフットボール部には上から言われたことは「悪質タックル」であろうともしなければならない上意下達の命令が生きていましたが、その体質は1968年に全共闘を襲った体育会の相撲部だった田中英寿によって築かれてきたわけです。それが2点目です。
もう1点は、しかし、変わったものが一つありました。今お話しした剣道部の友人は、たぶん罪悪感を抱きながら芸術学部のバリケードを襲ったんだと思いますが、その行為をきっと誰に話すこともなく、また懺悔することなく日大を卒業して今を生きているんでしょう。しかし今回は、その運動部の中から「私が何をしたのか」を記者会見を開いて告白する運動部員が出てきたわけです。1968年の話として言うなら「関東軍として全共闘のバリケードを襲って悪うございました」と謝って記者会見をするようなことを、一人のアメフト選手がしたわけです。日大全共闘としては、その勇気ある決断に、もしかしたら日大が変われるかもしれない希望を見たいと思っています。これから果たして日大はどうなるのでしょうか。とりあえずアメフト部員たちは集まって声明を出しましたけれども、次に声をあげるのは日大で学んでいる学生たちだと思います。学生たちがどういう形で行動に起ち上がるのか。もし起ち上がることになったら、我々は日大全共闘OBとして喜んで学生たちとともにあらためて日大闘争を闘いたいと思います。以上が、日大の「悪質タックル」問題についてです。
本題に入りたいと思いますが、僕の『かつて10・8羽田闘争があった-山﨑博昭追悼50周年記念(寄稿編)』(以下「寄稿編」)へのかかわりについてまずお話しすると、当初は「10・8 山﨑博昭プロジェクト」賛同人の一人として名前を連ねておりました。ただ、賛同人として名前を連ねているだけでなく、何らかのお手伝いができればと考えていたんです。これまで仕事として原稿の執筆や編集や本の制作にかかわってきたので、お手伝いできることがあるかなと思っていました。どんなお手伝いを考えていたかというと、実は日大全共闘の仲間たちと2011年から『日大闘争の記録-忘れざる日々』という冊子を1年に1冊くらいのペースで刊行してきました。
1968年当時、日大全共闘は大衆団交のときに3万人とも3万5千人ともいわれる日大生を集めたんです。そんなに大きな集団だったこともあって、今も定期読者の名簿が600名から700名くらいは確保できています。その皆さんに日大闘争の「記憶を記録に」とうったえて冊子をお送りする活動を続けてきました。その名簿が私たちのところにあるので、その皆さんに今回の「寄稿編」の出版をお知らせして、書籍販売のお手伝いのようなご協力ならできるかなと思っていました。そこで事務局にご連絡を差し上げたんですが、佐々木幹郎さんからご連絡をいただき校閲作業をやってくれないかとの依頼が来たんです。出版に携わっている方ならご存じだと思いますが、校閲作業というのはとても専門的な分野ですから、経験のない人間が安易に引き受けるような仕事ではないんです。でも佐々木さんから『当時の出来事について知っている、あの時代を経験している三橋さんに、できる範囲で協力をお願いしたい』という丁寧なご依頼だったものですから、お引き受けすることにいたしました。したがって、皆さんが「寄稿編」を読まれる前に、僕は校閲作業の中で原稿を読ませていただくという立場になったわけです。
当初「寄稿編」への投稿は、原稿用紙10枚でという規定でスタートしていたと記憶しています。校閲担当の僕はご寄稿いただき文字校正の済んだ原稿を読ませていただいたんですが、正直にいってあまりの原稿枚数の多さに、言ってしまえば原稿執筆枚数のいいかげんさに驚かされたんです。たくさん書かれている方がけっこういらっしゃいました。僕はたまたま書くことを仕事としてきましたから、10枚でと言われれば素直に10枚で書きあげてしまうんです。読んでいただければ分かる通りです。ですから、当初僕はこの「寄稿編」がどういう形で着地するのか心配していました。当然のことですが、10枚の規定をこえて20枚も30枚も書いているような原稿は削るなり減らしてもらうのではないか、またそうなるであろうと思いながら校閲作業のお手伝いに入ったわけです。ところが、佐々木さんの編集方針をお聞きするとまったく躊躇することなく『全文を載せます』という。えっと驚きましたけれども、正直にいってその揺るぎない姿勢に心をうたれたんですね。それは、読んでいただければ分かると思いますが、「寄稿編」に掲載されている文章は、まさに書かずにはいられない人たちが書きたいと思っていた内容を率直に記した原稿なんです。これらの原稿は、他人の誰かが枚数を減らせとか、短くまとめろとか、もう一度書き直せとかいって修正することが可能な種類の文章ではなかったんです。あえて感覚的に言わせていただくなら、人には止めることのできない「ほとばしり」や書かずにはいられない「心情」があって、その思いが原稿用紙の枚数を10枚では済まずに20枚にも30枚にも膨らませていったんだろうと思えたんです。その細部にわたってまで語りつくそうとしている「ほとばしり」や「心情」をひとかけらも削ることなく載せようというのが、佐々木さんの編集方針だったんだろうと思います。もちろん僕はその方針に賛同して佐々木さんの依頼にそって校閲作業をいたしました。とても厚い本になるだろうなと予想したとおり、見事に厚い本になりました。一気に読んでいただくのはちょっと大変かもしれませんが、この「寄稿編」は現在の10・8への皆さんの思いの結晶なんだなと感じながらしっかり作業をさせていただきました。
