No 516 重信房子 「1960年代と私」第二部第3回(1967年)の後半です。
文章が長いので2つに分けました。
前半では、「7.全学連の活動ー砂川闘争」を掲載しています。
「1960年代と私」第二部
高揚する学生運動の中で(1967年から69年)
第一章 社学同参加と現代思想研究会(1967年)
高揚する学生運動の中で(1967年から69年)
第一章 社学同参加と現代思想研究会(1967年)
8.67年の学園闘争の中で
67年街頭行動の中で、一番鮮明に忘れることができないのが、10・8羽田闘争です。あの経験は私に、学生運動ばかりかその後社会に出ても教師として働きながら重視しようと考える生き方に導いたといえます。67年は、私はまだ学苑会の財政を担当していたと記憶しています。66年の対案によって、日共系から学苑会執行部を、いわゆる三派系の学苑会に転換して以降、たしか5月の定例学生大会だったと思いますが(もしかして、それ以前にあった「2・2協定」に関する3月の臨時学生大会だったかもしれない)私は財政担当として、会計報告の中で、民青の時代の不正を糾弾しました。この時の大会は、66年12月1日の一票差で勝利した大会と違って、大きな差で三派系が勝利しています。私は、民青から引き継いだ会計帳簿を一つ一つチェックし、日共系の暁出版印刷所の領収証が実際より多いと感じたので、私は印刷所に行って、原簿をチェクしてもらい、実際に支払われた額を書き出したうえで、領収証の総計額の書類を再発行してもらいました。2回の印刷代数万円が水増しされているのがわかりました。それを示しながら、民青時代の帳簿の不正を学生大会で報告しました。印刷所の方も、私たちが三派系とか理解していなかったのか、妨害することもなかったので、正確な数値が得られたのです。民青は「清廉潔白」をこれまでも主張していたので、ダメージでしたし、日共内の中国派のパージと重なり、急速に学苑会奪還や「民主化」の中央奪還の活動は退潮していき、商学部、法学部自治会死守体制をとり、文学部民主化委員会など、学部活動にシフトしていきました。そのころか、その後のことですが、ブントの現思研活動に対して脅威を感じていたのか、今度は、ML派に属していた会計監査委員が、私の会計処理の領収証に不正がある、デパートの食品や衣料の領収証があったとして告発をはじめました。私に直接問い合わせや審査を行わず、ML派に報告し、ML派からブントの指導部に話を持ち込んだことがありました。それによって、私に自己批判を迫り、私を辞めさせようとしたのか、他の交換条件があったのかわかりません。私は、こうしたやり方で自治会のことを党派問題にしたことに、ML派に大いに憤慨しました。まず、「私の会計処理は正当だ」とブントの人に言いました。「ML派こそ自己批判する必要がある」と伝えました。ブントの人は驚いていました。これは実際に「不正領収証」だったのです。理由は、学苑会委員長であり、全二部共闘会議議長のML派の酒田さんの授業料の一時穴埋めだからです。66年12月の学生大会対案人事で酒田さんに委員長になるよう説得した時には、授業料が払えず除籍になりそうというので、私が会社を辞めて貯めていた虎の子貯金を貸しました。それも返せず、3月再び授業料支払いが求められる季節となり、「2・2協定」後の処分含めた大学側との闘いにおいて、委員長を除籍させるわけにはいかないと、中執内部で会議をして決めたことなのです。酒田さんが返却するまで一時的に中執財政で立て替えること、その会計処理は私にお願いされた訳です。ML派も、立て替える考えもないし、私含めて、他人の授業料をもう払えなかったからです。私は「ML派の会計監査委員が、問題を党派的に歪曲したのは許せない。学生大会で、すべて経過報告する」といきまいて怒りました。しかし、ML派が謝ったので、そうはしませんでした。そのかわり、私は大会の新人事で私の財務部長の他、副財務部長にML派の人間を置くよう要求しました。ML派に監視と責任を分担し、公明正大を証明してみせようと思ったからです。この人事は、たしか67年5月の大会だったと思います。ところが、この財務副部長のK君は、数か月の夏休み明けから大学に来なくなり、一時金として常時支払いのため彼が管理していた金を使い込んだと謝りに来て、そのまま辞めたいと言い出す始末でした。「使い込んだ金は働いて返す、ML派には言わないで」と言い、その後連絡不通になりました。もちろん中執会議で報告しました。ML派とは、以来、冷ややかな関係となりました。また、卒論もあり、10・8闘争後の67年秋の大会で、財政部長は現思研の宮下さんに後継してもらい、学苑会活動は、一切、引き受けないようにしました。現思研が拠り所であり、また、卒論や、アルバトも多忙だったためです。
