この「週刊アンポ」という雑誌は、1969年11月17日に第1号が発行され、以降、1970年6月上旬までに第15号まで発行された。編集・発行人は故小田実氏である。この雑誌には1969-70年という時代が凝縮されている。
1960年代後半から70年代前半まで、多くの大学で全国学園闘争が闘われた。その時期、大学だけでなく全国の高校でも卒業式闘争やバリケート封鎖・占拠の闘いが行われた。しかし、この高校生たちの闘いは大学闘争や70年安保闘争の報道の中に埋もれてしまい、「忘れられた闘争」となっている。
「週刊アンポ」には「高校生のひろば」というコーナーがあり、そこにこれらの高校生たちの闘いの記事を連載していた。
今回は、「週刊アンポ」第5号に掲載された都立竹早高校闘争である。都立竹早高校のホームページを見ると、文京区・小石川にある歴史のある高校で、明治33年「東京府立第二高等女学校」として創立、今の名称になったのは昭和25年とのことである。今回の記事に登場する「生徒権宣言」についても「竹早高校の歴史」の中で『昭和44年6月「生徒権宣言」出される。(いわゆる高校紛争の時期)」』と記載されている。
また。「日本マラソン界の発展に大きく寄与し、NHK大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』の主人公にも描かれた金栗四三先生は、大正10年から昭和4年まで、府立第二高等女学校(現在の竹早高校)で地理歴史の先生をしていました。」とのこである。

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【高校生のひろば 週刊アンポNo5  1970.1.12発行】
学校の“正常化”とは何か
都立竹早高校 三年S生

