今回のブログは、「続・全共闘白書」Webサイトの「学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録」コーナーに投稿のあったT氏の「僕の全共闘時代」という記事の紹介である。
この記事は東京・武蔵野市にある成蹊大学での闘争を中心に書かれたものであるが、230ページにも及ぶ労作なので、その中から1968年の成蹊大学での活動の部分を抜粋して掲載することにした。また、この寄稿文には1969年1月以降は書かれていないため、1969年の全共闘の部分は追加で寄稿していただいた。当時の活動家や大学内の様子がよく分かる内容である。
抜粋しても25ページくらいになるので、前編と後編の2回に分けて掲載する。
なお、成蹊大学は、先日亡くなった安倍元首相の出身大学である。
【僕の全共闘時代(抄)】
大学入試
(中略)
六七年の終り頃だったろうか、僕は初めて入試のための実力テストというのを受けてみた。たぶん僕の年代の受験生なら一人残らず受けていたであろう「旺文社のテスト」というのも、僕はこれまで一度も受けたことがなかったのだ。高校時代はもちろん、予備校に通うようになっても(といってもほとんど行かなかったのだけれど)、一度も受けたことがなかった。だから僕には自分の学力のほどが全くわからなかった。とにかくどこでもいいから引っかかってくれればいい、しかしそれさえもおぼつかないという気持だった。ところがこの初めての実力テストで、どういうわけか「早稲田までもう一歩」という結果が出た。これはたぶんマグレか、さもなければものすごく甘い点で受験生を力づけているに違いないと思った。この推測は当たっていたらしく、次にもう一度だけ受けてみたテストでは分相応に「早稲田は難しい」という評価になった。それでもどこやらには引っかかるかもしれないという希望が出たわけで、たぶん僕はほっとしたに違いない。
そんな状態だったから、僕は東京で受けられる大学は全部受けた。といっても受けられる大学は限られていた。というのは、僕は社会科で倫理社会を選択したのだが、その頃は倫社で受けさせてくれる大学がとても少なかったのだ。なぜ倫理社会なのかというと、まず僕は地理が全然ダメだった。歴史もダメだった。歴史というのは些末な年代の丸暗記としか思えなかったのだ。その無意味な数字を子供じみた語呂合わせや出来の悪い駄ジャレで覚えこもうとする空しい努力が大嫌いだった。
というわけで、まず僕は政治経済を選択することにした。これなら僕の関心にも合うと思ったのだ。ところが政治の方はともかく、経済でつまずいてしまった。経済の教科書はのっけから「経済の三要素は土地と資本と労働である」という言葉で始まっていた。今でこそこれが何を意味するのかおぼろげながらわかる気がするが、十八歳の僕にはわけのわからない呪文のようにしか聞こえなかった。そこで「経済の三要素=土地・資本・労働」と丸暗記してみたが、こんな勉強が面白いわけがない。「それがどうしたんだ!」と腹さえ立ってくる。こうして政治経済にはあっさり挫折して結局倫理社会で受けることになったのだが、さて困ったことに倫社を社会科に含めている大学は東京中で五つしかない。東洋大・中大・上智・成蹊・早稲田がそれである。学部は文学部と初めから決めていた。理数系はテンから問題にならず、政経は前述のとおり、法律と聞いただけでもムシズが走り、勉強嫌いの怠け者が教育学部など受けられるわけがないとくれば、文学部以外にないではないか。
僕は自分の学力もよくわからなかったが、この五大学の難易度もよくわからなかった。大体の順番くらいは何となく見当がついたが、それがどのくらいの差で並んでいるのかはさっぱりわからない。東洋大が事実上のすべり止め校として有名であることも知らなかったのだ。
入試の手続きは当然その東洋大から始まった。受付で手続きをしているとき、窓の下の白山通りを東大の方に向けて二~三十人のヘルメット姿の学生が隊伍を組んで進んで行った光景は、今でもはっきりと覚えている。
試験は二月十一日に行われた。これは最悪の日程だった。というのは、その前年に政府が革新陣営の反対を押し切って、戦前の「紀元節」を「建国記念日」という名前に変えて祝日にしたからだ。多くの大学で同盟登校が行われた。そして二年目のこの年も事情は全く同じだった。十一時頃から紀元節復活反対の集会が中庭で開かれ、大学中に響きわたるような大音量のアジ演説が窓ガラスを通過して入ってきた。試験も何もあったもんじゃない。
休み時間になると集会は一時中断して受験生への呼びかけといった形になっていた。受験生の中の元気のいい一人は活動家に対し、「人が入学試験を受けている時に、なぜわざわざそれを妨害するような形で集会を開くのか。集会が他人に対する呼びかけという意味をもつなら、もう少し配慮というものがあってもいいではないか」という質問をしていた。僕もそう思った。正直な話、自分自身学生運動を通り抜けてきた今でもそう思うのである。活動家は何やらそれに対して答えていたようだが、その答がどうであったか記憶にない。いずれにせよあまり説得力のあることは言えなかったに違いない。運動のさ中にいる時は、そういう正論を自分の中で無理矢理わきに押しのけてしまうものなのだ。ついでながら、この受験妨害のアジテーションをやっていたのは、のちに解放派全学連委員長になる内城に違いないと僕はにらんでいる。
中大の入試も学生運動がらみだった。学費値上げ反対のバリケード・ストライキで校舎が封鎖されていて、いつまで経っても入試手続きが始まらなかったのだ。このまま行ったら入試中止かとせっぱつまった二月十六日、大学が値上げ案を白紙撤回して、翌十七日からようやく入試事務が始まった。
その日の夕方、ニュースでそれを知って、僕はさっそく手続きに行った。一口で言って、中大は陰気なところだった。校舎が中庭をロの字型に包囲していて、そこここに立て看(立て看板)―という学生運動の業界用語はその当時まだ知らなかったが ―を燃やした跡があった。さながら「燃え殻や つわものどもが 夢の跡」とでもいった、荒涼とした風景だった。
中庭は一面アスファルトでおおわれていて、草木一本はえていない。良く言って中世の修道院、悪く言えば監獄のようだ。この印象はストライキが解除されたばかりだからというわけではなくて、入試の当日も全く変わらなかった。とにかく中大の校舎は他大学と比べてもひときわ暗く、汚かった。中大は東京でも最も学生運動が盛んな大学の一つだが、この陰気な校舎がその原因の一つ、あるいは最大の原因だったに違いない。