また、この66年から67年は、日共系の学生たちとの主導権争いがとても激しかった時代です。66年にはじめて日共・民青系の人たちの激しい暴力を目撃したことがあります。これが初めてで、衝撃的でした。三派系(都学連系)は、ラジカルでも、民青のソフト路線では考えられない光景だったのです。明大本館で、全国寮大会が開かれました。当時は、今の武道館の建つ前から、そこには近衛兵の駐屯宿舎がありました。戦後、そこは苦学生たちの寮となっていて、「東京学生会館」(東学館)と呼ばれていました。そこにはまた、活動家の拠点として、ML派などが活動の場にしていました。「東学館闘争」の立て籠もりなど、退去と建物の破壊に抗議した闘争を経て、66年11月、学生たちはこの東学館から追放されました。それ以前のことだったと思いますが、この全寮連の大会において、執行部の奪い合いで激しい対立となったのです。当時の全寮連の執行部を牛耳っていたのは日共・民青系で、御茶の水女子大など、いわゆる反日共系の寮の代表に対して資格がないから大会への入場を認めないと対立が続いていました。結局、どちらが次期執行部を形成するのかの争いであり、また路線的には米帝に従属した日本政府の文部行政を批判し、「諸要求貫徹」を主張する日共系に対する反日共系の闘いでもありました。日共系は、鍬の柄のような棒を持った防衛隊を組織し、入場に押しかける反日共系を入場させないと、暴力的に渡り合っていました。2階から突き落とされ、頭から血を流し、よく死なずに済んだというような流血が続き、双方多数の怪我人が出ました。
学生会館にいた私たちは、緊急救援を頼まれて、怪我して本館中庭に倒れている学生を、青医連の友人たちに治療してもらうために走り回りました。本館の現場に駆けつけてみると、代々木病院からの救急車が正門脇にすでに停まっていました。代々木病院の救急車隊は、倒れている人に「大学は?え?こいつはトロッキストの方だ」などと言いながら負傷した学生を選別して放り出したりしているのを目撃しました。「ひどじゃないか!」と私たちは泣きそうなほどの衝撃を受けながら、倒れている者たち、選別排除の目にあった者たちを立て看を担架代わりにして、次々と学館に運び入れました。「民青が・・・」話す程に、どくどくと流血します。糸は木綿糸まで消毒して縫っていたけれど、大丈夫なのか・・・と怖くなりました。一方、民青は、会場封鎖をして寮大会を続け、「トロッキストの妨害にもめげず、新方針、新執行部を選出した」と後の日共機関紙「赤旗」にも載っていました。
私は、反日共系の側にいるわけですが、民青の偽善的振る舞いにはうんざりするのですが、本音では、どうして反日共系は先に手を出してしまうのかが不満でした。いつも民青系は、やられてからやり返すと思っていたのですが、この寮大会の時は、まったく違っていました。民青の人たちは譲れない時には、暴力を「正当防衛」として先に手を出すものだと知ったのはこの時です。
67年か68年に、明大二部の民青が本格的に暴力を仕掛けてきたことがありました。きっかけは何だったのか・・・。とにかく明大二部の民青の勢力がずいぶん削がれてしまったことが一つ大きな危機感だったと思います。また、三派系が民青のビラ撒きなどにも暴力をふるったりしたことが原因だったかもしれません。日共系に対し、三派系は横暴でした。学苑会執行部ばかりか、生協二部の学生理事選挙でも、日共系は敗れて、議席を失っていました。残っている商学部と法学部自治会を拠点に、「政経学部民主化委員会」や「文学部民主化員会」などを立ち上げて、巻き返しを図っていました。クラスに討論やビラ撒きに入ると、日共系と反日共系が教室でぶつかって論争もしていました。時には、三派系の活動家たちは、民青系の学生を無理やり三派系の自治会室に連れ込んできて、「自己批判要求」なども暴力的に行っていて、民青、日共の神田地区委員会で、我慢の限度にきていたのだろうと思います。
ある日のこと、夜9時を回っていて、最後の授業が始まり、みな現思研の仲間も教室に向かい、私は一人4階の現思研にいました。
67年街頭行動の中で、一番鮮明に忘れることができないのが、10・8羽田闘争です。あの経験は私に、学生運動ばかりかその後社会に出ても教師として働きながら重視しようと考える生き方に導いたといえます。67年は、私はまだ学苑会の財政を担当していたと記憶しています。66年の対案によって、日共系から学苑会執行部を、いわゆる三派系の学苑会に転換して以降、たしか5月の定例学生大会だったと思いますが(もしかして、それ以前にあった「2・2協定」に関する3月の臨時学生大会だったかもしれない)私は財政担当として、会計報告の中で、民青の時代の不正を糾弾しました。この時の大会は、66年12月1日の一票差で勝利した大会と違って、大きな差で三派系が勝利しています。私は、民青から引き継いだ会計帳簿を一つ一つチェックし、日共系の暁出版印刷所の領収証が実際より多いと感じたので、私は印刷所に行って、原簿をチェクしてもらい、実際に支払われた額を書き出したうえで、領収証の総計額の書類を再発行してもらいました。2回の印刷代数万円が水増しされているのがわかりました。それを示しながら、民青時代の帳簿の不正を学生大会で報告しました。印刷所の方も、私たちが三派系とか理解していなかったのか、妨害することもなかったので、正確な数値が得られたのです。民青は「清廉潔白」をこれまでも主張していたので、ダメージでしたし、日共内の中国派のパージと重なり、急速に学苑会奪還や「民主化」の中央奪還の活動は退潮していき、商学部、法学部自治会死守体制をとり、文学部民主化委員会など、学部活動にシフトしていきました。そのころか、その後のことですが、ブントの現思研活動に対して脅威を感じていたのか、今度は、ML派に属していた会計監査委員が、私の会計処理の領収証に不正がある、デパートの食品や衣料の領収証があったとして告発をはじめました。私に直接問い合わせや審査を行わず、ML派に報告し、ML派からブントの指導部に話を持ち込んだことがありました。それによって、私に自己批判を迫り、私を辞めさせようとしたのか、他の交換条件があったのかわかりません。私は、こうしたやり方で自治会のことを党派問題にしたことに、ML派に大いに憤慨しました。