当初「寄稿編」への投稿は、原稿用紙10枚でという規定でスタートしていたと記憶しています。校閲担当の僕はご寄稿いただき文字校正の済んだ原稿を読ませていただいたんですが、正直にいってあまりの原稿枚数の多さに、言ってしまえば原稿執筆枚数のいいかげんさに驚かされたんです。たくさん書かれている方がけっこういらっしゃいました。僕はたまたま書くことを仕事としてきましたから、10枚でと言われれば素直に10枚で書きあげてしまうんです。読んでいただければ分かる通りです。ですから、当初僕はこの「寄稿編」がどういう形で着地するのか心配していました。当然のことですが、10枚の規定をこえて20枚も30枚も書いているような原稿は削るなり減らしてもらうのではないか、またそうなるであろうと思いながら校閲作業のお手伝いに入ったわけです。ところが、佐々木さんの編集方針をお聞きするとまったく躊躇することなく『全文を載せます』という。えっと驚きましたけれども、正直にいってその揺るぎない姿勢に心をうたれたんですね。それは、読んでいただければ分かると思いますが、「寄稿編」に掲載されている文章は、まさに書かずにはいられない人たちが書きたいと思っていた内容を率直に記した原稿なんです。これらの原稿は、他人の誰かが枚数を減らせとか、短くまとめろとか、もう一度書き直せとかいって修正することが可能な種類の文章ではなかったんです。あえて感覚的に言わせていただくなら、人には止めることのできない「ほとばしり」や書かずにはいられない「心情」があって、その思いが原稿用紙の枚数を10枚では済まずに20枚にも30枚にも膨らませていったんだろうと思えたんです。その細部にわたってまで語りつくそうとしている「ほとばしり」や「心情」をひとかけらも削ることなく載せようというのが、佐々木さんの編集方針だったんだろうと思います。もちろん僕はその方針に賛同して佐々木さんの依頼にそって校閲作業をいたしました。とても厚い本になるだろうなと予想したとおり、見事に厚い本になりました。一気に読んでいただくのはちょっと大変かもしれませんが、この「寄稿編」は現在の10・8への皆さんの思いの結晶なんだなと感じながらしっかり作業をさせていただきました。
僕が書かせていただいた「全共闘は10・8から生まれたのか?」という文章についてですが、当初原稿を書くつもりはなかったんです。なぜかというと、直接10・8にかかわっていなかったからです。少し踏み込んで言うと、僕が10・8のことを当時ほとんど知らずに毎日ぶらぶら遊んで暮らしているような大学生だったことがありました。1968年の4月から日大闘争に参加することになりましたが、それまではまったくのノンポリで政治や社会問題にとくに関心はなかったんですね。日大にはそんな全共闘たちがたくさんいるんですが、まあ、その典型といえるのかもしれません。そのように1967年の10月8日を過ごしていたこともあって、寄稿する立場にはないかなと考えていました。でもその一方で、もう一つの別な思いもあったんです。それは『日大闘争の記録-忘れざる日々』という冊子の編集人をしながら日大闘争にかかわった皆さんの経験をまとめていくなかで感じてきた思いと重なっていました。たとえば、直接には日大闘争にかかわらなかった多くの支援者たちの声をどのように集めればいいのか。街角で一万円札をカンパしてくれたご婦人や路上で一緒に石を投げてくれたサラリーマンの話は、どうすれば聞けるのか。また日大闘争のことをよく知らない人に経験を伝えていくにはどうしたらいいのか。そうした課題について考えてきたことと重なっていたんです。「寄稿編」に、10・8や山﨑博昭さんにかかわりのあった人たちだけでなく、何もしなかったり出来なかったり知らなかった人たちが、どうして、どのように向き合うことになったのかを伝えていく文章があってもいいのではないか。というより、もしそうした文章が加わることになったら、山﨑さんや10・8をめぐる経験に質のちがう幅や奥行がでてくるのではないかと思ったんです。今、ここにいらっしゃる皆さんは10・8と身近にかかわってきた方々でしょう。たとえニュースとしてしか知らなかったとしても、同じ時代を共に生ききたわけです。しかし当たり前のことですが、この寄稿編がこれから何年にもわたって読まれていくとしたら、10・8という出来事に触れてみよう、山﨑博昭さんについて知ろうと思った人たちは1960年代の経験を共有していない世代の方たちになっていくわけです。別の時代に暮らしている人たちが、10・8や山﨑博昭さんについて理解しようとこの「寄稿編」を読むわけです。その時に、同時代を生きながらも10・8を知らないで全共闘運動に参加し、でも10・8の経験を受け継ぎ山﨑博昭さんと向き合うことになった。そんな人たちが当時いたんだという時代と経験の広がりを伝えていく役割ならできるかなと思って「全共闘は10・8から生まれたのか?」を書かせていただきました。
