今回のブログは、6月4日に開催した明大土曜会定例会での「重信房子さん歓迎の宴」の報告である。

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 報告の前に明大土曜会と重信さんの関係について、少し説明しておきたい。
 重信さんは1965年4月、明治大学二部文学部に入学した。
大学では「現代思想研究会」というサークルを立ち上げ、自治会活動などを行う社会主義学生同盟(ブント)に加入。その後、ブントでの67年から69年の活動を経て、赤軍派に加わり、その後アラブに渡ることになる。
 74年9月14日、フランスで拘束中の仲間の釈放を求めてオランダ・ハーグのフランス大使館を武力占拠し警官らを負傷させた事件で「共謀」として87年に国際手配の後、2000年11月に大阪市内で逮捕。殺人未遂罪などの「共謀共同正犯」の罪で起訴された。
 その後、2001年から始まった裁判では一貫して無罪を主張したが、一審・二審と懲役20年の判決が言い渡され、2010年8月に最高裁で刑が確定し服役していたが、本年5月28日に刑期満了で出所した。
 重信さんの逮捕後、重信さんの主任弁護士である大谷恭子弁護士から、ある会合で明大土曜会の世話人代表となるY氏(元学生会中央執行委員長)が重信さんの支援を頼まれ、引き受けたことから関係が始まった。
 その後、重信さんの裁判闘争を支援するために、「土曜会」というグループが誕生した(土曜会という名称は、毎回土曜日に開催していたので土曜会になったとのことである)。この土曜会には、当時明治大学で「現代思想研究会」や社学同で一緒に活動していた人たちが中心となって集まった。赤軍派の集まりではない。政治的信条や背景が違っても、「人と人のつながり」で誕生したグループである。
重信さんが下獄後の2010年、裁判闘争支援の土曜会は解散となったが、それまでのつながりを生かすために、2011年に新たに「明大土曜会」として再出発した。
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 明大土曜会は、明大関係者のみならず、いろいろな方々の参加を得て、情報交換の場となった。また、情報交換だけではなく、2011年の東日本大震災による福島第一原発事故を受け、日大、芝浦工大などの方々と連携した4大学共闘を結成し、反原発デモや福島の子供たちの保養事業の支援を行った。最近では「明大土曜会沖縄ネットワーク」を結成し、沖縄辺野古現地行動への参加なども行っている。
 このように、現在の明大土曜会は重信さんを支援するグループではないが、メンバーは個別に重信さんの支援を行ってきた。元出版社勤務のO氏は、獄中の重信さんと手紙のやりとりをしながら3冊の本の編集、出版に協力してきた(『戦士たちの記録』『日本赤軍私史』『革命の季節』)。また、僧籍を持つN氏は定期的に刑務所を訪れ、法要を行ってきた。このブログでも、重信さんの「1960年代と私」第一部と第二部を手紙でやりとりをしながら、17回にわたり掲載してきた。以上のように、重信さんの対外的発信への支援、そして精神的な支援を個別のメンバーが継続して行ってきた。
 そのような経緯もあり、重信さんが5月28日に出所し、明大土曜会に参加するということなので、明大土曜会として「重信房子さん歓迎の宴」を企画することになった。
 前置きが長くなったが、以下、6月4日の明大土曜会定例会の報告である。

【重信房子さん歓迎の宴】
 重信さんは5月28日午前8時に昭島市の「東日本成人矯正医療センター」を出所。
多くの報道陣や出迎えの人たちに囲まれて会見を行った。
テレビのニュースで見た方もいると思うが、明大土曜会関係者では、N氏とK氏が出迎えている。
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(K氏のFBより転載)
 重信さんは5月30日の「リッダ闘争」50周年集会を体調不良で欠席されたので、明大土曜会への参加も危ぶまれたが、元気な姿を見せてくれた。
●参加者自己紹介
 コロナの「まん延防止措置」は終了したが、感染状況は高止まりが続いているので、今回も開催にあたっては、全員マスク着用、消毒液での手の消毒などの対策を取って開催した。