まず、「私の会計処理は正当だ」とブントの人に言いました。「ML派こそ自己批判する必要がある」と伝えました。ブントの人は驚いていました。これは実際に「不正領収証」だったのです。理由は、学苑会委員長であり、全二部共闘会議議長のML派の酒田さんの授業料の一時穴埋めだからです。66年12月の学生大会対案人事で酒田さんに委員長になるよう説得した時には、授業料が払えず除籍になりそうというので、私が会社を辞めて貯めていた虎の子貯金を貸しました。それも返せず、3月再び授業料支払いが求められる季節となり、「2・2協定」後の処分含めた大学側との闘いにおいて、委員長を除籍させるわけにはいかないと、中執内部で会議をして決めたことなのです。酒田さんが返却するまで一時的に中執財政で立て替えること、その会計処理は私にお願いされた訳です。ML派も、立て替える考えもないし、私含めて、他人の授業料をもう払えなかったからです。私は「ML派の会計監査委員が、問題を党派的に歪曲したのは許せない。学生大会で、すべて経過報告する」といきまいて怒りました。しかし、ML派が謝ったので、そうはしませんでした。そのかわり、私は大会の新人事で私の財務部長の他、副財務部長にML派の人間を置くよう要求しました。ML派に監視と責任を分担し、公明正大を証明してみせようと思ったからです。この人事は、たしか67年5月の大会だったと思います。ところが、この財務副部長のK君は、数か月の夏休み明けから大学に来なくなり、一時金として常時支払いのため彼が管理していた金を使い込んだと謝りに来て、そのまま辞めたいと言い出す始末でした。「使い込んだ金は働いて返す、ML派には言わないで」と言い、その後連絡不通になりました。もちろん中執会議で報告しました。ML派とは、以来、冷ややかな関係となりました。また、卒論もあり、10・8闘争後の67年秋の大会で、財政部長は現思研の宮下さんに後継してもらい、学苑会活動は、一切、引き受けないようにしました。現思研が拠り所であり、また、卒論や、アルバトも多忙だったためです。
また、この66年から67年は、日共系の学生たちとの主導権争いがとても激しかった時代です。66年にはじめて日共・民青系の人たちの激しい暴力を目撃したことがあります。これが初めてで、衝撃的でした。三派系(都学連系)は、ラジカルでも、民青のソフト路線では考えられない光景だったのです。明大本館で、全国寮大会が開かれました。当時は、今の武道館の建つ前から、そこには近衛兵の駐屯宿舎がありました。戦後、そこは苦学生たちの寮となっていて、「東京学生会館」(東学館)と呼ばれていました。そこにはまた、活動家の拠点として、ML派などが活動の場にしていました。「東学館闘争」の立て籠もりなど、退去と建物の破壊に抗議した闘争を経て、66年11月、学生たちはこの東学館から追放されました。それ以前のことだったと思いますが、この全寮連の大会において、執行部の奪い合いで激しい対立となったのです。当時の全寮連の執行部を牛耳っていたのは日共・民青系で、御茶の水女子大など、いわゆる反日共系の寮の代表に対して資格がないから大会への入場を認めないと対立が続いていました。結局、どちらが次期執行部を形成するのかの争いであり、また路線的には米帝に従属した日本政府の文部行政を批判し、「諸要求貫徹」を主張する日共系に対する反日共系の闘いでもありました。日共系は、鍬の柄のような棒を持った防衛隊を組織し、入場に押しかける反日共系を入場させないと、暴力的に渡り合っていました。2階から突き落とされ、頭から血を流し、よく死なずに済んだというような流血が続き、双方多数の怪我人が出ました。
学生会館にいた私たちは、緊急救援を頼まれて、怪我して本館中庭に倒れている学生を、青医連の友人たちに治療してもらうために走り回りました。本館の現場に駆けつけてみると、代々木病院からの救急車が正門脇にすでに停まっていました。代々木病院の救急車隊は、倒れている人に「大学は?え?こいつはトロッキストの方だ」などと言いながら負傷した学生を選別して放り出したりしているのを目撃しました。「ひどじゃないか!」と私たちは泣きそうなほどの衝撃を受けながら、倒れている者たち、選別排除の目にあった者たちを立て看を担架代わりにして、次々と学館に運び入れました。「民青が・・・」話す程に、どくどくと流血します。糸は木綿糸まで消毒して縫っていたけれど、大丈夫なのか・・・と怖くなりました。一方、民青は、会場封鎖をして寮大会を続け、「トロッキストの妨害にもめげず、新方針、新執行部を選出した」と後の日共機関紙「赤旗」にも載っていました。
私は、反日共系の側にいるわけですが、民青の偽善的振る舞いにはうんざりするのですが、本音では、どうして反日共系は先に手を出してしまうのかが不満でした。いつも民青系は、やられてからやり返すと思っていたのですが、この寮大会の時は、まったく違っていました。民青の人たちは譲れない時には、暴力を「正当防衛」として先に手を出すものだと知ったのはこの時です。
67年か68年に、明大二部の民青が本格的に暴力を仕掛けてきたことがありました。きっかけは何だったのか・・・。とにかく明大二部の民青の勢力がずいぶん削がれてしまったことが一つ大きな危機感だったと思います。また、三派系が民青のビラ撒きなどにも暴力をふるったりしたことが原因だったかもしれません。日共系に対し、三派系は横暴でした。学苑会執行部ばかりか、生協二部の学生理事選挙でも、日共系は敗れて、議席を失っていました。残っている商学部と法学部自治会を拠点に、「政経学部民主化委員会」や「文学部民主化員会」などを立ち上げて、巻き返しを図っていました。クラスに討論やビラ撒きに入ると、日共系と反日共系が教室でぶつかって論争もしていました。時には、三派系の活動家たちは、民青系の学生を無理やり三派系の自治会室に連れ込んできて、「自己批判要求」なども暴力的に行っていて、民青、日共の神田地区委員会で、我慢の限度にきていたのだろうと思います。