僕としては山﨑博昭さんと10・8への思いを、率直に「共感」として語りたいと考えて書かせていただきました。それは、たとえば共に感情を共有するといった次元を超えた、出来事の由来や真相を知ることで自分の体験と過去の歴史とが重なり、経験を分かちあえたと思えるような「共感」について書こうと思ったんです。そうした次元の「共感」をつかむためには、出来事の「由来」や「真相」、いつ、どうして、誰が、どこで、なぜ、何をしようとしていたのかを知らなければなりませんでした。知ることが多ければ多いほど歴史的な出来事に接近できるし、自らの体験との重なりが見えてくるからです。知れば知るほど、経験を分かちあえる分量が増えていくように思えたんです。ですから、大切なのは「どのような出来事が、なぜ、何をめぐって起こったのか」という「由来」や「真相」をまずは知ることではないでしょうか。『かつて10・8羽田闘争があった-山﨑博昭追悼50周年記念(寄稿編)』は、そのことに応えようとしている記録になっているのではないでしょうか。すくなくとも僕は、そのようにこの「寄稿編」を読ませていただき山﨑博昭さんへの「共感」を僕なりに深めていくことができたと思っています。
「寄稿編」は、山﨑博昭さんの思いや10・8の経験を、あの場にはいなかった人たちと分かち合っていくための素材を提供しているんだと思います。僕は「寄稿編」を読ませていただくことで、これまでより密度の濃くなった、魂にふれる「共感」を受け取れたように思えました。あの場にいなかった僕が山﨑博昭さんの思いや経験をこれまで以上に感じられるようになったのは、少なくとも羽田闘争が10・8になぜ実力闘争として闘われ、山﨑さんがどのような反戦への意志をもって参加し、なぜ亡くなったのかを「寄稿編」をとおして多角的に複雑に知ることができたからだと思います。当時、何も知らなかった僕には近づけなかったんです。10・8という出来事を知らなかった僕には、「共感」するための土台がありませんでした。日大闘争に参加し、政治や社会について考え機動隊の暴力と向き合っていく中から、1960年代に起こった社会運動への「共感」の芽が少しずつ育っていったんだと思います。
日大闘争も同じですが、他人と経験を共有しようとするなら出来事の由来や真相が何だったのかをしっかり語り伝えていくことがまずは大切なのではないでしょうか。一人ひとりの細かな記憶を拾い集めたり語ってもらって記録していくこと。どんなに細やかな記録や資料であっても、その一つが残っていなければ共有していくことが難しくなる経験が、そういう何かがあるのではないでしょうか。「記録」は、魂にふれる「共感」が生まれていく原点の一つなんだと思います。
『かつて10・8羽田闘争があった-山﨑博昭追悼50周年記念(寄稿編)』は、そしてこれから刊行を予定している「資料編」は、10・8の羽田闘争と山﨑博昭さんの経験を未来にわたって誰かと共有していくための記録になると思います。最後になりますが、僕は二冊の記録本をもとにあの日の出来事をもう一度見つめ直し、直接には知り合いでなかった山﨑博昭さんとあらためて向き合ってみようと思っています。
僕としては山﨑博昭さんと10・8への思いを、率直に「共感」として語りたいと考えて書かせていただきました。それは、たとえば共に感情を共有するといった次元を超えた、出来事の由来や真相を知ることで自分の体験と過去の歴史とが重なり、経験を分かちあえたと思えるような「共感」について書こうと思ったんです。そうした次元の「共感」をつかむためには、出来事の「由来」や「真相」、いつ、どうして、誰が、どこで、なぜ、何をしようとしていたのかを知らなければなりませんでした。知ることが多ければ多いほど歴史的な出来事に接近できるし、自らの体験との重なりが見えてくるからです。知れば知るほど、経験を分かちあえる分量が増えていくように思えたんです。ですから、大切なのは「どのような出来事が、なぜ、何をめぐって起こったのか」という「由来」や「真相」をまずは知ることではないでしょうか。『かつて10・8羽田闘争があった-山﨑博昭追悼50周年記念(寄稿編)』は、そのことに応えようとしている記録になっているのではないでしょうか。すくなくとも僕は、そのようにこの「寄稿編」を読ませていただき山﨑博昭さんへの「共感」を僕なりに深めていくことができたと思っています。
「寄稿編」は、山﨑博昭さんの思いや10・8の経験を、あの場にはいなかった人たちと分かち合っていくための素材を提供しているんだと思います。僕は「寄稿編」を読ませていただくことで、これまでより密度の濃くなった、魂にふれる「共感」を受け取れたように思えました。あの場にいなかった僕が山﨑博昭さんの思いや経験をこれまで以上に感じられるようになったのは、少なくとも羽田闘争が10・8になぜ実力闘争として闘われ、山﨑さんがどのような反戦への意志をもって参加し、なぜ亡くなったのかを「寄稿編」をとおして多角的に複雑に知ることができたからだと思います。当時、何も知らなかった僕には近づけなかったんです。10・8という出来事を知らなかった僕には、「共感」するための土台がありませんでした。日大闘争に参加し、政治や社会について考え機動隊の暴力と向き合っていく中から、1960年代に起こった社会運動への「共感」の芽が少しずつ育っていったんだと思います。
日大闘争も同じですが、他人と経験を共有しようとするなら出来事の由来や真相が何だったのかをしっかり語り伝えていくことがまずは大切なのではないでしょうか。一人ひとりの細かな記憶を拾い集めたり語ってもらって記録していくこと。どんなに細やかな記録や資料であっても、その一つが残っていなければ共有していくことが難しくなる経験が、そういう何かがあるのではないでしょうか。「記録」は、魂にふれる「共感」が生まれていく原点の一つなんだと思います。