参加者は重信房子さんと重信メイさんを含め、30数名。
 最初に参加者から順番に自己紹介があった。
 主任弁護士であった大谷恭子弁護士からは「弁護士とするとこういう形で出所者を迎えるというのは、弁護士冥利に尽きる。(拍手)申し訳ないけれど、死刑だとか無期だとか大変な事件をやっていたので、迎えることができない。ヤクザさんは何となく迎えることができましたけれど、彼女を迎えることができたのは、弁護士を何十年やってきて最大の喜びです。(拍手)もう生きて出られたということを万感の思いでかみしめていますから、これからも20年生きよう、私たち。お互い20年生きれば何かできる」との発言があった。
 参加者自己紹介の後、重信さんから挨拶があった。

●重信房子さん挨拶

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 今日はみなさん、まずお礼申し上げます。ありがとうございます。(拍手)      
その上で最初に申し上げたいことは、出所してすぐ語ったことでもあるんですけれども、私の逮捕によっていろんな人に迷惑を掛けました。それから私たちの闘いは日本の価値観とずいぶん違っていたんです。それが日本の公安の増殖するようなプロパガンダによって、非常に捻じ曲げられた形で日本に伝わることによって、パレスチナの人たちの正義も損なった側面もありました。連赤の延長上に語られましたし。そういう中で私たちが闘えば戦うほど、向こうの状況と日本とは違いますので、一つ一つの闘いが国内に伝えきれずにきました。
 当時の私たちの考えというのは、「どんな戦術を使ってでもこの正義を実現すべきだ、パレスチナの人たちはそれ以上にイスラエルによって虐殺され、ずっと苦しんできた、その人たちを助けるためならどんな戦術でもかまわない」、そういう思いで戦ってきました。その結果、無辜(むこ)の人たち、民間人ですね、例えばハイジャックをやればそこで乗っているお客を損なったこともあったし、そのことを私の逮捕のご迷惑とともに、半世紀以上前の闘いではありますけれども、ここに居る方はそういうことを十分理解してくださる方ばかりなんですけれども、一応それをまず最初にお断りしておきます。お詫びとしてお伝えしておきます。
 その上で、ここに集まられた皆さんと共に過ごした明治大学ですね、明治大学の時代にはいろんなことを楽しんで活動できて本当に楽しく有意義だった。
大学に入った当時、私は本当に先生になりたくて、初めて大学に行けるということを就職した職場で知った時には本当に嬉しかったんですね。
 それで、明治に入ってすぐ、ここの前におられるOさんと知り合いました。この方が入学式前ですね、私たちの先輩があそこにあった大学院の前に座って何か闘争しているらしいんです。何かビラ配ったり、汚い恰好した人たちが変なメガホン持ってアジッていて、立ち止まった時に話を聴いたら「復学闘争」というのをやっているというのです。「一緒に座りませんか?」と言われて、私も一緒に座って、断る理由がなかったんです。こんなに正しいことをしている人たちが、何でそんな風に処分されたのかということで。その時に最初に声を掛けてくださった方がOさんなんです。そこから自治会活動に入って行きました。その責任を感じたのか、義理もないんですけれど、本を何冊も出してくださって、今回も『戦士たちの記録』という向こうでの闘争と国際主義とか国際連帯を中心にして書いたものを、三冊目の出版作業、それを最後までやっていただいたんです。大変な作業だったと思います。これまでの感謝と共に、今後ともよろしくお願いします。彼はプロの編集者ですので私にはちょっと辛いところだったんですけど、「ここを直した方がいい。あそこを直した方がいい」と、鋭くしつこいアドバイスをいただいて、この本ができました。ありがとうございます。
 それから大学に入ってからはクラスメイトとの話もみんな楽しいし、大学ってこんなに楽しいところなのか。楽しいこと、為になること、それが一つになって、我が家の、父のと言ってもいいんですけれども、「世の中を良くしよう」というような考え方の人でしたから、私の思っていることが初めて世間というー今までキッコーマンで勤めていて、あれやったらいけない、これやったらいけないーそういうのとは違う、思っていることを通してかまわない社会に私は辿り着いたんだなというのが、明治大学に入って一番嬉しいことでした。
 そして二部での活動を始めて、学費値上げ反対闘争などR介さんより上の世代の皆一緒になってやっていた時代もありましたけれど、不幸にも「2・2協定」というのがあって明大社学同は、大変苦労しました。その時、私はノンセクトでしたが学生会館でちょうど私たち二部中執(の部屋)は一部の中執の対面で、そこに中核派が「2.2協定」の自己批判を暴力的に求めて来て一部自治会中執の人がやられたりしている。それを見ては、そんなこと許せないなというので、明治の社学同を再建したいという一部の人々に協力してくれないかというので引き受けて、それで社学同に入ることになりました。
 それ以来ずっと社学同でやってきたんですけど、だんだん本人たちはあまり自覚していなかったんですけれども、道が違っていって、R介さんたちとは違う党派になっていったんですね。そのこともあまり私は自覚的ではなくて、何でこうなっているのかな?という感じでした。ずっと繋がっていた仲間が、あっという間に仲良しだった人たちがどんどん別になっていく時代を経てきました。
 私は、ブントの中で武装闘争を目指して赤軍派に与して行ったのですが、その考え方が大きく変わるのはパレスチナの闘いを見てからなんです。「武装闘争」をやっているところに行ったんだから、武装闘争で団結・共闘しようと思ったけど、彼らの武装闘争のもっと根っこのところには、非軍事的な平和的な生き様、人々が生活し、人々が本当に助け合って生きている、それが本当のパレスチナの力だなというところに辿り着きました。
 そこから捉え返して日本を見ると、もしかしたらこの人たちの闘いというのは、日本で言えば民主主義を徹底する闘いじゃないか、主権者である日本の人たちが、本当に自分たちの政治を実現することが、いわゆる向こうで言う武装闘争と同じ質のものではないかという風に、だんだん考え方が変わってきました。それらは70年代に色々の失敗をすることによって変わって行ったんですけれども、それを伝達する手段がなかなかなくて・・・・
 本人たちとしてはマイナーなところで「人民通信」「中東レポート」などの機関紙を出したりとかやっているつもりでした。けれど、プロパガンダと言うか攻防の質も日本の国内がどんどん変わっていくこともありまして、私たちはあまり日本に基盤を持とうとか考え切れなかったし、作り切れないままきてしまいました。そうした70年代以降考えたことを実現しようとしながら、2000年に日本の中で逮捕されるような事態になりました。