ある日のこと、夜9時を回っていて、最後の授業が始まり、みな現思研の仲間も教室に向かい、私は一人4階の現思研にいました。

(学館4階平面図・現思研は学生新聞委員会室)
「うオー」というようなとどろき、「あぶないー!」「民青の襲撃だ!」遠くで怒鳴り声がしました。「日共の暁部隊はすごい」「中大では民青の方が暴力的だ」など、ブントの人たちから話は聞いていたので、民青が攻撃を仕掛けてくることを、私たちも話題にしていました。来た!私は現思研の部屋(マロニエ通りに面した4階)からすぐ走っていって、反対側にあるエレベーターが3階にあったので、それを4階に上げて非常ボタンを押して停止させました。エレベーターを日共系に支配させないためです。そして、そのすぐ脇の階段用の鉄扉を閉めようと急いで手をかけ、民青が来るのを遮断するべきだと思いました。襲撃隊は、すでに3階の学苑会に到着したのか、ガラスの割れる音や怒鳴り合い、ドアを突く豪快な音がしています。覗こうとしたら、その一瞬に3階から4階へと黄色や白のヘルメットをかぶった集団が駆け上ってきました。「いたぞ!重信がいるぞ!」と先頭で2段跳びに駆け上がってきたのは商学部の民青のリーダーの和田さん。ぎょろ目でいつもキャンパスで反日共系に立ち向かい論争している闘志満々の人です。私はあわてて鉄扉を引き、閉めてカチャリとロックしました。間一髪で遮断しました。カンカンカンカンと鉄扉を叩き、しばらく怒鳴りながら鉄扉を壊そうとしていましたが、しばらくするとあきらめたらしく静かになりました。3階や隣の学生会館旧館の方に走っていったようでした。
旧館には、各学部自治会室があります。こちらの新館の4階には現思研のいる新聞会室以外、和室、会議室がありますが、調べてみると、4階にいたのは、夜9時から10時近いため、私以外誰もいませんでした。それも知らず民青は隣の旧館の窓からガラス張りの新館4階に板を渡して渡るつもりか、うかがっていました。私は会議室すべての電気を付けました。民青の行動が、ちょうど授業を終える学生たちによく見えるようにするためです。そして、現思研の新聞会室に戻り、ドアをロックして、ベランダからマロニエ通りの学生たちに呼びかけました。「学友のみなさん!民青が地区民青や日共の人を引き連れて、ただ今、学館を襲撃中です。この暴力を監視してください!」と叫びました。ロープや板を渡って新館に乗り込んでも、民青が私の部屋に入るには、もう一つドアを壊さなくてはなりません。私もハンドマイクはないので、大声で訴えました。最後の授業を終えて夜間部の学生たちがぞろぞろと出てくる時でした。私の方からは、何人の民青襲撃隊が加わっているのかは見えず、分かりません。ただ、「日共の暁部隊には半殺しにされる」と中大の友人からも聞いていたので、現思研でも時々話題になっていたのですが、それが現実になりました。
当時の千代田区など第一区の選挙区の日共の衆議院議員候補は、紺野与次郎さんで、私の中学時代の仲良しの友人の民子さんの父親でした。「大丈夫よ、もし日共に拉致されたら民子さんのお父さんに訴えればいいから!」などと軽口をたたいていたのですが、本当になってしまい、驚きつつ、下には学生仲間がいるので、闘争心の方が湧いてきました。続々と学館の下に集まった友人や野次馬が「日共は暴力を止めろ!」「ナンセーンス」と大合唱しています。そのうち、雄弁会の友人で地理学科のMさんが、「警察が来たぞ!」と大声をあげました。すると、あっという間に日共・民青は撤収を始めて、さっと消えてしまいました。撤退時は隊列を組みつつ全力疾走です。警察は来ませんでしたが、Mさんの機転だったのです。
民青は「暴力はふるわない」ことを原則としており、こんな暴力を白日にさらしたくなかったので、逃げ足は速かったのです。
もう1回の次の攻撃は、その後のことです。67年末か68年初めのことか、学館を道をへだてた大学院裏の校舎の1階で、民青と反日共系が長い旗竿で小競り合いを始めました。解放派やML派ら文学部の自治会と民青の対立のあった時です。
この時の私は、やはり4階にいて、マロニエ通りを見下ろしました。そこに大学院の裏の方からマロニエ通りを通ってデモ隊が整然とピッピッピッと笛に合わせて駆け足でかけつけてくるところでした。水色のヘルメット部隊の助勢です。4階のみんなは援軍に手をたたき、下の野次馬や学生たちも拍手していたところ、突然、反民青の部隊を襲撃し始めたのにはあっけにとられました。社青同解放派の党派性は水色のヘルメットなので、てっきり救援隊が仲間と思ったのですが、これが民青部隊だったのです。「あっ、そういえば民青全学連のシンボルカラーは青だ!」と誰かが叫びました。全学連防衛隊というのができ、トロッキストを粉砕するために駆けつけたということなのです。この時も、背後から100人ほどが襲いかかり、反日共系は防戦に追い込まれ、コーナーに押されていた日共系の学生の血路を開くと、あっという間に撤収するという見事な動きを示していました。
よく訓練された組織された暴力に、現思研の仲間たちと感心してしまいました。しかし、大学祭などは、右派も民青の人々とも対立するばかりではありませんでした。