早稲田の入試では、そのものすごい人波に圧倒された。僕はそれまであんなに巨大な人間の塊を見たことがなかった。もっとも人数だけなら野球場の退け時の方があるいは多いかもしれない。だがこの人波には野球場のようなざわめきも熱気もなかった。巨大な塊が黙々と、次から次へと同一方向へ流れていく。僕は比喩でなく一種の恐怖を覚えて一人だけわき道に入り、高田馬場駅まではるか遠回りして帰った。
こうしていろんなことのあった一年間が過ぎ、どうやら大学人試も終った。結果は三勝二敗、東洋大、中大、成蹊に受かり、上智と早稲田をすべるという成績だった。高校以来の不勉強ぶりからすれば、上々の結果だったと言ってもいいだろう。
この受かった三校のうち東洋大は自他共に認めるすべり止め校として入学手続きがひときわ早く、他大学の人試発表の前に入学金を納めなければならない仕組みになっていた。そこでとにかく入学金を納め、身分を確保した、これでどうやら宙ぶらりんの生活に終止符が打たれたわけだ。
もっとも三校に受かったとはいっても、そのうち成蹊大はかろうじて補欠に引っかかった状態だった。この補欠というのが曲者で、正規の入学金のほかに「寄付金」(というような名称だと思った)のお願いがくっついてくるのだ。この「お願い」によれば寄付は強制でなく、払うも払わないもまったく任意であるという。しかし暗々裡に「払えば払うほど入学の確率が高くなるし、払わなければ身分の保証は致しません」と言っているようにも聞こえる。つまり「補欠」という何だかよくわからない状態の不安につけこんで、なるべく多くのカネを引き出そうという仕掛けなのである。結局父はかなり多額の寄付金を払い込んで、かろうじて僕は成蹊大に入学を許されることになった。
成蹊を選択した理由は、一言で言って入試における女の子の多さと美人度であった。恥ずかしながらたぶんそれが最大の誘因で、次にキャンパスの小ぎれいさ。アスファルトとコンクリートにおおわれた中大や東洋大と違って、成蹊は市の記念物であり詩人の金子光晴が称賛したという見事な欅並木が五日市街道からつづき、その向こうに芝生と煉瓦づくりの校舎が広がっていた。それに加えて通学時間も最も短く、高校よりも近かった。しかしこの判断が実にアサハカであったことを、入学したのち僕は嫌というほど味わうことになる。小ぎれいなキャンパスの裏にあるものを、その時は見抜けなかったのだ。
何とか成蹊大に入学して僕がまず思ったのは、「絶対に中退はすまい」ということだった。入学したとたんに中退のことを心配する人もあまりいないかもしれないが、僕の場合は高校のように過ごしていれば、必ず中退になるだろうという確信のようなものがあった。間際になって大学に行かないと言い出し、就職したとたんにやっぱり大学に行くと心変わり、すべり止めの入学金に加えて寄付金まで出させて、やっと入学したと思ったら今度は中退― ではあまりにひどすぎると、さすがの僕も思ったのだ。
野次馬として王子へ
(中略)
成蹊というところ
初めのうち、大学というところは居心地が良くなかった。それが証拠に、最初の一週間、僕は全く授業に出なかった。いや、出られなかった。なぜか気後れがして、きめられた校舎の、きめられた教室に人っていくことができなかったのである。
成蹊はあまり学生運動が盛んなところとは見えなかったが、それなりに立て看は並んでいた。しかし政治党派らしきものは「反戦学評」という耳なれない組織のものがあるだけだった。僕は中核はいないのかとウの目タカの目でさがしたが、どうやら成蹊には中核派は棲息していないようだった。なぜ中核なのかといえば、神様である山﨑君は中核派だったし、三派系全学連の輝ける委員長である秋山勝行も中核派だった。10 ・8以来の数々の闘争で、とにかく「中核」の名が圧倒的に目立ったのだ。
実は成蹊にも中核派はいたのである。しかしアホなことに彼らは「反戦会議」の名前で、ベニヤ板二枚張りの小さな立て看を一度出したきりで、あっさり姿を消してしまった。後になって知ったところでは、「反戦会議」は中核派の大衆組織 つまり、マルクス主義学生同盟中核派では恐ろしくて入る気がしないという人たちをプールするための場 だったのだが、成蹊大の中核の本体はまるで秘密組織のように自分の名を表に出さず、地下に潜ったままだった。こうして中核派はあたら優秀な活動家(?)を一人失ったのである。(中略)
従って 10 ・8以来の主役は、何かというと角材と石ころを持ち出す三派系全学連であった。三派系の三派とは動員数の多い順に社学同(社会主義学生同盟。通称ブント)、中核派、社青同解放派(社会主義青年同盟・解放派)の三つをいう。当然成蹊大にこの三つが存在するかということが、入学以来の主要な関心事となった。
ところが成蹊はこの組織系統図のどこにあてはまるかさっぱりわからない「反戦学評」の独り舞台であるらしかった。空色のヘルメットをかぶっていることと言っていることからして、反日共系のどこかに分類されるらしいが、新聞にもどこにもそんな名前の党派は見当らない。それも道理で、「反戦学評」は成蹊だけに通用する名称だったのである。
ここでこの成蹊大反戦学評(反戦学生評議会)がどのようにして発生したか、従って成蹊の学生運動がどのように生まれてきたかについて説明しておこう。後で小出しにするよりあらかじめここで整理しておいた方が、のちの様々な現象を理解するために都合がいいと思うのだ。といっても、話はそう大して昔に戻るわけではない。昔に戻るほど成蹊には学生運動の歴史はないのである。
僕が入学した当座もそうだったが、成蹊の政治状況を語る時第一番に持ち出されるのが、一九六四年の『朝日ジャーナル』の記事だ。その頃『朝日ジャーナル』には「大学の庭」と題する大学探訪シリーズが連載されていて、その成蹊大学の項には「無風地帯」とタイトルがつけられていた。
さらに言えば、この「無風地帯」は成蹊大の伝統であったらしい。のちに社研(社会科学研究会)の部屋の古い棚から見つけ出した昔の資料によれば、あの歴史的な六〇年安保闘争の時でさえ、成蹊の学生は全学連主流派(反日共系)の方に行こうか、非主流派(日共系)の方に行こうかとウロウロしていたらしい。言ってみればどっちつかずの非政治的な存在だったわけだが、分類したがる警察によって無理矢理日共系の方に仕分けされていたという。