 でも偶然の結果でもあったんですけど大谷弁護士と出会いました。大谷先生も一度アラブにいらしたことがあるんです。「連合赤軍事件」の証人証言取りということで、坂東さんの事で見えたのです。それで大谷弁護士の名前を知っていたんですね。また友達が、弟さんは赤軍派だったはずというような話をしていて、それで私が日本で捕まった時に、直接は知らないんだけれども、他の先生よりも大谷先生の方が分かってくれるんじゃないかという感じがして、主任弁護人として大谷先生を頼みました。そのお陰でR介とか皆が今のようなこういう状況を作っていただける結果に導かれたんだと思います。大谷先生にその件もあって・・(「恭子ちゃんでいい」という声)、でも私は意識的に「大谷先生」と言っていたの。どうしても彼女の方が友達になっちゃうんですよ、塀を隔てて。友達同士でやっちゃうと、裁判の方針がなかなか成り立たない。それで私の方はできるだけ「大谷先生、大谷先生」って。
 そんな感じで付き合いながら長い間一緒に来れたのも、大谷恭子さんだったからなんです。ここで改めてお礼申し上げます。
 そして皆の助けによって、公判もずいぶんR介さんを中心にして皆で協力して下さったので、かなり高い裁判費用、先生一人でなくて4、5人の弁護士の方がいらしたので、それと資料をコピーすること一つがすごく高いんです。Oさんもずっと入力を含めて手伝って下さったし、論告求刑に対する反論とかの入力、そういうのをずっと皆が協力してくれたのでここまで来ることが出来ました。判決が出た時に、私としては「判決は 終わりにあらず始まりと まつろわぬ意志ふつふつと沸く」という歌を一首詠んだように、より戦いたいという気持ちになりました。でも闘いを、昔のようなことではなくて、本当に役に立てるような自分に変えたいと、そういう思いで獄中でも過ごしたいと思いました。
 第一審判決直後は公判を続けようかと思ったんですけれども、癌の手術も問われ、もう一度政治責任としても刑期を全うしながら、その中でより良く生きられる人生を過ごそうと思いながらきました。そうして手術を何度か繰り返し大谷先生、また獄中でもたくさんいい医者にも、それから友人にも会うことが出来て獄中のがん治療も効果的にすごせました。獄中では、四回の手術で九つのガンを取りましたけれど、まだ何とか生きて今日までやってきました。これもみんなここにいらっしゃる皆さんのお陰です。
 もう長くなりましたので私の話をこれで終えます。質問を受けたり話たりしながら、また皆の声を聴きたいと思っています。ありがとうございました。