私自身の当時の関心や活動についても、ここで触れておきたいと思います。研連での合宿や行事、ことに秋の駿台祭の文化祭にはみんな協力し合います。駿台祭には昼間部も夜間部も、駿河台校舎を使う者たちが、共同して駿台祭実行委員会を結成します。66年にはそこで共同した応援団長のSさんらの協力のもとで、その後の学費闘争の時にはいろいろ助けられました。
体育会の危険な自治会破壊攻撃に、応援団は「中立宣言」して、体育会の動きに歯止めをかけてくれたし、本館で使用していた貸布団が体育会の占拠で妨害されて運び出せないのを、応援団員を動員して片づけを手伝ってくれました。貸布団屋に代金を支払う私には、当時、布団を失うことは深刻な問題でした。
文化祭プログラムは、民青など含め、研連と昼間部の文連(文化部連合会)、応援団と協力し、学園祭はサークル中心の展示・発表・講演の催しをやります。実行委員会で大きな講演や、広場での打ち上げパーティーも企画しました。
67年には、右翼体育会の拉致や暴力が2月は猛威をふるいましたが、入試も終わり、新入生を迎えると、彼等は野球部の島岡監督の指揮で神田から引き上げ、生田など合宿所に戻っていきました。応援団は神田にいるので、引き続き交流していました。
67年の文化祭では、私も企画を担当しました。そのころ、「少年サンデー」「少年マガジン」「ガロ」などマンガが大学生の読み物となっていると、社会的に話題になっていました。なぜマンガが流行するのかといった「マンガ世代の氾濫」を問う企画をつくりました。また、当時、吉本隆明が学生に読まれており、そのことにも注目しました。そこで、「ガロ」に執筆していた上野昂志、マンガ評論の石子順三、最後の講演を吉本隆明として企画し、駿台祭に招請しました。その前年、66年には、私たちは羽仁五郎を「都市の論理」の著者として招請しました。「交通費しか払えないが、講演をお願いしたい」と私は交渉しましたが、「講演料はきちんと払ってもらいたい」と言われましたが、講演後、始めからそのつもりだったのでしょう。交通費分も含めて、すべてカンパしてくれました。
「うオー」というようなとどろき、「あぶないー!」「民青の襲撃だ!」遠くで怒鳴り声がしました。「日共の暁部隊はすごい」「中大では民青の方が暴力的だ」など、ブントの人たちから話は聞いていたので、民青が攻撃を仕掛けてくることを、私たちも話題にしていました。来た!私は現思研の部屋(マロニエ通りに面した4階)からすぐ走っていって、反対側にあるエレベーターが3階にあったので、それを4階に上げて非常ボタンを押して停止させました。エレベーターを日共系に支配させないためです。そして、そのすぐ脇の階段用の鉄扉を閉めようと急いで手をかけ、民青が来るのを遮断するべきだと思いました。襲撃隊は、すでに3階の学苑会に到着したのか、ガラスの割れる音や怒鳴り合い、ドアを突く豪快な音がしています。覗こうとしたら、その一瞬に3階から4階へと黄色や白のヘルメットをかぶった集団が駆け上ってきました。「いたぞ!重信がいるぞ!」と先頭で2段跳びに駆け上がってきたのは商学部の民青のリーダーの和田さん。ぎょろ目でいつもキャンパスで反日共系に立ち向かい論争している闘志満々の人です。私はあわてて鉄扉を引き、閉めてカチャリとロックしました。間一髪で遮断しました。カンカンカンカンと鉄扉を叩き、しばらく怒鳴りながら鉄扉を壊そうとしていましたが、しばらくするとあきらめたらしく静かになりました。3階や隣の学生会館旧館の方に走っていったようでした。
旧館には、各学部自治会室があります。こちらの新館の4階には現思研のいる新聞会室以外、和室、会議室がありますが、調べてみると、4階にいたのは、夜9時から10時近いため、私以外誰もいませんでした。それも知らず民青は隣の旧館の窓からガラス張りの新館4階に板を渡して渡るつもりか、うかがっていました。私は会議室すべての電気を付けました。民青の行動が、ちょうど授業を終える学生たちによく見えるようにするためです。そして、現思研の新聞会室に戻り、ドアをロックして、ベランダからマロニエ通りの学生たちに呼びかけました。「学友のみなさん!民青が地区民青や日共の人を引き連れて、ただ今、学館を襲撃中です。この暴力を監視してください!」と叫びました。ロープや板を渡って新館に乗り込んでも、民青が私の部屋に入るには、もう一つドアを壊さなくてはなりません。私もハンドマイクはないので、大声で訴えました。最後の授業を終えて夜間部の学生たちがぞろぞろと出てくる時でした。私の方からは、何人の民青襲撃隊が加わっているのかは見えず、分かりません。ただ、「日共の暁部隊には半殺しにされる」と中大の友人からも聞いていたので、現思研でも時々話題になっていたのですが、それが現実になりました。
当時の千代田区など第一区の選挙区の日共の衆議院議員候補は、紺野与次郎さんで、私の中学時代の仲良しの友人の民子さんの父親でした。「大丈夫よ、もし日共に拉致されたら民子さんのお父さんに訴えればいいから!」などと軽口をたたいていたのですが、本当になってしまい、驚きつつ、下には学生仲間がいるので、闘争心の方が湧いてきました。続々と学館の下に集まった友人や野次馬が「日共は暴力を止めろ!」「ナンセーンス」と大合唱しています。そのうち、雄弁会の友人で地理学科のMさんが、「警察が来たぞ!」と大声をあげました。すると、あっという間に日共・民青は撤収を始めて、さっと消えてしまいました。撤退時は隊列を組みつつ全力疾走です。警察は来ませんでしたが、Mさんの機転だったのです。