しかし政治的に無風地帯であったことは大学当局が学生に自由にふるまわせていたことを意味しない。むしろ全く逆であって、高校なみの表現規制をしていた。例えば掲示物は所定の場所に学生部の許可をとって貼らなければならぬ、看板は本館裏の道のわきのみ許可する(つまり、目立つところには立てさせない)、といったようにである。さらに、学長談話を一面に載せず二面にまわしたという笑ってしまうような理由で大学新聞を発行禁止にしたこともある。要するに無風地書というのは風が吹くほどの問題が存在しないということではなくて、問題の存在に学生が気づかない、学生の大多数に政治的自覚がないということにすぎないのだった。
しかし一九六〇年代の高度成長は成蹊大学に新たな展開をもたらすことになった。未曾有の経済の繁栄の中でベビーブーム世代が進学をむかえて大学生の数が急増し、また大学進学率は今後も上昇しつづけるだろうという見通しを背景に、それまではこぢんまりした経済系の単科大学であった成蹊大も、総合大学化の道を歩み始めたのである。まず技術革新のための花形学部であった工学部が、つづいて文学部が新設され、さらに政経学部が法学部と経済学部に拡大分離されることになる。そしてそれぞれの学部は卒業生の輩出をまって大学院が設けられることになった。
こうした大学自体の変化に加え、ベトナム反戦運動の高まり、さらに六五年あたりから顕著になった学園闘争の激化などを背景に、無風地帯にもそよ風が吹き始める。まず総合大学化とともに学生の間に統合自治会運動が起った。しかしこれはーおそらく学生運動の興隆を恐れたー大学側によってつぶされた。そして僕が入学する前年の六七年には、大学の許可を受けずにビラを配り、掲示板に貼ったという理由で退学処分になったMという学生が、首に犬の首輸をはめるという異様なかっこうでハンストを始めた。しかしこの闘いも敗北に至る。
このように当時の成蹊大には何となく鬱屈した気分と、何かやらなければという昂揚した気分が一緒になって潜在していたようだ。そこに一人の女子学生が早稲田からオルグとして目黒という活動家を連れてきた。目黒は精力的に、しかし粘り強く活動を始め、短期間のうちにMの処分反対闘争やベトナム反戦の運動に参加していた者などを糾合し、政治党派にまとめあげた。
目黒は早大反帝学評の活動家だった。反帝学評は社青同解放派の学生組織である。つまり目黒のつくった「反戦学評」は三派系全学連の一つ、反帝学評のことだったのだ。反帝学評は青色のヘルメットをかぶり、成蹊大反戦学評は空色のヘルメットをかぶる。
なぜ目黒はこのようなまぎらわしいことをしたのだろうか。まず考えられるのは、成蹊の政治風土を考慮したということである。当時成蹊には党派は少なくとも表立っては一つも存在していなかった。民青すらいなかった。この民青すら育たないという事実は、成蹊にいかに民主的な土壌が乏しいかという象徴のようなものだといえる(そしてこのことは後々までに重大な影響を与えつづける)。こういう戦後民主主義以前的な風土にいきなり「反帝」という強烈な言葉をもちこむことは得策でないと目黒は判断したのではないか。そしてとりあえず反帝国主義を反戦にうすめ、青色を空色にうすめて、成蹊の小ぎれいな芝生の上にデピューさせたのだろう。
同時にこれは目黒独特の政治手法だったようだ。成蹊の運動がひとり歩きするようになって、目黒は成蹊を去った。そして今度は労働者を組織すべく調布地区で活動を始め、調布反戦をつくったが、これも当初は無党派をあらわす黒ヘルメットをかぶっていた。そしてイデオロギー的に固まってきた段階で青ヘルメットになった。しかし考えてみると、これは戦闘性や党派性を最初から強く打ち出す新左翼翼系党派の政治スタイルとはかなり離れている。また目黒の風貌も、僕がのちに会うことになる反帝学評の活動家の一般的なタイプとはかなり隔たっていた。反帝学評の一般的なタイプが 議長の三井一征に代表されるように モダンな青年という感じだったのに比べ、目黒は色浅黒く、労働者的、おじさん的な風貌をしていた。反帝学評というよりむしろ社青同の活動家と言った方がぴったりくる(社育同はもともと社会党の青年組織だった)。そういう意味では全共闘運動の全国的爆発を前にして早大を去ることになる早大随一の活動家、大口昭彦の風貌とも共通するものがあった。これは全くの臆測だが、目黒はどんどん過激化し、新左翼化する反帝学評の運動に違和感を覚えて成蹊にやってきて、さらには労働者となって行ったのではないだろうか。
しかしそれはそれとして、目黒がきわめてすぐれたオルガナイザーであったことは間違いない。時期が良かったとはいえ、彼は短期間のうちに突破口を求めていた活動家予備軍をまとめあげ、成蹊を反戦学評のいわば一元支配の状態に仕立てたのである。(もっとも〝一元支配〟の内実はかなりお寒かったけれど)。そのあとも成蹊を拠点化することを夢想していくつかの党派の活動家がオルグとして派遣されてきたが、きちんと組織をつくることができたのは目黒だけである。
このように僕が入学してきた年は成蹊大反戦学評が産声をあげ、党派として歩み始めた、そのすぐ翌年だった。
デモにとびこむ
当時デモに参加した人のほとんどがそうではなかったかと思うのだが、初めてデモの隊列にとびこむ時はものすごい勇気がいる。単に眺めている時はそうでもないが、いざ自分がそこに加わろうと思うと、デモ隊とその外の平和な市民社会の風景との間の深い溝が強烈に意識されてくるのである。まるで自分が「普通の人」から「異様な人」へと変貌を強いられているような圧迫感に襲われる。これはおそらく不協和音を嫌う日本社会がはっきりした政治主張を排除しているからだろう。つまり異議を出す者を集団から仲間はずれにするような日本社会のメンタリティが僕たちの中にも知らず知らずのうちに浸透していて、そのために「デモ隊の人」と「普通の人」の差を実際以上に意識してしまうからに違いない。こうした意識を抱きながらなおかつそれを超えるためには、「見る前に跳べ」というような特別な決意を必要とする。しかしそんな決意を持てなかった僕は人学してからしばらくの間、アジ演説や集会を片目に見ながらウジウジと過ごしていた。
四月二十六日の午後、僕は文学部一号館の二階で英語の授業を受けていた。教師は赤松という教授で、その年の学生部長をつとめていた。一号館の裏にはサークルの長屋があって、そこには演劇部やESと呼ばれる英語部などとともに社研(社会科学研究会)の部室もあった。社研はおおかたの大学でそうであるように、政治や社会問題に関心の深い学生の巣窟になっていた。英語の授業が行われる教室は一号館の西側で、サークル長屋を見下ろす位置にあった。社研の前には授業の始まる前から二十名ほどの学生がウロウロしてはヘルメットを準備したりしている。「俺もあそこに参加するべきなんじゃないか」去年の十月以来頭の中でひびいている声がまた鳴りだした。授業が始まると、べつにわざと妨害するつもりではないだろうが、窓の下の連中は隊列を組み、小さなマイクでアジ演説を始めた。どうやらこれからデモに行くらしい。その様子を見て赤松教授は学生部長という自分の職責に目覚めたらしく、「どのような政治思想を持つのも自由だが、社会に迷惑をかけたり、暴力に及んだりするのはよろしくない」というような所見を述べた。なんとなく「学生部長だからしかたなく言っている」という感じも見受けられたが、教授の思惑とは逆に、この言葉は僕に「こんな所で学生部長の訓示をのうのうと聞いていてもいいのか」という感情を呼び起こした。そして翌日こそデモに参加しようと一大決心をすることになった。