●花束贈呈・乾杯
 挨拶の後、昔の明大関係者から花束の贈呈があった。
「皆さんの健康と、彼女が無事に出てきて、これからまた次のスタートを祝って、乾杯!!」
全員で乾杯。

●懇談
 乾杯の後は懇談。重信さんとメイさんの許に次々と参加者が集まり、話をしたり写真を撮ったり、長い月日を経て再会した思いを語り合っていた。

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 会場では本の販売もあった。
「ここに本がありますので買って下さい。よろしくお願いします!」
『戦士たちの記録』『重信房子がいた時代』『私だったかもしれない』『暁の星』
(本の紹介は記事の最後にあります)
求めに応じて重信さんが本にサイン。
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●中締め
 予定の時間になったので、R氏が中締めの挨拶を行った。
「皆さん注目してください。ここはまだ居られますが、時間の関係でここでいったん中締めしなくてはいけないので・・・」
 野次と笑い声の中で「ワルシャワ労働歌」を歌い、次いで「インターナショナル」を歌った。
 R氏がアジテーション。
「同志の皆さん、学友諸君、注目、注目。ここで皆さんに提案したのは、重信さんが新しいこの時代の中で何を主張するのか。この2020年代という、いわゆる我々が育った50年前とはずいぶん違う時代の中で、厳しく分析して批判して、新しい時代を作れるような思想と空気を何とか作っていただきたい。
 重信さんにはそれくらいの能力があります。はっきり言って民衆のために命を掛けて戦う根性があります、いや可能性があります。そういった意味で、我々も残り少ないですけれども、やはり彼女のその動きの中で、皆さんが日本の一歩でも民衆の革命の、民衆の解放の前進を作れるように、私たちは協力して行こうではありませんか」(拍手)
 次いでW氏より発言。
「Rさんの決意表明を聴いたので、それをみんなで受け止めて、大きいことは言えないんだけれども、とにかく今の社会を変えるために、皆でいろんな運動に関わることをみんなで確認していきたいと思います。
今日は多くの人に集まっていただき、重信さん、一緒に進みましょう、新たな時代を創るために!」

「重信房子さん歓迎の宴」は盛況の中、これで終了した。

【当日販売された本の紹介】

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『戦士たちの記録 パレスチナに生きる』」(幻冬舎)重信房子 / 著 
(幻冬舎サイトより)
2022年5月28日、満期出所。リッダ闘争から50年、77歳になった革命家が、その人生を、出所を前に獄中で振り返る。父、母のこと、革命に目覚めた10代、中東での日々、仲間と語った世界革命の夢、そして、現在混乱下にある全世界に向けた、静かな叫び。
本書は、日本赤軍の最高幹部であった著者が、リッダ闘争50年目の今、"彼岸に在る戦士たち"への報告も兼ねて闘争の日々を振り返りまとめておこうと、獄中で綴った"革命への記録"であり、一人の女性として生きた"特異な人生の軌跡"でもある。
疾走したかつての日々へ思いを巡らすとともに、反省を重ね、病や老いとも向き合った、刑務所での22年。無垢な幼少期から闘争に全てを捧げた青春時代まで、変わらぬ情熱もあれば、変化していく思いもある。彼女の思考の軌跡が、赤裸々に書き下ろされている。
さらに、出所間近に起きたロシアのウクライナ侵略に対する思いも、「今回のウクライナの現実は、私が中東に在り、東欧の友人たちと語り合った時代を思い起こさせる。」と、緊急追記。元革命家の彼女に、今の世界はどう見えているのか。
定価 2,200円 

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『重信房子がいた時代』(増補版)(世界書院)由井りょう子/ 著
(紹介)
2022年5月28日、日本赤軍の重信房子が20年の刑期を終えて出所した。
フツーの女子大生が革命家になるまでの足跡を、本人、家族、娘、同級生らの証言を丹念に聞き取ったノンフィクション。
重信房子を通して、あの時代の熱量を再現する。