民青は「暴力はふるわない」ことを原則としており、こんな暴力を白日にさらしたくなかったので、逃げ足は速かったのです。
もう1回の次の攻撃は、その後のことです。67年末か68年初めのことか、学館を道をへだてた大学院裏の校舎の1階で、民青と反日共系が長い旗竿で小競り合いを始めました。解放派やML派ら文学部の自治会と民青の対立のあった時です。
この時の私は、やはり4階にいて、マロニエ通りを見下ろしました。そこに大学院の裏の方からマロニエ通りを通ってデモ隊が整然とピッピッピッと笛に合わせて駆け足でかけつけてくるところでした。水色のヘルメット部隊の助勢です。4階のみんなは援軍に手をたたき、下の野次馬や学生たちも拍手していたところ、突然、反民青の部隊を襲撃し始めたのにはあっけにとられました。社青同解放派の党派性は水色のヘルメットなので、てっきり救援隊が仲間と思ったのですが、これが民青部隊だったのです。「あっ、そういえば民青全学連のシンボルカラーは青だ!」と誰かが叫びました。全学連防衛隊というのができ、トロッキストを粉砕するために駆けつけたということなのです。この時も、背後から100人ほどが襲いかかり、反日共系は防戦に追い込まれ、コーナーに押されていた日共系の学生の血路を開くと、あっという間に撤収するという見事な動きを示していました。
よく訓練された組織された暴力に、現思研の仲間たちと感心してしまいました。しかし、大学祭などは、右派も民青の人々とも対立するばかりではありませんでした。
私自身の当時の関心や活動についても、ここで触れておきたいと思います。研連での合宿や行事、ことに秋の駿台祭の文化祭にはみんな協力し合います。駿台祭には昼間部も夜間部も、駿河台校舎を使う者たちが、共同して駿台祭実行委員会を結成します。66年にはそこで共同した応援団長のSさんらの協力のもとで、その後の学費闘争の時にはいろいろ助けられました。
体育会の危険な自治会破壊攻撃に、応援団は「中立宣言」して、体育会の動きに歯止めをかけてくれたし、本館で使用していた貸布団が体育会の占拠で妨害されて運び出せないのを、応援団員を動員して片づけを手伝ってくれました。貸布団屋に代金を支払う私には、当時、布団を失うことは深刻な問題でした。
文化祭プログラムは、民青など含め、研連と昼間部の文連(文化部連合会)、応援団と協力し、学園祭はサークル中心の展示・発表・講演の催しをやります。実行委員会で大きな講演や、広場での打ち上げパーティーも企画しました。
67年には、右翼体育会の拉致や暴力が2月は猛威をふるいましたが、入試も終わり、新入生を迎えると、彼等は野球部の島岡監督の指揮で神田から引き上げ、生田など合宿所に戻っていきました。応援団は神田にいるので、引き続き交流していました。
67年の文化祭では、私も企画を担当しました。そのころ、「少年サンデー」「少年マガジン」「ガロ」などマンガが大学生の読み物となっていると、社会的に話題になっていました。なぜマンガが流行するのかといった「マンガ世代の氾濫」を問う企画をつくりました。また、当時、吉本隆明が学生に読まれており、そのことにも注目しました。そこで、「ガロ」に執筆していた上野昂志、マンガ評論の石子順三、最後の講演を吉本隆明として企画し、駿台祭に招請しました。その前年、66年には、私たちは羽仁五郎を「都市の論理」の著者として招請しました。「交通費しか払えないが、講演をお願いしたい」と私は交渉しましたが、「講演料はきちんと払ってもらいたい」と言われましたが、講演後、始めからそのつもりだったのでしょう。交通費分も含めて、すべてカンパしてくれました。

(「都市の論理」広告)
65年は、小田実も記念館でベ平連運動について話をしてもらいました。ML派の人らがベ平連批判と質問をすると、「ベトナム反戦に関して、君たちは君たちのやりたいようにやったらいいでしょう。同じように、他の人がやりたいようにやるものまた、自由に認めるのが民主主義だ。ベ平連は各々自分のやりたい方法で、やれる方法でやる。私もそうだ。文句をいわれる筋合いはない」と返答していたのを覚えています。67年の学園祭の吉本隆明の講演は、ちょうど10・8闘争後の遅くない日となったので、10・8闘争について吉本の考えを知りたいと、学生会館5階ホールには入りきらないほどの学生が集まりました。ちょうど、10・8闘争に関して知識人、文化人と呼ばれる人々が「暴徒キャンペーン」を張る政府マスコミに対抗して、警察の過剰警備による弾圧を批判し、学生たちの闘いを孤立させまいと奮闘している最中だったのです。吉本は、10・8闘争に関してそれまで発言していなかったので、学生たちへの「支持」をみな期待し聞きたかったのです。ところが、おもむろに口を開いた吉本は、評価する、しないと表明すること自体がナンセンスなのだと述べて、みんなをしらけさせました。知識人の主体性とは何かを語り、自分のやり方で表現していると述べたのです。学生たちが吉本に期待したほど、吉本の眼中にには学生たちの闘いが評価されていないことが、よくわかったのです。私自身は、67年10・8闘争までは詩作をしていたので、吉本の「詩」や「抒情の論理」などの本を読んだことはありましたが、思想的影響も受けていなかったのですが、友人の中にはがっかりする者もいました。