この年、四月二十六日を手はじめに二十七、二十八日と三日連続して沖縄闘争が予定されていた。その頂点に立つのが4・ 28 のいわゆる「沖縄デー」で、一九五二年のこの日、サンフランシスコ対日平和条約が発効し、日本政府は沖縄を本土と切り離し、アメリカの占領下に置きつづけることに合意したのだった。そして二年後の一九七〇年に迫った日米安保条約の改訂がベトナム戦争を背景に行われる以上、巨大な基地群をかかえた沖縄の施政権返還の行方がその焦点になってくることが予想された。加えて昨年来、学生運動が高揚をつづけ、今、新学期を迎えているわけである。新左翼諸派は新入生大量獲得のためにも三日連続というやや無謀な闘争を企画したのだろうし、逆に権力側は何とかしてその動きに水をかけ、新米活動家の肝を冷やしてやろうと思っていたに違いない。
そんなことは知らぬが仏、僕は翌二十七日の土曜日、僕なりに決意して学校に行った。とはいうものの、やはり自分から社研や文学部代議員会室におもむいて集会への参加を申しこむ勇気はなかなか出てこない。というわけで僕は授業が終った昼休み、一号館前で集会が行われるのを少し離れたペンチで漫然と眺めていた。集会が終ると、集っていた連中はあちこちに散り始めた。その中の二人の男女が偶然僕の座っている横のベンチに来て、話し始めた。二人とも活動家らしい。女の子の方は林檎のような頬っぺたをしていて、いかにも山出しの少女という感じである。東京の中産階級の子女を主体とした成蹊の雰囲気とはずいぶんとかけ離れた子だ。その後、被女がその名もズバリ〝リンゴ〟という名で呼ばれていることを知った。
僕は勇をふるって二人に話しかけてみた。
「今日のデモに行こうと思ってるんですけど 」見ず知らずの男にいきなりそんなことを言われて、二人は驚いたようだった。それでもリンゴちゃんは喜んでくれた様子だった。二人の話では今日は土曜日なので、全体の集会はずっとあとになるということだった。そこで僕はいったん家に帰って、例のジャンパー姿の〝闘争スタイル〟に変身することにした。
再び学校に戻って、今度は二人に言われた文学部代議員会室に顔を出した。文学部代議員会室、略して文代の部屋は社研のあるサークル長屋と同じく文学部一号館の裏にある。古いコンクリートづくりの小さな建物で、入口は一号館の陰になり、反対側の窓も小さくて、何となくウス暗く陰気な部屋である。学生が入ってきたくなる所ではない。
僕の相手をしたのは痩せてひょろ長い男だった。僕はこの男の顔は知っていた。オリエンテーションで文代を代表して挨拶した人物である。名を桶本宙太といい、桶宙という〝徳球〟〝宮顕〟なみの古めかしいあだ名で呼ばれていた。
僕がまっ先にたずねたのは、
「あの~、反戦学評っていうのは三派系の一つなんで・・・?」
ということだった。オズオズと聞いたので、語尾も不明瞭になっていた。
それに対して桶宙はあっさりと、「ああ、そうだよ」と答えた。僕はほっとした。中核でないのは残念だけど、三派系ならまあいいや、というのがその時の気持だった。こうして僕の運命は決まってしまった。何ともあっさりというか、いい加減なものである。
もっとも当時の活動家・半活動家の運命なんて、多かれ少なかれそんなものだった。先にあげた『全学連70 年安保と学生連動』という本は、中大ブント(社学同)の中堅活動家の次のような言葉を紹介している。
「中大は前からブントが強いから、入学してから自治会活動していれば、自然とブントに流れていくんです。ぼくも、たまたまデモに行き、自治会運動をやろうと思って、クラスの委員になってからブントに入ったので、別に大きな契機はありません。沢山セクトがあって選択したというのではなく、全然他の派のことは知らなかったのでブントに入っただけです。」
というわけで僕は成蹊の補欠にひっかからなければ、たぶん中大に人ってブントになっていたわけである。もっとも僕はこのことがさほど間違っていたとは思わない。いくつもの党派が同じような勢力で共存していた大学ならともかく、成蹊や中大のような一元支配のところでは、むしろこの方が普通だろう。僕たちはべつに理論を求めていたわけではなく、何より自民党政府の愚劣な支配に対して実力闘争をやりたかったのだ。ただ、こうして偶然ある政治党派の傘下に加わったに過ぎない者が、やがてその党派の理論の下に抗争をくり返したり、別々の運命をたどっていくのは不思議である。自分でもその道を選択したこの僕がそんな感想を洩らすのは無責任といえば無責任だが、これが正直な気持なのだから仕方がない。もっとも党派の選択にはある幅があって、特に七十年代以降はその選択の是非がより厳しく問われていくようになる。
さて、僕の質問に対して、桶宙の方でも質問を返してきた。
「ゲバ棒についてどう思う?」というのだ。ゲバ棒とは今では死語になってしまったが、ゲバルト(ドイツ語で暴力)棒の略で、要するに角材のことである。「角材で機動隊と衝突することに抵抗はないか」と聞いたわけだ。それに対して僕は「ほとんど効果がないと思う」と答えた。実際、長い角材は空振りして地面でも叩けばたちまち折れてしまうわけで、武器としてはいかにも頼りなげに見えた。つまり桶宙が「法を犯して集団で凶器を持ち、街頭で暴れまわることに抵抗はないか」と聞いたのに対して、僕は「そういう抵抗はないが、角材は武器として役に立たない」と答えたことになる。 10 ・8の時には角材の林立に驚愕したのだが、わずか半年で僕の感覚はここまで進化したのだった。これは僕だけのことでなくて、デモに参加してくる新入生全体について言えることらしく、上級生の誰かが「俺たちは角材を持つのが是か非かで議論したのに、今年の新入生は効果があるかないかのレベルで問題にしてくる」と感心 ? していたのを覚えている。しかしさらに翌年の新人生になると、ヘルメットとか角材なんて当たり前すぎて、問題ですらなくなってくる。
(中略)