竹早闘争、その発端は教師の不正事件であった。竹早の特殊事情という中で、不正は行われた。教師は、竹早の閉鎖的、排他的な租界としての特殊性の中で、ぬくぬくと日常性に浸りこんだ没主体的な生活を続けた。その中から悪に対する不感症が生まれた。
しかし、没主体的な彼らの生活態度から生まれたものは、単に汚職だけではなかった。彼らは非教育的な現教育体制=受験体制を肯定した。彼らが管理者的立場=非教育的立場をとって、われわれから自由を奪い、受験を押し付けることによって、彼らは体制を維持し、自己の日常性を守ろうとしたのだ。
<不正事件の背景>
 4月10日の毎日新聞をかわきりに、新聞、ラジオ、テレビによって竹早の不正事件が報道された。そしてわれわれ生徒は、このとき初めて教師の汚職を知らされたのである。現校長は着任以来、秘かに“改革”に着手し、彼の言葉によれば“正常化”を行ってきた。生徒には何ひとつ知らせずに、事件が明るみに出てから次つぎに生徒に配られたレポートによれば、補修費などの収支決算内容の公開などの“成果”をあげていたというわけである。そして彼は事件の“首謀者”であり、彼の正常化に反抗した某学生主任を他校に転任させることによって改革の終了としようとしていたのである。幸いにも、学生主任が転校を拒み、リベートをとったのは自分だけでなく、またそれは長年の慣行であることなどを内外に主張したため、事件が公になった。もし、校長の意図どおり事が穏便にはこび、表面化に至らなかったら、被害者であるわれわれはつんぼさじきにおかれたまま卒業していたにちがいない。校長のこのような“改革”に対する態度はいったい何を示しているのか。校長は今回の事件をあくまでも竹早の特殊事情だとしている。その特殊事情とは、都立高校として、独自の校地、校舎を持つことができず、学芸大附属中学との同居の中で、極端に教育活動が圧迫されている。進学熱が高まり、そのための補習費などを学年で運営してしていくうちに学年を中心とした強固な校務運営体制ができあがった。その中で学年主任がすべてにわたっての大きな権力を握り、校長さえ口出しができなかった。たしかにこのような特殊事情が汚職を生み出す巣となった。しかし、竹早の問題は金銭上の不正だけではない。入学して以来、われわれが受けてきた教育そのものが問題とされるべきではないか。受験教育ただそれだけであった。そして、それがすべてをゆがめていったのではないか。教師に盲目的に服従するだけの生徒、そしてすべてに対して無関心、無批判の逃避者としての生徒を生み出していった。それを単に教師の頭のすげかえ、校務運営体制の改革によってーしかも生徒不在のままー乗り切ろうとした校長の管理者態度は批判されねばならない。
<5月の10日間>
 竹早の教師のほぼ全員にあたる34人が教育庁の処分をうけた(免職1人、諭旨退職1人、減給2人を含む)。われわれの教師に対する不信感がどうしようもない形で存在し、われわれは授業を拒否する以外に他はなかった。討論会が19日間にわたっておこなわれた。
 それは、われわれの今までの積り積もった不満の爆発であった。そこには受験を頂点とした価値体系ができあがり、自由を、権利を捨て、われわれは受け入れた。教師は生徒の服従を得て、学校運営、授業、特別活動に絶対的な権力をふるった。1年から行われた補習、息つく暇もなくテストが続いた。テストの成績、これがわれわれの全てを決定した。ゆがんだ優越感と劣等感。これを助長させ逆に利用しようとする教師、そこから生まれる生徒と教師の間の、そして生徒どうしの間の醜い人間関係、次第にわれわれは出口のない袋小路に追い込まれていった。
 やり場のない苛立ちの中から、はけ口が見つかり、一挙に吐き出された。緊張と興奮に包まれた討論会であった。しかし、われわれの教師に対する不満、学校に対する不満はやがて社会に対してぶつけられねばならなかった。そして竹早の改革=社会の改革といった図式ができあがったが、それはあまりにも直感的であった。そして、その理論的根拠に欠けていて、行動の具体的方向性が見失われがちであった。改革は空振りするばかりで、授業をしていないというあせりから授業再開が決議され、以前となんら変わることのない授業は始まった。
 ここの段階ではまだ既成の価値基準から完全に抜けきれず、真の教師を求めて高校教育そのものを根底から考え直すといった態度は見られなかった。
<生徒権宣言>
 10日間の討論が成果らしい成果を残さなかった中で、具体的な形として表されたものに、生徒権宣言がある。
 その中でわれわれは、まず第一に教師の従来の権威を否定した。そして生徒は一個の人間として認められることを確認し、われわれの持つ権利を明確化した。すなわち、自由の権利、学校運営参加の権利、そして一切の思想、表現の自由であり、言論、出版、掲示の自由は保障され、サークルも自由とされる。
 われわれは、このようなことが二度とおこらないように、教師一人ひとりから確認書(自己批判と改革の意志表示をしたもの)をとり、竹早の歴史として永久に残すことを決めたが、校長の拒否にあい、ただ今後の教育の方針を示したプリントが配られただけであった。
<全学スト突入>
 5月の討論が終わり、改革がいっこうに進展しない中で、われわれは授業という日常性の中に埋没していった。そして5ケ月。11月決戦が近づき、青山高校は封鎖をもって闘い、しだいに緊張が高まっていった。その中でわれわれは、新たな決意をもって再び立ちあがった。
 きっかけは生徒権宣言の承認問題。学校当局は生徒権宣言に対する見解の中で、われわれの宣言を「全般的には妥当なこと」とし「生徒の切なる願いの言葉として受けとりたい」といいながらも、明確な形での承認はなされていなかった。
 この点を追求するために総会が開かれ、10月4日、ストライキの提案がなされた。要求項目として、1.生徒権宣言の全面承認。2.処分権の撤廃。3.試験制度の廃止。4.スト件の承認があげられた。そして1週間がたった。その間、生徒権宣言は承認された。処分権についても撤廃は拒否されたが、修正案が認められ、不当と思われる処分については生徒側の合意に基づかなければならないとされた。
しかし、10月22日、われわれは全学ストに突入したのだ。要求すべき項目もなく全学ストに入った。その時からストライキの性格が変化していった。それは、要求を掲げて、ある程度受けいれられた時にスト解除するといった要求獲得の総評的なストライキではなかった。日常性の打撃であり、自由な活動の場の確保であった。
ストライキを自主的な活動の場とする必要があった。そして3年ABクラスにストライキ実行委員会がつくられた。
数クラスで自主講座が始まり、討論会では試験制度や授業について話された。しかし、その自主講座とはいったい何を目的としたものなのか、その意味は、今までの授業とどこが違うのか、そこの追求がなされていなかった。そして末梢的なことを議題にした討論が、いったいなんの意味を持つのか。
具体的な問題を討論する前にまず、教育というものを本質からとらえ直していかねばならない。そして、そのために現状分析が必要であった。生徒権宣言を実践していく意味で、最首悟氏の講演をABスト実行委員会の主催で行ったが、教師は講堂前にピケをはり、実力阻止をはかった。ここに教師の管理者的態度がはっきり露呈したのだった。われわれは管理者としての教師を断固追及し、そのかずかずの恫喝の中、闘いを続けていかねばならない。
そしてその闘いとは、結局われわれ自身の存在を確かめる闘いであろう。5月以来の闘いを通してわれわれは、以前あれほど強固であると思われた高校のすべて、毎日毎日惰性的にくりかえされた授業、そして教師の強大な権威、その他いっさいのものが、静かに、しかし根底から崩れつつあることを感じた。そして、そういった価値体系の崩壊の中で、教育とは何か、学問とは、そして学校とはと問いかけるうち、それではなぜ自分は高校に来ているのかという疑問が生じた。すなわち、自己存在の基盤が問われているのであった。結局、闘いの中で自分自身の存在を確かめていく他はなかった。いや、そのための闘いだった。そしてこれからも。
(終)

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