『かつて10・8羽田闘争があった-山﨑博昭追悼50周年記念(寄稿編)』は、そしてこれから刊行を予定している「資料編」は、10・8の羽田闘争と山﨑博昭さんの経験を未来にわたって誰かと共有していくための記録になると思います。最後になりますが、僕は二冊の記録本をもとにあの日の出来事をもう一度見つめ直し、直接には知り合いでなかった山﨑博昭さんとあらためて向き合ってみようと思っています。
本日、もう一つお話しておきたいことがあります。山﨑博昭さんともつながっているんですが、日大全共闘は日大闘争の中で一人の同志を亡くしています。皆さんには『中村克己の略歴と事件経過』というタイトルでレジメに書かせていただいたので、それをお読みいただくと大体の出来事と、中村克己くんがどういう人物なのかお分かりいただけると思います。
日大闘争は1968年6月11日からバリケード闘争に突入しますが69年2月頃から各学部のバリケードが機動隊によって撤去されていきます。その前後から70年にかけて疎開授業が始まって、1年間の単位をおよそ1週間から2週間で取得できるという馬鹿げた授業が始まります。日大全共闘は各学部で疎開授業阻止の抗議行動に取り組みました。その最中、最寄り駅でビラ配りをしていた日大全共闘にたいして右翼からの襲撃があり、踏切の付近に追い詰められた中村克己くんが致命傷を負って亡くなったんです。この右翼による襲撃事件は裁判闘争としても争われましたが、急行電車との接触事故として処理されてしまいました。もちろん事件の真相は明らかになっていませんし、万が一急行電車に接触していたとしても右翼から襲われない限り踏切に追い詰められ事故になることはなかったわけです。ところが、右翼の襲撃についても事故の原因を作った行為として認められませんでした。中村克己くんは電車との接触による事故死として処理され亡くなってしまいました。亡くなった後、日大全共闘葬が日比谷公会堂でおこなわれ、墓参会もそののち続けられていて僕も参加しています。
(写真:中村克己さんが当日被っていたヘルメット)
僕が当時の出来事を語ろうとして少々しどろもどろになるのは、1969年9月30日に「9・30大衆団交1周年法経奪還闘争」という御茶ノ水にある明大学生会館の前庭で開催した闘争で逮捕され起訴されてから10ケ月間、1970年の7月10日まで府中刑務所の独房に拘束されていたために、事件の全体像が分からないからなんです。70年6月の安保闘争が終わるまで下獄できなかったため、中村克己くんが襲撃された70年の2月25日にまだ僕は府中刑務所にいたんです。襲撃事件のことは、独房にとどけられた一通の電報によって知りました。夜半に救対から発信された『右翼に襲われ中村克己くん危篤』という電報を監守から受けとりました。辛かったです。ですから、事件の経緯を直接には知らないんですね。僕はさまざまな機会に、山﨑博昭さんと同じように日大闘争の中で右翼からの襲撃によって亡くなった仲間がいて、彼がどういう経歴をたどり、どんな思いで日大闘争に参加し、どうして亡くなったのかを出来る限り皆さんにお知らせしようと思ってきました。中村克己くんが日大闘争を通して実現しようと願っていたことを皆さんと共有していただければと思って機会があるごとにお話しています。
以上、日大アメフトの現状、寄稿編へのかかわり、そして中村克己くんと日大闘争をめぐってということでお話させていただきました。
以上、日大アメフトの現状、寄稿編へのかかわり、そして中村克己くんと日大闘争をめぐってということでお話させていただきました。
いま写っている写真が70年に日比谷公会堂で開催していただいた「中村君虐殺糾弾日大全共闘葬」の様子です。この時は皆さんにご協力いただいたと思います。まだ水戸巌さんがお元気だったころで、呼びかけ人として名前を連ねていただいております。今日は水戸喜世子さんがいらっしゃっていますが、あの時は大変お世話になりまして、ありがとうございました。
中村克己くんのお墓は1971年に作られ、毎年、墓参会をしてきました。ただ、墓参委員会による協議の結果、2020年の中村克己くんが亡くなってから50年目に墓石を壊してすべて土にかえすことにしました。とても不思議なことだと思うんですが、一方では山﨑博昭さんのモニュメントがつくられ、その一方で僕たちはあと何年も生きられないしお墓を放置できないので、墓石を無くすことを選択したわけです。中村克己くんの墓に刻まれた言葉を拓本に取って、去年、日大闘争の資料が国立歴史民俗博物館に収蔵されることになったので、そこに記録として残すことにしました。当初は「墓石をモニュメントとして残してください」とお願いをしたんですが、歴博からは「いくら何でも墓石は資料として残せません」とお断りの連絡がありました。
中村克己くんのお墓は1971年に作られ、毎年、墓参会をしてきました。ただ、墓参委員会による協議の結果、2020年の中村克己くんが亡くなってから50年目に墓石を壊してすべて土にかえすことにしました。とても不思議なことだと思うんですが、一方では山﨑博昭さんのモニュメントがつくられ、その一方で僕たちはあと何年も生きられないしお墓を放置できないので、墓石を無くすことを選択したわけです。中村克己くんの墓に刻まれた言葉を拓本に取って、去年、日大闘争の資料が国立歴史民俗博物館に収蔵されることになったので、そこに記録として残すことにしました。当初は「墓石をモニュメントとして残してください」とお願いをしたんですが、歴博からは「いくら何でも墓石は資料として残せません」とお断りの連絡がありました。
(会場から)墓石の文字は何と彫ってあるんですか?