街頭デモに出動する一方で、僕は新兵として学内活動の訓練もさせられた。まずやらされたのは文学部代議員会の情宣紙の編集助手だった。といえば体裁はいいが、要するにガリ切り要員である。僕の字は普通に書くと下手だが、不思議なことにガリ版刷りにすると見栄えが良くなるので、こういう役を割り当てられたのだろう。〝上司〟は梨田という二年生で、どういうわけか「チンポ」というあだ名がついていた。酔っ払うとところかまわず小便をする男で、歩道から車道に向けて放水したりするのはしょっちゅう。翌年の合宿ではなかったかと思うが、民宿の二階の窓枠にのぼり、外に向かってジャージャーとやったこともあった。おおかたこんなところから妙なあだ名がついたものに違いない。それでも仲間うちで言っているうちはいいが、ある時は学生大会で桶宙が大声で「おーい、チンポ」と呼んだことがあった。この時はさすがの梨田も閉口したものとみえ、あとで、
「おい、大衆の前でチンポなんて呼ぶなよな~」
と言っていた。ちなみに「大衆」とは学生大衆とか一般学生とかの意味で、僕たちは当時こんな思い上がったもの言いをしていたわけである。
このチンポの下で、僕はもう一人の一年生の女の子と共にガリ切りをやらされたり、読書会で本を読まされては理論(らしきもの)のイロハを叩きこまれたりしていた。しかしチンポ先生はそれほど情宣紙づくりに熱心でなく、ほどなくその役目は僕にまかされるようになった。というのは、僕は高校時代から日記をつけていた。僕にとって日記は意義あるものを何も見出せない高校生活の中で、唯一自己活動らしきものだった。人に向かって真面目な話をするのは大の苦手だったが、日記を前にする時だけは心情を吐露できるのだ。だから情宣紙づくりは全く負担ではなかった。それどころか、文代の情宣紙はほどなく僕の個人ビラと化してしまって、僕は題名まで勝手に「パトス」という名に変えてしまった。
ガリ版の字は立て看の字とも共通するとみえ、僕はやがて立て看を書くのもやらされるようになった。俗に「立て看三年ガリ八年」と言って、これは学生運動の裏方を小官僚として出世して行くための基礎業務なのである。僕はこの方面に向いていたものとみえ、学生生活を通じてはげむことになる。
月日は流れ、それから二十年後、僕は工事現場で働くことになった。読者諸氏も街角で見かけたことがあると思うが、工事では黒板にチョークで作業内容を書いて、証拠写真を残しておくということをやる。あの黒板の字をきれいに書く方法が、ガリ切り・立て看と同じなのである。僕は工事現場は素人同然なのにかかわらず、黒板書きだけは玄人なみで、みんなから感心された。芸は思わぬ時に身を助けるものなのだ。
情宣紙につづいて、僕はクラスの代議員にさせられた。させられたとはいっても代議員はクラスで選出されるものだから、自分から代議員になりたいといって、承認を得るわけである。むろん対立候補がいれば投票になるのだが、成蹊のような大学ではたとえ文学部でもそんな酔狂な人間がいるわけもないから、拍手で承認ということになる。しかし僕の意識の中では自主的になったというより、やはり「代議員にさせられた」のだった。
ついでに文学部代議員会について説明しておこう。成蹊はもともと単一学部だったので、自治会は一つだった。それが総合大学化の中で各学部に自治会が設立された。しかし学生の声を一つにまとめるために統一した自治会をつくろうという声があがり、統合自治会運動が展開された。しかしそれは学校当局の反対でつぶされ、政経学部と工学部には独立した自治会ができた(政経学部は、のち法学部と経済学部に分籬されたが、自治会は法経学部自治会として継続することになる)。しかし文学部だけは承服せず、学部自治会の設立を拒否。その代わりに通常は自治会執行部から独立した代議員会の議長団が、自治会執行部の役を兼ねることになった。簡単に言えば法経・工の自治会執行部が学生全体の投票で選ばれるのに対し、文学部では代議員会で選出された議長団が執行部となる。法経・工が大統領制なのに対し、文学部は議員内閣制であると言えばわかりやすいだろう。
以上は統台自治会運動挫折の結果なのだが、結果的には文学部方式の方が運動がやりやすくなった。もともと自治意識の旺盛な者が代議員になるから、議長団が左翼的な方針を出しても代議員会の承認を受けやすい。それに対し、秩序派の多い法経では学生大会で自治会執行部が罷免されるような事態が現に起きているのである。
僕はこうした性格の代議員会の一議員にさせられたわけだが、これは全く僕の予想外のことだった。というのは、代議員になるということは単に代議員会に出席すればいいということではなくて、その主眼は文代の活動、早く言えば反戦学評の活動をクラスの中に広め、浸透させることにあるからである。ということはとりもなおさず、その内実はクラス討論を開き、反対派を説得し、関心のありそうな者に目をつけ、「ちょっと話さない」といやらしく誘い、オルグするという〝日常活動〟であるということになる。僕は街で機動隊とぶつかり、自民党政府に一矢でも二矢でもむくいてやることに関してはある程度の覚悟があったが、こんな〝日常活動〟をやらされるとは思ってもみなかった。ところが学生運動の内幕はこういうことの方がはるかに多くの比率を占めていたのだ。オルグ・恫喝・組織活動・論争・党派闘争が学生運動の九十パーセントを占めると知っていたら、僕は決してそんなものに近づきはしなかったろう。
しかし世の中様々、人も様々であって、連合赤軍の坂口弘の自伝、『あさま山荘・一九七二』を読んでいたら、次のような記述に行きあたった。
「M工業の組合活動の第一線で毎日の活動に追われていた。忙しいが充実しており、活動が面白く感じられる日々であった」「労働運動は、M工業ばかりでなく、他の工場で働く労働者との交流も行った」「いずれもささやかな経験交流会にすぎないが、革命左派党員や共産青年同盟員による各工場での活動が、徐々に実を結び始めていることが実感でき、嬉しくなるのだった。」
僕は学生運動・党派活動の全期間を通じて、こんな歓びを感じたことは一度もない。むろんその中には闘いが広がっていく時の高揚感とか、他人と一緒に活動する際の、現世利益で結びついた人間関係では得られない浮き浮きした気分とか、ダメな自分が徐々に変革されていく手応えとかがあるわけで、必ずしも真っ暗な部分ばかりではないのだが、それでも自分の考えを他人の中に押し広げていくことに対する手放しの歓びを感じることはなかった。僕にとって「他者と連帯する」ことはむしろとまどいの連続だった。その意味で全共闘運動は 一部で言われているように 単に楽しいお祭りではなかった。そのように昔を回顧する人は、本気で闘っていなかったのである。