駿台祭のこうした講演のほか、日共系の社研(社会主義科学研究部)や民科(民主主義科学研究部?)のサークル展示には支援し、当時のベトナム反戦など研連でも共同したりしました。私の所属していた文学研究部は、部室を開放して、「駿台派」という同人誌を販売している程度だったと思います。67年は、その「駿台派」の編集長として、私も短編から詩、エッセイを編集していました。この67年には、自分の情念の広がりや突出を詩の中で格闘していた感じです。世界・社会を変えることができるという思いと、自分の意思を政治的な言語でなく、何とか表出したいと考えて、現代詩に熱中していたように思います。政治的言葉、ことに学生活動家たちの自己陶酔的なアジテーションのパターンの政治用語から排されている心情を表現したいという思いにかられていたのです。「駿台派」では、小説や評論で、詩の発表の場が不十分と感じて、文研の詩人仲間に呼びかけて、67年には詩集「一揆緑の号」を発行しました。9月に編集を終え、印刷中にちょうど吉田茂の死があり、はさみこみのしおりで「臣茂」が死んでも「臣人々」は生き続ける憂国的心情を記しました。この詩集は、10・8闘争のあと発行されましたが、10・8闘争を契機に、私自身は詩作を一旦やめて、政治的声を拒否せず聴こうと思ったのです。
65年は、小田実も記念館でベ平連運動について話をしてもらいました。ML派の人らがベ平連批判と質問をすると、「ベトナム反戦に関して、君たちは君たちのやりたいようにやったらいいでしょう。同じように、他の人がやりたいようにやるものまた、自由に認めるのが民主主義だ。ベ平連は各々自分のやりたい方法で、やれる方法でやる。私もそうだ。文句をいわれる筋合いはない」と返答していたのを覚えています。67年の学園祭の吉本隆明の講演は、ちょうど10・8闘争後の遅くない日となったので、10・8闘争について吉本の考えを知りたいと、学生会館5階ホールには入りきらないほどの学生が集まりました。ちょうど、10・8闘争に関して知識人、文化人と呼ばれる人々が「暴徒キャンペーン」を張る政府マスコミに対抗して、警察の過剰警備による弾圧を批判し、学生たちの闘いを孤立させまいと奮闘している最中だったのです。吉本は、10・8闘争に関してそれまで発言していなかったので、学生たちへの「支持」をみな期待し聞きたかったのです。ところが、おもむろに口を開いた吉本は、評価する、しないと表明すること自体がナンセンスなのだと述べて、みんなをしらけさせました。知識人の主体性とは何かを語り、自分のやり方で表現していると述べたのです。学生たちが吉本に期待したほど、吉本の眼中にには学生たちの闘いが評価されていないことが、よくわかったのです。私自身は、67年10・8闘争までは詩作をしていたので、吉本の「詩」や「抒情の論理」などの本を読んだことはありましたが、思想的影響も受けていなかったのですが、友人の中にはがっかりする者もいました。
駿台祭のこうした講演のほか、日共系の社研(社会主義科学研究部)や民科(民主主義科学研究部?)のサークル展示には支援し、当時のベトナム反戦など研連でも共同したりしました。私の所属していた文学研究部は、部室を開放して、「駿台派」という同人誌を販売している程度だったと思います。67年は、その「駿台派」の編集長として、私も短編から詩、エッセイを編集していました。この67年には、自分の情念の広がりや突出を詩の中で格闘していた感じです。世界・社会を変えることができるという思いと、自分の意思を政治的な言語でなく、何とか表出したいと考えて、現代詩に熱中していたように思います。政治的言葉、ことに学生活動家たちの自己陶酔的なアジテーションのパターンの政治用語から排されている心情を表現したいという思いにかられていたのです。「駿台派」では、小説や評論で、詩の発表の場が不十分と感じて、文研の詩人仲間に呼びかけて、67年には詩集「一揆緑の号」を発行しました。9月に編集を終え、印刷中にちょうど吉田茂の死があり、はさみこみのしおりで「臣茂」が死んでも「臣人々」は生き続ける憂国的心情を記しました。この詩集は、10・8闘争のあと発行されましたが、10・8闘争を契機に、私自身は詩作を一旦やめて、政治的声を拒否せず聴こうと思ったのです。

(詩集「一揆緑の号」)
「やりたいことをやり、なりたい自分になる」「自分の欲望・意志に忠実に生きる、生きることができる!」そんな思いにあふれていました。社会を変えられると信じていました。高校を卒業して就職し、新卒新入社員として社会に出た64年から65年に大学に通える道を見つけ、夢中で「学生」をやっていたといえるかもしれません。
大学生活、学習も詩作もアルバイトも、学生運動も、すべてが楽しくて充実感を味わっていました。自分一人の人間の能力は限られているけれど、思いっきり自分の可能性を開いて生きようとしていました。寝る間を惜しんで、常に好奇心を持って前向きなエネルギーにあふれていた自分を今、振り返りつつ、その情熱を認めることができます。しかし、当時、私に欠けていたことを、今ははっきりわかります。自分のことに精一杯だったのです。友人たちの悩みや困難に一緒に悩み、耳を傾け、解決に尽力していたつもりでしたが、今から捉え返すと、自分の関心角度からしか結び合っていなかったのだろうと思います。それを若さというものかとも今は思います。そうしたあり方は友人にも、家族、特に父や母に対しての配慮を欠いていました。大学を受験し、自分の意思通りに生きる私を、家族はみんな応援してくれました。そして学生運動にも理解を示してくれました。私も何でもすべて家族に、特に父親に語りました。