この文章は中村くんが書き残したメモからの言葉なんですが、『現在における激烈な階級闘争は自己の内的世界をも破壊する闘いとしてある』と彫られています。当初は、お父さんお母さんのお墓の横に建ててあったんですが、後にお父さんお母さんの遺骨を中村克己くんの妹さんが引き取ってそちらの家族のお墓に収めたんですね。その妹さんが中村くんの遺骨も一緒に収めて下さることになりました。今の墓石がなくなったあと中村くんの遺骨は妹さん家族のお墓に合葬されるので、我々も命が続く限りそちらの墓への墓参会を続けようと墓参委員会では決めております。2月の命日ちかくの日曜日におこなわれてきた墓参会には毎年30~40人くらい集まります。
以上です。
この文章は中村くんが書き残したメモからの言葉なんですが、『現在における激烈な階級闘争は自己の内的世界をも破壊する闘いとしてある』と彫られています。当初は、お父さんお母さんのお墓の横に建ててあったんですが、後にお父さんお母さんの遺骨を中村克己くんの妹さんが引き取ってそちらの家族のお墓に収めたんですね。その妹さんが中村くんの遺骨も一緒に収めて下さることになりました。今の墓石がなくなったあと中村くんの遺骨は妹さん家族のお墓に合葬されるので、我々も命が続く限りそちらの墓への墓参会を続けようと墓参委員会では決めております。2月の命日ちかくの日曜日におこなわれてきた墓参会には毎年30~40人くらい集まります。
以上です。
【レジメ】
死者への追悼と社会変革『かつて10・8羽田闘争があった(寄稿篇)』をめぐって
『日天闘争の記録一忘れざる日々』編集人 三橋 俊明
死者への追悼と社会変革『かつて10・8羽田闘争があった(寄稿篇)』をめぐって
『日天闘争の記録一忘れざる日々』編集人 三橋 俊明
はじめに一日大闘争と日大の今
① アメフト傷害事件への日大の対応と日大体質
・日大の体育会は「保健体育審議会に所属する競技部」と今は名前を変えて呼ばれているが、大学本部直属の日大エリート・コースに変わりはない。本部が予算や人事などのすべてを掌握し、競技部は本部の指示にしたがう。
・1968年の古田重二良会頭は柔道部出身。ボクシング部の柴田勝治氏も。12代理事長として2008年田中英寿が就任。相撲部出身。次期理事長候補がアメフト出身の内田正人前監督。
・田中理事長はアマ横綱としで活躍し1983年に日大相撲部監督に就任。指導者として舞の海や野球賭博で追放された琴光喜などを育て、今は“アマ相撲界のドン”として君臨し、日本オリンピック委員会(JOC)の副会長など歴任。一方で山口組組長の司忍や住吉会福田会長との写真が流出。
・また田中英寿理事長は、かつて日大本部から指示され、学生弾圧で暴力行為をはたらいた右翼体育会メンバーの一人と目されている。
② 日本大学・宮川泰介選手が拓いた希望
・変わらない日大体質と変わった体育会学生
③ 6月10日「日大全共闘結成50周年の集い」
・田中英寿を日大から永久追放する「声明」を「日大全共闘結成50周年の集い」参加者一同で採択する予定。
① アメフト傷害事件への日大の対応と日大体質
・日大の体育会は「保健体育審議会に所属する競技部」と今は名前を変えて呼ばれているが、大学本部直属の日大エリート・コースに変わりはない。本部が予算や人事などのすべてを掌握し、競技部は本部の指示にしたがう。
・1968年の古田重二良会頭は柔道部出身。ボクシング部の柴田勝治氏も。12代理事長として2008年田中英寿が就任。相撲部出身。次期理事長候補がアメフト出身の内田正人前監督。
・田中理事長はアマ横綱としで活躍し1983年に日大相撲部監督に就任。指導者として舞の海や野球賭博で追放された琴光喜などを育て、今は“アマ相撲界のドン”として君臨し、日本オリンピック委員会(JOC)の副会長など歴任。一方で山口組組長の司忍や住吉会福田会長との写真が流出。
・また田中英寿理事長は、かつて日大本部から指示され、学生弾圧で暴力行為をはたらいた右翼体育会メンバーの一人と目されている。
② 日本大学・宮川泰介選手が拓いた希望
・変わらない日大体質と変わった体育会学生
③ 6月10日「日大全共闘結成50周年の集い」
・田中英寿を日大から永久追放する「声明」を「日大全共闘結成50周年の集い」参加者一同で採択する予定。
1『かつて10・8羽田闘争があった一山崎博昭音匝50周年記念[寄稿編]』をめぐって
① 記念誌へのかかわり
・賛同人一原稿の執筆-お手伝いへ
・校閲作業をとおして
② 「全共闘は「10・8」から生まれたのか」をめぐって