以上を短く言えば、僕は本質的に大衆運動=組織活動に向いていない人間なのだ。だから全共闘運動→党派活動の八年間は、僕にとって無理に無理を重ねた八年であったと言っても過言ではない。
それでも僕は殊勝にもクラスの名簿をつくってみたり、安保条約の勉強会をやってみたりはした。しかしこういうことにたけているのは社研に入ってきて、そこを通じて学生運動に参加しているような連中だった。彼らはサークル ―クラス活動― 学生運動というサイクルの中で人間関係を拡大していくことがごく自然にできているように見えた。それに対して法・経学部からデモに参加してきた新入生たちは、クラスから浮き上がった少数派という色合いが強かった。文学部の場合、それも特に僕を含む文化学科のクラスでは一応クラス討論や安保の学習会が成り立つ雰囲気があったが、法学部・経済学部ではそんなことは問題外らしかった。そういう意味では僕は心理的には法経の連中に近かったのかもしれない。
授業、そしてサークル
学生運動に片足をつっこむ一方で、僕は授業にはそれなりに出席していた。普通、大学の新入生は授業のつまらなさに失望して五月病にかかり、そこに活動家がつけ入ってオルグすると言われるが、僕には大学の授業はけっこう面白かった。少なくとも高校の授業よりははるかに面白かった。要するに僕の場合、大学には暇をつぶすために来たのであって、初めから期待するものはなかったから、失望することもなかったのだ。
日本の近代史や社会学が高校よりはるかにマトモなのはもちろんだが、地学の講義が体系的なのにも驚いた。といってもこれは真面目に授業に出ていたわけではなくて、試験の直前になって(たぶん女の子から)借りてきたノートを写しながらの感想なのだが、そこではプレートテクトニクス理論から始まって、津波の性格までが系統的に、一貫した論理の下に述べられていた。科学が論理的なものだということくらいは知っているつもりでいたが、ここまで体系的だとは思わなかった。高校の受験教育の下では、科学までがバラバラな知識の切り売りになっていたのだ。
プレートテクトニクス理論というと、今では地震のたびにテレビでコメントされるくらいポピュラーなものだが、当時はたぶん最新の学説だったに違いない。何しろ僕が中学生の頃に家で買った百科事典には、大陸移動説など妄論にすぎないと決めつけているくらいなのだから。
もう一つ印象的だったのは、カントの権威だという金子武蔵の授業だ。成蹊には東大の払い下げ教授がたくさんいた。東大を定年退職になって、成蹊に払い下げられてくるのである。考えてみれば定年退職前であろうとなかろうと、学問レベルに差が出るわけではないのだが、やはり「お古」という感は否めない。僕たちは米軍払い下げの脱脂粉乳で育ったが、大学になっても払い下げの運命からまぬがれることはできなかった。
金子武蔵教授はこの「お古」の代表選手だった。成蹊に来て何年になるのか知らないが、既にかなり古びた印象だった。挙措動作もヨタヨタしていたが、授業がまた退屈きわまりない。講義の口ぶりもヨタヨタしているが、その内容がまた古色蒼然としていて、ピコだとかなんだとか、今では誰も知らないような中世のマイナーな神学者の話が延々とつづくのだ。
しかし今になって考えてみると、この授業は必ずしもマイナスだけではなかったように思う。というのは、金子武蔵の授業は学問というものの本質的なマイナー性を体現していたからだ。学問や研究は、やればやるほど枝葉末節にわけ入っていく性質をもっている(ように僕は想像する。なにせ、そこまでわけ入ったことがないもので)。金子教授もたぶん若い頃はカントのメジャーなところから入って、細かい部分にこだわったあげくどんどん枝葉末節にわけ入り、あのような姿になったのに違いない。もし学問が常にメインストリームやかっこいい部分だけを対象とするなら、国家からの自立など不可能になるだろう。研究者は時流に反して自分の洞穴にしがみつくかっこ悪い存在でいいのである。
とはいえ、やはりあの講義には問題もあった。なにしろ、あれは一般教養の授業だったのだ。今現在に対する問題意識を抱えた少年少女にいきなり枝葉末節にわけ入ったあげくの研究成果を示してもわかるわけがない。やはりあれは良く言えば月がスッポンに、悪く言えばボロ雑巾が新品に教える授業だったと言わざるを得ない。
それにしても僕は思うのだが、全共闘はこのような大学教授を詰問したわけだが、どうも少しかわいそうだったのではないだろうか。むろん日大の古田会頭とか、いくら責めたてても責め足りないような人物もいた。東大の加藤(総長代行)も社会の生産システムの中に機能的に大学を置くタイプの官僚だった。しかし少くとも僕に限って言えば、真に憎むべきはあの受験教育であり、中学・高校でそれを率先してきた教師であり、さらにそれを先導してきた文部省や自民党の行政であった。僕たちはそれを素通りしてきて(ということは闘うべきところで闘わないで)、大学に入って自由になってからその怒りをぶつけたー という感じが、実のところずっと心の内につきまとっている。(なんてことを当時の教授連に言ったら、「何を言うか、おまえが一番ひどかったじゃないか」と怒られるかもしれないが。)
大学に人って、僕はサークルというものもやってみようと思った。中学・高校と僕はクラブ活動と縁がなかったのだ。そこで「文学会」というところに入った。しかし何となくしっくりいかなかった。ピラを作る気はいくらでも起るのだが、同人誌に文学について書く気はどうも起らないのだ(書くことがなかったせいかもしれない)。それでしばらく通った結果、何となくやめてしまった。考えてみるに、僕はどうもキラキラと今を生きるような活動、とりわけ友達づくりの活動に向いていないようなのだ。それだったら一人で部屋でレコードでも聞いていた方がいい。だから僕はかなりの熱を入れてポピュラー音楽を聞いていたにもかかわらず、その方面のサークルにも入る気は起らなかった。僕が唯一できた他人との活動は学生運動だった。僕にとってこれは自分がきらめくための活動ではなく、やむにやまれぬ行動だったのだ。だから文代の代議員にはなれたが、社研のようなサークル活動はできなかった(のちに社研再建のためやってみたことがあるのだが、やはりダメだった)。