目次
第一章 戦後民主主義の申し子
四〇年ぶりの再会
戦後民主主義に育つ
父とのささやかな遠出
理科と文学に親しむ
貧乏は恥ではない
デモも貧乏も嫌い
文豪に会いに行く
夢は先生になること

第二章 学生運動の季節
大学入学
スーツで座り込み
自治会活動
政治の季節
ブントの重信
救対の重信
一〇・八 
同人誌『一揆』
神田カルチェラタン
教師になりたい
大学祭

第三章 父と娘の革命
本気の革命
父は右翼
血盟団事件と父・末夫
全共闘運動
学生運動の変質
赤軍派でも救対
国際根拠地づくり

第四章 アラブに生きる
和服を着て大使館のパーティーに
山口淑子との出会い
父の毅然とした態度
父と娘
母・房子

第五章 娘に託した希望
アンジェラという名前で
メイ十六歳の誕生日
房子の逮捕
母の国、桜の国
日本、娘の日本

嘘  
 重信房子 
 高校三年生の時の小説

あとがき 
 もうひとつのあのころのこと
 重信房子 

(著者プロフィール)
由井りょう子  (ユイ リョウコ)  (著/文)
1947年12月、長野県生まれ。
大学在学中から雑誌記者の仕事を始め、主に女性誌で女優や作家のインタビューを手がける。
著書に作家・船山馨夫婦の評伝『黄色い――船山馨と妻・春子の生涯』(小学館)
共著に『戦火とドーナツの会い』(集英社)ほか、
編纂に『革命に生きる――数奇なる女性・水野津太――時代の証言』(五月書房)
がある。

定価1,800円+税

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『私だったかもしれない ーある赤軍派女性兵士の25年』(インパクト出版)江刺昭子/ 著
(紹介)
1972年1月、極寒の山岳ベースで総括死させられた遠山美枝子。
関係資料と周辺の人びとの語りで、複雑な新左翼学生運動の構図、彼女が学んだ明治大学の学生運動と赤軍派の迷走を描く。

目次
第一章 2018年3月13日横浜相沢墓地
第二章 重信房子からの手紙
第三章 ハマッ子、キリンビール、明大二部
第四章 バリケードの中の出会い
第五章 「きにが死んだあとで」
第六章 赤軍派に加盟
第七章 遠山美枝子の手紙
第八章 新しい世の中を作るから
補 章 伝説の革命家 佐野茂樹

(著者プロフィール)
江刺昭子(エサシアキコ)
1942年岡山県生まれ
広島で育つ。女性史研究。
著書に『樺美智子 聖少女伝説』などがある。

定価2,000円+税

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『歌集 暁の星』(皓星社)
連帯の火矢! 重信房子第二歌集
(皓星社サイトより)
テロリストと呼ばれしわれは秋ならば桔梗コスモス吾亦紅が好き
 
元日本赤軍リーダー・重信房子が21年に及ぶ刑期を終え、この5月に出獄する。
本書は獄中で書き溜めてきた短歌をまとめた第二歌集。著者は革命の日々を、連合赤軍事件で粛清された友・遠山美枝子を、現在の世界の悲惨を、二十数年にわたり詠み続けて来た。
本書の歌は、著者のもがきと葛藤の発露であると同時に、歴史の証言でもある。

海外で暗躍すること四半世紀を超え、国内での潜伏と獄中の日々、重信は一体、この斬新で清潔な文体をどこで獲得してきたのだ。
……戦い死んでいった同志への哀悼に、柔らかな心の襞を涙で濡らし続けてきたのだろう。(福島泰樹「跋」より)

アネモネの真紅に染まる草原に笑い声高く五月の戦士ら
空港を降り立ち夜空見上げればオリオン星座激しく瞬く
雪中に倒れし友の命日に静かに小さな白き鶴折る
津波燃え人家逆巻き雪しきり煉獄の闇 生き延びし朝
パレスチナの民と重なるウクライナの母と子供の哀しい眼に遭う

定価2,000+税

【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。


●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在12校の投稿と資料を掲載しています。


【お知らせ その2 】
ブログは概ね隔週で更新しています。
次回は7月15(金)に更新予定です。