でも、私が両親や兄弟たちに支えられていたほどには、私は家族をかえりみる余裕がなかったのだと、今ではとらえ返すことができます。若さは身勝手で思い切りよく、時には傷つけていることを自覚できないものなのでしょう。
このころ、替歌もたくさんバリケードの中で歌われました。学費闘争のころには校歌や明大の戯れ歌(ここはお江戸か神田の町か 神田の町なら大学は明治・・・)なども歌っていましたが、ブントの歌もありました。67年にはブントの先輩たちが歌う「ブント物語」の歌(「東京流れ者」の曲で歌う)を知りました。この歌をコンパなどでインターナショナルやワルシャワ労働歌で締める前に、みな楽しんで歌っていました。「ブント系の軽さ」といえますが、なかなか当を得た戯れ歌です。
「やりたいことをやり、なりたい自分になる」「自分の欲望・意志に忠実に生きる、生きることができる!」そんな思いにあふれていました。社会を変えられると信じていました。高校を卒業して就職し、新卒新入社員として社会に出た64年から65年に大学に通える道を見つけ、夢中で「学生」をやっていたといえるかもしれません。
大学生活、学習も詩作もアルバイトも、学生運動も、すべてが楽しくて充実感を味わっていました。自分一人の人間の能力は限られているけれど、思いっきり自分の可能性を開いて生きようとしていました。寝る間を惜しんで、常に好奇心を持って前向きなエネルギーにあふれていた自分を今、振り返りつつ、その情熱を認めることができます。しかし、当時、私に欠けていたことを、今ははっきりわかります。自分のことに精一杯だったのです。友人たちの悩みや困難に一緒に悩み、耳を傾け、解決に尽力していたつもりでしたが、今から捉え返すと、自分の関心角度からしか結び合っていなかったのだろうと思います。それを若さというものかとも今は思います。そうしたあり方は友人にも、家族、特に父や母に対しての配慮を欠いていました。大学を受験し、自分の意思通りに生きる私を、家族はみんな応援してくれました。そして学生運動にも理解を示してくれました。私も何でもすべて家族に、特に父親に語りました。
でも、私が両親や兄弟たちに支えられていたほどには、私は家族をかえりみる余裕がなかったのだと、今ではとらえ返すことができます。若さは身勝手で思い切りよく、時には傷つけていることを自覚できないものなのでしょう。
このころ、替歌もたくさんバリケードの中で歌われました。学費闘争のころには校歌や明大の戯れ歌(ここはお江戸か神田の町か 神田の町なら大学は明治・・・)なども歌っていましたが、ブントの歌もありました。67年にはブントの先輩たちが歌う「ブント物語」の歌(「東京流れ者」の曲で歌う)を知りました。この歌をコンパなどでインターナショナルやワルシャワ労働歌で締める前に、みな楽しんで歌っていました。「ブント系の軽さ」といえますが、なかなか当を得た戯れ歌です。
ブント物語
1.ガリ切ってビラまいて一年生
アジッてオルグって二年生
肩書並べて三年生
デモでパクられ四年生
ああわびしき活動家
ブント物語
2.勉強する気で入ったが
行ったところが自治会で
マルクス レーニン アジられて
デモに行ったが運のつき
ああ悲しき一年生
ブント物語
3.いやいやながらの執行部
デモの先頭に立たされて
ポリ公になぐられけとばされ
いまじゃ立派な活動家
ああ悲しき二年生
4.デモで会う娘に片想い
今日も来るかと出かけたら
今日のあの娘は二人連れ
やけでなったが委員長
ああ悲しき三年生
ブント物語
5.卒業真近で日和ろうと
心の底では思えども
最後のデモでパクられて
卒論書けずにもう1年
ああ悲しき四年生
ブント物語
6.先生、先生とおだてられ
今じゃ全学連の大幹部
奥さんもらって落ちついて
今更就職何になる
ああ侘しき活動家
ブント物語
1.ガリ切ってビラまいて一年生
アジッてオルグって二年生
肩書並べて三年生
デモでパクられ四年生
ああわびしき活動家
ブント物語
2.勉強する気で入ったが
行ったところが自治会で
マルクス レーニン アジられて
デモに行ったが運のつき
ああ悲しき一年生
ブント物語
3.いやいやながらの執行部
デモの先頭に立たされて
ポリ公になぐられけとばされ
いまじゃ立派な活動家
ああ悲しき二年生
4.デモで会う娘に片想い
今日も来るかと出かけたら
今日のあの娘は二人連れ
やけでなったが委員長
ああ悲しき三年生
ブント物語
5.卒業真近で日和ろうと
心の底では思えども
最後のデモでパクられて
卒論書けずにもう1年
ああ悲しき四年生
ブント物語
6.先生、先生とおだてられ
今じゃ全学連の大幹部
奥さんもらって落ちついて
今更就職何になる
ああ侘しき活動家
ブント物語
※ 管理人注
この替歌は、「戯歌番外地 替歌にみる学生運動」野次馬旅団編(1970.6.15三一書房発行)には「悲しき活動家」という歌として載っています。
本に掲載されている歌詞と一部違うところがありますが、替歌なので、いろいろなところでアレンジされて歌われていたと思うので、何が正しいということはないと思います。
この替歌は、「戯歌番外地 替歌にみる学生運動」野次馬旅団編(1970.6.15三一書房発行)には「悲しき活動家」という歌として載っています。
本に掲載されている歌詞と一部違うところがありますが、替歌なので、いろいろなところでアレンジされて歌われていたと思うので、何が正しいということはないと思います。

(戯歌番外地)
(つづく)
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