サークルといえば、僕が入学した年はまだ四大学祭というのがあった。成蹊・成城・武蔵・学習院という旧七年生高校の伝統をもつ四つの大学が合同して大学祭を開いていたのである。六八年には武蔵大がその舞台となっていたが、「合同」の実態は既に失われていて、成蹊では授業も休みにならなかった。行きたいヤツは勝手に行けというわけである。文代はそれがけしからんといって、武蔵大まで出かけて小さな集会を開いたのだが、僕はそのついでに一つの講演を見た。それは「反日共系全学連の教祖」と新聞で紹介された岩田弘・立正大教授の講演だった。実際はブントの一派で今や消滅しつつあるマルクス主義戦線派、通称マル戦の指導者であったにすぎないのだが、僕は「どれどれ、教祖というのはどんな顔をしているのか」という野次馬的な興味で見物にいった。教祖様はドブネズミ色の安っぽい背広に身を包んだ小太りの男で、ひげが濃く、何となく薄汚い感じがした。講演の内容は今資本主義は絶滅の危機に瀕しており、二~三年後には恐慌が来るというものだった。そもそもマル戦は万年危機論で有名で、しかしいつまで経っても恐慌がやってこないので、自分の方が絶減の危機に瀕してしまったのだが、岩田先生は今も意気軒高で、恐慌の到来を予言していた。その論理はまず恐慌という結論―ないしは期待―が前提にあり、それに都合のいい事実をうまくつなげていくという短絡的なもので、僕のような新入生でさえ「ほんとかね~」と疑わしく思わないわけにはいかなかった。会場の雰囲気も同様に冷やかし半分だった。しかし考えてみれば万年危機論は左翼、とりわけ新左冀に共通の特性であって、マル戦はそれを経済学的に極端化したにすぎなかったとも言える。そういう意味では一人マル戦派のみが消減したのは不公平な感じがするが、なまじっか正直に恐慌の到来を二~三年後と指定してしまったのがいけなかったのかもしれない。いずれにせよ岩田弘の論法は資本主義危機論の一つの極であり、その極端なところはある意味でとても面白かった。それにこれから五年後には石油ショックがやって来たのだから、岩田先生は「それみろ俺の予言が当たった」と言っているかもしれない。
ついでに言えば、かつて成蹊高校にはこのマル戦派の運動があって、他ならぬ桶宙もそれに属していたそうだ。そういえば、その説明的(啓蒙的?)な運動のやり方はマル戦っほく見えなくもなかった。
東大・日大闘争が始まる
エンプラで始まった一九六八年は、また東大闘争と日大闘争の年でもあった。特に夏以降はこの二つの闘争が、全国に広がった学園闘争を凝縮したような熱い焦点となり、さらには国家権力との対峙に向けて煮つまっていく過程でもあった。
(中略)
このように東大・日大闘争ともに自分たちの置かれている状況を問いつめて行く中で、それを成り立たせている社会秩序と根本的に対決せざるをえないところにまで至っており、そのことの結果として国家権力―現象的には機動隊という形をとるわけだがーとの対決が迫りつつあったのである。
これらの事態は当然成蹊の反逆児たちにも高揚感を与えていた。その中で反戦学評は世間並みに反帝学評に改名することになり、ヘルメットも平和な空色―美濃部革新都政のシンボルカラーでもあったーから機動隊に近い?濃青色に成長した。
いなくなった人々
これと前後して、目黒は成蹊を去った。学生運動と縁のない一般の学生、とりわけ秩序派の連中にも目黒の存在が知られるようになってきたからである。僕も同じクラスの男に「早稲田の学生が社研にいるんだって?」と聞かれたことがある。僕はべつに早稲田の学生がいようが慶応の中退者がまぎれこんでいようが何の問題もないと思うのだが、チンケな学園ナショナリズムの信奉者には「外部の者」が入りこんでいることが許せないらしかった。「外部の者」を云々するなら、東大の払い下げ教授をまず問題にしたらと思うのだが、彼らにすれば武蔵野市の一学園だけは世間の風が吹かないようにしたいらしかった。
それにこの頃にはもう目黒がいなくても成蹊の反帝学評は一人歩きできるだけの力量を身につけていた。だから秩序派の間に噂が立とうと立つまいと、遅かれ早かれ目黒は労働運動に転進して行っただろう。
いよいよ目黒が去るという日にも闘争があって、僕たちは一号館前で集会を開いていた。大した闘争でなかったので集会もこじんまりしたものだった。こういう時、いつも目黒は社研に引っこんでいたと思うのだが、この日だけはみんなにまじって集会に参加していた。社研の一年生が「太陽がまぶしいんじゃないか」と言って冷やかしていた。いくつかの発言がつづいて型通りに集会が終りに近づいた頃、突然司会をしていた桶宙が、
「それでは成蹊の先輩、目黒君に挨拶をしてもらおうと思います」
と発言を促した。目黒は一瞬驚いたようだったが、すぐにアジテーションを始めた。いつもの社研の時と違って一般向けのわかりやすい内容だったが、やはり筋金入りの堂に入ったものだった。目黒の発言は全く予定にないことで、桶宙の機転よるものだった。「最後の花道」をプレゼントしたわけである。今考えてもなかなか美しい光景だったと思う。
しかし美しくない別れもあった。いや、そういう方がずっと多かった。この年には一人の活動家が心ならずも成蹊を去って行った。それは高田といって、リンゴちゃんの恋人だった。つまり僕が初めてデモに行こうと思って話しかけた男女の片割れである。僕は彼に何が起ったのかさっぱりわからないのだが、何やら思想内容に問題があるらしく、しばしば論破されたり叱責されたりしているのを見かけた。もともと高田は断固とした活動家というタイプではなく、アジテーションの時も視線を下におとし半ば目をつむって、苦吟しつつ言葉を絞り出しているといった感じがあった。そんな彼が一方的に言い負かされている光景は見ていて楽しいものではない。
高田を最も手きびしくやっつけていたのは塚本という男だった。塚本は成蹊の中では最も運動歴が長く、六五年の日韓条約反対闘争も経験しており、典型的な理論家タイプだった。彼はイライラした様子で額に青筋を浮かべ、口をとがらせながら文代の小部屋の中を歩き回り、一方的に高田に罵声を浴びせていた。高田も時には抗弁したかもしれないが、ほとんど非難されるまま椅子に座っていた。そんなことが何度かつづき、いたたまれなくなったのだろう。いつの間にか成蹊から消えて行った。リンゴちゃんも半年後には卒業して成蹊を去った。
それから七~八年も経った頃だろうか、久方ぶりに高田の噂を聞いた。それによれば青梅の方に移り住んで水商売の女性と同棲していたが、その女性に刺し殺されたという。しかし噂の真偽を確かめるすべはない。