・日大闘争とはどのような出来事だったのか一五大スローガンを掲げた「民主化闘争」
・日大全共闘のノンセクト組にとって「10・8」とはーその現実の率直な記録
・「10・8」によって切り拓かれた実力闘争の地平と日大闘争
「日大闘争に参加した日大生のなかで、!967年の「10・8」に参加しなかった、できなかった、知らなかった日大全共闘たちにとって、「10・8」とは何だったのか。
そして「10・8」の何と、どうかかわることになったのか。
③「sympathy ・同情」を超えた「empathy ・共感」へ
・相手と同じ感情を共有する「同情」の次元を超えて、出来事の「由来」を知り相手の感情を自らの体験に重ねて経験を分かちあう「共感」へ
① 記念誌へのかかわり
・賛同人一原稿の執筆-お手伝いへ
・校閲作業をとおして
② 「全共闘は「10・8」から生まれたのか」をめぐって
・日大闘争とはどのような出来事だったのか一五大スローガンを掲げた「民主化闘争」
・日大全共闘のノンセクト組にとって「10・8」とはーその現実の率直な記録
・「10・8」によって切り拓かれた実力闘争の地平と日大闘争
「日大闘争に参加した日大生のなかで、!967年の「10・8」に参加しなかった、できなかった、知らなかった日大全共闘たちにとって、「10・8」とは何だったのか。
そして「10・8」の何と、どうかかわることになったのか。
③「sympathy ・同情」を超えた「empathy ・共感」へ
・相手と同じ感情を共有する「同情」の次元を超えて、出来事の「由来」を知り相手の感情を自らの体験に重ねて経験を分かちあう「共感」へ
2 日大全共闘商学部闘争委員会・中村克己さんの略歴と事件経過
① 中村克己さんの略歴
1947年10月21日、東京都世田谷区に生まれる。
第二岩淵小学校、赤羽中学校をへて62年4月、都立北高等学校入学。
高校二年生のころはバレー・ボールに熱中する。三年生の春、家庭の事情により西巣鴨のアパートに下宿。高校卒業後一年間、代々木ゼミナールに通って受験勉強。
1967年4月、日本大学商学部経営学科に入学。『平凡パンチ』やマンガ雑誌を読み、ジャズを聴き、ときには妹のギターを借りて弾くような学生生活をおくる。
1968年3月王子野戦病院闘争中べ平連の行動に参加するようになり、「世田谷べ平連」を商学部内に作る。5月、日大闘争がはじまる。 69年4・28闘争を機に「学生解放戦線」に参加。70年「ML同盟|加盟。
1970年2月25日、日大文理学部闘争委員会のメンバーとともに、京王線武蔵野台駅前でのビラ配布中、体育会系学生の襲撃の最中に頭部に重傷を受けて入院。
3月2目死去。享年22歳。
(『明日への葬列-60年代反権力闘争に斃れた10人の意志』高橋和巳編・中嶋誠着より)
① 中村克己さんの略歴
1947年10月21日、東京都世田谷区に生まれる。
第二岩淵小学校、赤羽中学校をへて62年4月、都立北高等学校入学。
高校二年生のころはバレー・ボールに熱中する。三年生の春、家庭の事情により西巣鴨のアパートに下宿。高校卒業後一年間、代々木ゼミナールに通って受験勉強。
1967年4月、日本大学商学部経営学科に入学。『平凡パンチ』やマンガ雑誌を読み、ジャズを聴き、ときには妹のギターを借りて弾くような学生生活をおくる。
1968年3月王子野戦病院闘争中べ平連の行動に参加するようになり、「世田谷べ平連」を商学部内に作る。5月、日大闘争がはじまる。 69年4・28闘争を機に「学生解放戦線」に参加。70年「ML同盟|加盟。
1970年2月25日、日大文理学部闘争委員会のメンバーとともに、京王線武蔵野台駅前でのビラ配布中、体育会系学生の襲撃の最中に頭部に重傷を受けて入院。
3月2目死去。享年22歳。
(『明日への葬列-60年代反権力闘争に斃れた10人の意志』高橋和巳編・中嶋誠着より)
② 事件経過
1970年、日大文理学部では京王線武蔵野台駅南方にプレハブ校舎を建て、一年間の授業を一週間から10日ほどで終了させて進級させる疎開授業を実施していた。
日大全共闘文理学部闘争委員会では、こうした疎開授業に通う学生たちに、日大闘争への支援や討論会への参加を呼びかけるビラなどを、2月14日、21日に配布していた。
1970年2月25日、京王線武蔵野台駅前で商学部の中村克己さんは文理学部闘争委員会の仲間たち30人ほどと一緒に、「2・25討論集会に結集せよ」という内容のビラを配布していた。その最中、突然つめ襟の学生乱闘服などを着たおよそ20名の右翼・体育会系学生からの襲撃をうけた。襲撃した右翼・体育会系の学生たちは、鉄筋の棒や角材などの武器をあらかじめ準備し計画したうえで襲ってきた。