次に消えて行ったのは、皮肉にも手厳しく高田を責め立てていた塚本だった。塚本は六〇年代半ばからシコシコと社研を引っ張ってきたメンバーの一人でもあった。体はやせて貧弱。「青白きインテリ」という言葉を現実にしたような風貌をしていた。そういうところを買われて反帝全学建の中執の一人に選ばれてもいた。六八年には成蹊大反戦学評と党派としての反帝学評のパイプ役をやっていた。しかしこういう役目の常として徐々に成蹊の大衆運動の実情にうとくなり、党派の官僚体系の一員という側面が強くなり、結果として時々成蹊へ見回りにやってくる存在と化して行ったーというのが塚本と最も折り合いの悪かった連中の言い分だった。その中の急先鋒は法経自治会の議長をやっていたMで、いつの日の会議だったか、激昂したMが塚本の胸ぐらをつかんで引きずると、塚本の貧弱な体がフワッと浮き、机をとびこえてMの方へ引き寄せられたことがある。しかしこの件についても何が論議されていたのか、どっちの話に分があるのか、僕はその場で論争を聞いていたにもかかわらず、さっぱりわからない(要するに全然聞いていなかったのだ)。
(後編に続く)
【6月4日の開催の「重信房子さん歓迎の宴」で販売された本の紹介】
『戦士たちの記録 パレスチナに生きる』」(幻冬舎)重信房子 / 著
(幻冬舎サイトより)
2022年5月28日、満期出所。リッダ闘争から50年、77歳になった革命家が、その人生を、出所を前に獄中で振り返る。父、母のこと、革命に目覚めた10代、中東での日々、仲間と語った世界革命の夢、そして、現在混乱下にある全世界に向けた、静かな叫び。
本書は、日本赤軍の最高幹部であった著者が、リッダ闘争50年目の今、"彼岸に在る戦士たち"への報告も兼ねて闘争の日々を振り返りまとめておこうと、獄中で綴った"革命への記録"であり、一人の女性として生きた"特異な人生の軌跡"でもある。
疾走したかつての日々へ思いを巡らすとともに、反省を重ね、病や老いとも向き合った、刑務所での22年。無垢な幼少期から闘争に全てを捧げた青春時代まで、変わらぬ情熱もあれば、変化していく思いもある。彼女の思考の軌跡が、赤裸々に書き下ろされている。
さらに、出所間近に起きたロシアのウクライナ侵略に対する思いも、「今回のウクライナの現実は、私が中東に在り、東欧の友人たちと語り合った時代を思い起こさせる。」と、緊急追記。元革命家の彼女に、今の世界はどう見えているのか。
定価 2,200円

『重信房子がいた時代』(増補版)(世界書院)由井りょう子/ 著
(紹介)
2022年5月28日、日本赤軍の重信房子が20年の刑期を終えて出所した。
フツーの女子大生が革命家になるまでの足跡を、本人、家族、娘、同級生らの証言を丹念に聞き取ったノンフィクション。
重信房子を通して、あの時代の熱量を再現する。
目次
第一章 戦後民主主義の申し子
四〇年ぶりの再会
戦後民主主義に育つ
父とのささやかな遠出
理科と文学に親しむ
貧乏は恥ではない
デモも貧乏も嫌い
文豪に会いに行く
夢は先生になること
第二章 学生運動の季節
大学入学
スーツで座り込み
自治会活動
政治の季節
ブントの重信
救対の重信
一〇・八
同人誌『一揆』
神田カルチェラタン
教師になりたい
大学祭
第三章 父と娘の革命
本気の革命
父は右翼
血盟団事件と父・末夫
全共闘運動
学生運動の変質
赤軍派でも救対
国際根拠地づくり
第四章 アラブに生きる
和服を着て大使館のパーティーに
山口淑子との出会い
父の毅然とした態度
父と娘
母・房子
第五章 娘に託した希望
アンジェラという名前で
メイ十六歳の誕生日
房子の逮捕
母の国、桜の国
日本、娘の日本
嘘
重信房子
高校三年生の時の小説
あとがき
もうひとつのあのころのこと
重信房子
(著者プロフィール)
由井りょう子 (ユイ リョウコ) (著/文)
1947年12月、長野県生まれ。
大学在学中から雑誌記者の仕事を始め、主に女性誌で女優や作家のインタビューを手がける。
著書に作家・船山馨夫婦の評伝『黄色い――船山馨と妻・春子の生涯』(小学館)
共著に『戦火とドーナツの会い』(集英社)ほか、
編纂に『革命に生きる――数奇なる女性・水野津太――時代の証言』(五月書房)
がある。
定価1,800円+税
『私だったかもしれない ーある赤軍派女性兵士の25年』(インパクト出版)江刺昭子/ 著
(紹介)
1972年1月、極寒の山岳ベースで総括死させられた遠山美枝子。
関係資料と周辺の人びとの語りで、複雑な新左翼学生運動の構図、彼女が学んだ明治大学の学生運動と赤軍派の迷走を描く。
目次
第一章 2018年3月13日横浜相沢墓地
第二章 重信房子からの手紙
第三章 ハマッ子、キリンビール、明大二部
第四章 バリケードの中の出会い
第五章 「きにが死んだあとで」
第六章 赤軍派に加盟
第七章 遠山美枝子の手紙
第八章 新しい世の中を作るから
補 章 伝説の革命家 佐野茂樹
(著者プロフィール)
江刺昭子(エサシアキコ)
1942年岡山県生まれ
広島で育つ。女性史研究。
著書に『樺美智子 聖少女伝説』などがある。
定価2,000円+税
『歌集 暁の星』(皓星社)
連帯の火矢! 重信房子第二歌集
(皓星社サイトより)
テロリストと呼ばれしわれは秋ならば桔梗コスモス吾亦紅が好き
元日本赤軍リーダー・重信房子が21年に及ぶ刑期を終え、この5月に出獄する。
本書は獄中で書き溜めてきた短歌をまとめた第二歌集。著者は革命の日々を、連合赤軍事件で粛清された友・遠山美枝子を、現在の世界の悲惨を、二十数年にわたり詠み続けて来た。
本書の歌は、著者のもがきと葛藤の発露であると同時に、歴史の証言でもある。
海外で暗躍すること四半世紀を超え、国内での潜伏と獄中の日々、重信は一体、この斬新で清潔な文体をどこで獲得してきたのだ。
……戦い死んでいった同志への哀悼に、柔らかな心の襞を涙で濡らし続けてきたのだろう。(福島泰樹「跋」より)
アネモネの真紅に染まる草原に笑い声高く五月の戦士ら
空港を降り立ち夜空見上げればオリオン星座激しく瞬く
雪中に倒れし友の命日に静かに小さな白き鶴折る
津波燃え人家逆巻き雪しきり煉獄の闇 生き延びし朝
パレスチナの民と重なるウクライナの母と子供の哀しい眼に遭う
定価2,000+税
【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。
●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在12校の投稿と資料を掲載しています。
http://zenkyoutou.com/gakuen.html
【お知らせ 】
ブログは概ね隔週で更新しています。
次回は7月29(金)に更新予定です。
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