ビラまきをしていた全共闘の学生たちは、一部は駅のホーム方面に、一部は狭い踏切のほうへと逃げたが徐々に追い詰められ、激しく攻撃を受け続けた。そのとき、踏切付近にいた中村克己さんも攻撃され、左側頭部に致命的な傷を負ってしまった。倒れた中村克己さんに二人の女子学生かかけよって助けようとしたが、襲った右翼・体育会系の学生は中村ざんにむかって「鼻血を出しだくらいで倒れやがって」といって蹴ったため、その場で抗議をしたという。
その後、踏切を通過した特急電車が停車して車掌と運転士指導の助役がかけつけ、文理学部の小型トラックが来てヘルメットなどを回収し、それから救急車がやって来た。警察のパトカーは、車掌が来る前に現場に来ていたという。
襲撃された中村克己さんは、救急車で府中市の奥島病院へと運ばれた。
そして3月2日に死去、享年22歳。
1970年3月11日、日比谷公会堂において「日大全共闘葬」がおこなわれた。
ビラまきをしていた文理学部闘争委員会のメンバー29人は、襲撃されたあと府中警察に連行され、逮捕された。襲撃した右翼体育会系の学生たちは、事情聴取のあと何事もなく釈放となった。その後、この事件で文理学部闘争委員会の高橋成一さんが起訴され裁判闘争が続いた。
中村克己さんの死因は「電車接触」によるものと断定され、「右翼体育会系学生による襲撃との因果関係はなし」と結論された。
1970年、日大文理学部では京王線武蔵野台駅南方にプレハブ校舎を建て、一年間の授業を一週間から10日ほどで終了させて進級させる疎開授業を実施していた。
日大全共闘文理学部闘争委員会では、こうした疎開授業に通う学生たちに、日大闘争への支援や討論会への参加を呼びかけるビラなどを、2月14日、21日に配布していた。
1970年2月25日、京王線武蔵野台駅前で商学部の中村克己さんは文理学部闘争委員会の仲間たち30人ほどと一緒に、「2・25討論集会に結集せよ」という内容のビラを配布していた。その最中、突然つめ襟の学生乱闘服などを着たおよそ20名の右翼・体育会系学生からの襲撃をうけた。襲撃した右翼・体育会系の学生たちは、鉄筋の棒や角材などの武器をあらかじめ準備し計画したうえで襲ってきた。
ビラまきをしていた全共闘の学生たちは、一部は駅のホーム方面に、一部は狭い踏切のほうへと逃げたが徐々に追い詰められ、激しく攻撃を受け続けた。そのとき、踏切付近にいた中村克己さんも攻撃され、左側頭部に致命的な傷を負ってしまった。倒れた中村克己さんに二人の女子学生かかけよって助けようとしたが、襲った右翼・体育会系の学生は中村ざんにむかって「鼻血を出しだくらいで倒れやがって」といって蹴ったため、その場で抗議をしたという。
その後、踏切を通過した特急電車が停車して車掌と運転士指導の助役がかけつけ、文理学部の小型トラックが来てヘルメットなどを回収し、それから救急車がやって来た。警察のパトカーは、車掌が来る前に現場に来ていたという。
襲撃された中村克己さんは、救急車で府中市の奥島病院へと運ばれた。
そして3月2日に死去、享年22歳。
1970年3月11日、日比谷公会堂において「日大全共闘葬」がおこなわれた。
ビラまきをしていた文理学部闘争委員会のメンバー29人は、襲撃されたあと府中警察に連行され、逮捕された。襲撃した右翼体育会系の学生たちは、事情聴取のあと何事もなく釈放となった。その後、この事件で文理学部闘争委員会の高橋成一さんが起訴され裁判闘争が続いた。
中村克己さんの死因は「電車接触」によるものと断定され、「右翼体育会系学生による襲撃との因果関係はなし」と結論された。
③ 「中村克己君墓碑委員会」による墓参’
中村克己さんのお墓は、一周忌となった1971年に千葉県八千代台にある八千代霊園に造られた。墓参は中村克己君虐殺糾弾委員会から墓碑委員会へと受け継がれ、毎年2月25日に近い休日に墓参会が続けられてきた。
「中村克己君墓碑委員会」では、これまで休むことなく継続してきた八千代霊園への墓参を、虐殺事件から50周年となる2020年に終了することを決定した。また八千代霊園に建立しだ墓石のモニュメントは、どこにも残さないこととなった。
墓碑に記された名前と言葉などは拓本をとって「国立歴史民俗博物館」に資料として寄贈された。遺骨は、南大沢にある妹さんの管理する墓に、克己さんの父母とともに合葬されることとなった。
今後中村克己君墓碑委員会では、南大沢への墓参会をこれまでと同じように継続する。
中村克己さんについでは『70・2・25中村君虐殺糾弾』(中村君虐殺糾弾委員会1971年1月30日発行)、『明日への葬列-60年代反権力闘争に斃れた10人の意志』(高橋和巳編1970年7月27日発行)、『日大闘争の記録一忘れざる日々』第四号「特集 中村克己同志との思い出」(2013年9月10日発行)がある。
レジュメとして配布させていただいた「独房の全共闘1969-中村克己の拳と「エコー」と」は特集に収録されている文章です。
中村克己さんのお墓は、一周忌となった1971年に千葉県八千代台にある八千代霊園に造られた。墓参は中村克己君虐殺糾弾委員会から墓碑委員会へと受け継がれ、毎年2月25日に近い休日に墓参会が続けられてきた。
「中村克己君墓碑委員会」では、これまで休むことなく継続してきた八千代霊園への墓参を、虐殺事件から50周年となる2020年に終了することを決定した。また八千代霊園に建立しだ墓石のモニュメントは、どこにも残さないこととなった。
墓碑に記された名前と言葉などは拓本をとって「国立歴史民俗博物館」に資料として寄贈された。遺骨は、南大沢にある妹さんの管理する墓に、克己さんの父母とともに合葬されることとなった。
今後中村克己君墓碑委員会では、南大沢への墓参会をこれまでと同じように継続する。
中村克己さんについでは『70・2・25中村君虐殺糾弾』(中村君虐殺糾弾委員会1971年1月30日発行)、『明日への葬列-60年代反権力闘争に斃れた10人の意志』(高橋和巳編1970年7月27日発行)、『日大闘争の記録一忘れざる日々』第四号「特集 中村克己同志との思い出」(2013年9月10日発行)がある。
レジュメとして配布させていただいた「独房の全共闘1969-中村克己の拳と「エコー」と」は特集に収録されている文章です。
【本の紹介】
『全共闘、1968年の愉快な叛乱』 三橋俊明 著 彩流社発行
定価2,200円+税
1968年、全国各地の青年によって多様に多彩に取り組まれた全共闘運動が楽しき日々であったことは、ほとんど語られることなく注目されてこなかった。本書では「愉快な叛乱」として著者自身の体験が語られる。政治や社会に無関心だったノンポリ青年たちが、マルクス主義や革命を掲げる政治党派とは無縁な学生運動集団として日大全共闘に「成」り、ノンセクトであることを誇りとして闘った愉快な叛乱の記録。
『全共闘、1968年の愉快な叛乱』 三橋俊明 著 彩流社発行
定価2,200円+税
1968年、全国各地の青年によって多様に多彩に取り組まれた全共闘運動が楽しき日々であったことは、ほとんど語られることなく注目されてこなかった。本書では「愉快な叛乱」として著者自身の体験が語られる。政治や社会に無関心だったノンポリ青年たちが、マルクス主義や革命を掲げる政治党派とは無縁な学生運動集団として日大全共闘に「成」り、ノンセクトであることを誇りとして闘った愉快な叛乱の記録。
『日大闘争と全共闘運動 -日大闘争公開座談会の記録』三橋俊明 編著 彩流社発行
定価1,800円+税
1968年5月に、日本大学で日大闘争が沸騰してから50年。20億円にも及ぶ使途不明金問題に端を発した日大闘争は、同じ頃に東京大学や各地の大学でも結成された全共闘と大学の不正や教育体制に抗議し社会に対しても異議を申し立てました。本書は、昨年国立歴史民俗博物館で開催された「『1968』無数の問いの噴出の時代」展に1万5千点余の日大闘争関係資料を寄贈した「日大闘争を記録する会」が、日大全共闘議長・秋田明大氏をはじめとする闘争参加者と対話し全共闘運動の経験を語り合った貴重な記録です。
1968年5月に、日本大学で日大闘争が沸騰してから50年。20億円にも及ぶ使途不明金問題に端を発した日大闘争は、同じ頃に東京大学や各地の大学でも結成された全共闘と大学の不正や教育体制に抗議し社会に対しても異議を申し立てました。本書は、昨年国立歴史民俗博物館で開催された「『1968』無数の問いの噴出の時代」展に1万5千点余の日大闘争関係資料を寄贈した「日大闘争を記録する会」が、日大全共闘議長・秋田明大氏をはじめとする闘争参加者と対話し全共闘運動の経験を語り合った貴重な記録です。
【お知らせ】
ブログは隔週で更新しています。
次回は8月31日(金)に更新予定です。
次回は8月31日(金)に更新予定です。
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