今回のブログは、昨年11月23日に「渋谷LOFT 9」で開催されたシンポジウム「私たちはいま 戦争にどう向きあえばいいのか」第2部の詳細報告である。
【私たちはいま 戦争にどう向きあえばいいのか】
「ロシアのウクライナ侵略戦争」・「北朝鮮の核ミサイル」・「台湾有事」・「領土問題」」を理由にして「防衛費倍増」・「アメリカ軍との核共有」・「憲法9条改正」に世論を導こうとする日本政府。世界に蔓延する「ナショナリズムの拡大」・「軍拡」の嵐の中で「反戦・非戦・不戦」の松明を私たちは掲げることができるのか!
私たちはどのような未来を提案・創造することができるのか!
Z世代と団塊世代、雨宮処凛、全共闘が「私たちに迫りくる戦争」を徹底的に語り合う!
【第1部出演者】
●雨宮処凛(格差・貧困問題に取り組む「反貧困ネットワーク」世話人 「週刊金曜日」編集委員 「公平な税制を求める市民連絡会」共同代表)
●糸井明日香(高校生時代に校則・制服問題に取り組み、大学生時代には学費問題に取り組む 現在は社会問題をビジネスで解決する株式会社ボーダレスジャパンメンバー)
●中村眞大(ドキュメンタリー映画「北園現代史」監督 校則問題・社会問題をテーマに映像発信する大学生ジャーナリスト)
●安達晴野(ドキュメンタリー映画「北園現代史」に出演 校則問題や政治問題について発信する大学1年生)
●吉田武人(2015年安保に反対した「T-nsSOWL」に中学1年生で参加 現大学2年生)
●伊集院礼 (元 未来のための公共・2015年安保に反対した「T-nsSOWL」メンバー)
【第2部出演者】
●三宅千晶(1989年沖縄県那覇市生まれ。被爆三世。早稲田大学卒業(水島朝穂ゼミ)。弁護士。日本弁護士連合会人権擁護委員会基地問題に関する調査研究特別部会員)
●元山仁士郎(1991年沖縄県宜野湾市生まれ。一橋大学大学院法学研究科博士課程。「辺野古」県民投票の会元代表。SEALDs/SEALDs RYUKYU立ち上げ・中心メンバー)
●船橋秀人(来春から京都大学大学院生 規制緩和による非正規雇用者の増大をもたらした竹中平蔵による授業、そして実学偏重の大学に反対して抗議活動を行う 反戦運動アクティビスト)
●田中駿介(「旧土人部落」と呼ばれた地区で中高時代を過ごす。2014年「北の高校生会議」発起人。東京大学大学院生 慶大「小泉信三賞」、中央公論論文賞・優秀賞を受賞)
●前田和男(1947年東京生まれ。東京大学農学部卒。翻訳家、ノンフィクション作家)
【ファシリテーター】
●金廣志(元都立北園高校全共闘メンバー・元赤軍派メンバー・塾講師)
●安田宏(元都立上野高校全闘委メンバー・元慶應大学日吉自治会副委員長)
安田宏
みなさん、こんにちは。今日は雨のすごく悪い天気の中、足をお運びいただきまして、本当にありがとうございます。第2部は、さきほどの金さんと同い年の安田宏が進行を務めさせていただきます。よろしくお願いいたします。(拍手)
第1部の方々の話を受けて第2部に繋いでいきたいんですけれども、第1部の最初に話がされたように、この77年間、日本は戦争をしなかったし、戦争に巻き込まれたこともなかった。実質的に例えばベトナ戦争に協力していたとか、いろいろあるんですけれども、本当に77年にして生々しくロシアとウクライナの戦争の報道に接して、本当に映像が生々しいので、しかも雨宮さんの話にもありましたとおり、犠牲になるのは弱者、本当に戦っている軍人ももちろんなんですけれども、一般市民が犠牲になって命を落としたり、財産を失ったり、そういうことが起こっている、毎日のようにそういうニュースが流れる。本当に珍しい経験をこの間、してきたと思います。
今回のシンポジウムのテーマも、そういうことの中で戦争というものを、もう1回考えてみようじゃないかということだったと思います。特に、今回は報道の情報量というものがすごく多いんですね。今までの戦争、例えばアフガニスタンの戦争やイラク戦争、湾岸戦争に比べて本当に生々しい映像が衛星画像も含めて出てきます。何と言うか、プロパガンダ合戦みたいな、両方の陣営からどんどん情報が流れて、片方は相手がフェイクだと言うし、片方は本当だと言うし、そういう情報戦の要素というのを僕はすごく感じています。
それと、本当に生々しい肉弾戦ですね。目の前で戦車やミサイルの映像がバチバチ映る。これはある人が言っていましたけれど、湾岸戦争の時と違って、どちらかと言うと第2次世界大戦に引き戻されているような、そんな映像を見せられているような気がします。
その中で、さきほどの話の繰り返しになりますが、反戦運動というのはどういうことが有り得るのか、どういう力を持てるのかということを考えていきたいと思います。
特に今回は、国連の安保常任理事国でありながら、ロシアが国際法を無視して侵攻して行ったということに対して抗議するというスタンスというのは、僕は当然だと思うんですけれども、でもその前から、我々は2月24日の実際の戦闘が始まった後にニュースで知って驚くわけですけれど、実際にはロシア軍は10万人以上の兵力をすでに国境に展開していたと言われています。また、ロシア側の情報によれば、ウクライナはその前に東部のロシア系住民を虐待したり、虐殺していたという情報もあります。要するに、我々の知らないうちにそういう事態が進行していたんだなと思います。
これも一部からの意見なんですけれども、反戦運動というのが非常に政治的に偏っているとか、暴力的だとか、裏に党派がいるんじゃないかとか、そういう連合赤軍事件以降非常にイメージダウンしていて、反戦運動というものが力を持たなくなっていると言う話もあったんですけど、確かにベトナム反戦運動というのは割とクリアだったと思うんですね。とにかく米軍の北爆もひどいし、農民の村を焼き払ったり、そういう映像を観て「そもそもどうして米軍がベトナムの人を殺しているんだ」ということが、割と分かりやすい形で僕らに見えたということで、僕自身もベトナム反戦運動に関わりました。(ベトナム民族)解放戦線は善で、米軍と南ベトナムの傀儡政権は悪だと本当に思っていましたし、そういうことでやっていました。それが何故か72年の連赤事件で、運動自体が「ああいうものに関わると、碌な目に会わないぞ」みたいな話になってしまって、そんなことだったと思います。それが私の世代が言える事だと思います。
ただ一つ、ちょっとだけ話をさせていただくと、さっき(第1部で)相模原の戦車闘争の話が出ました。実は(戦車闘争で)自分が機動隊にリンチされて肋骨を折ったので、非常に恨みがありまして、あの闘いというのが、実は連赤事件の後なんですね。連赤事件が春先なんですけれども、その年の72年の夏に相模原の戦車闘争というのが戦われました。しかも主力になったのは「ただの市民が戦車を止める会」という市民運動がありまして、実際に戦車の(米国陸軍相模原総合)補給廠への出入りを120日に渡って止めました。これは国道16号線に村雨橋という橋があって、これは戦車のキャリアカーが通ると橋の重量制限をオーバーするんですよ。当時の横浜市の飛鳥田市長が重量制限オーバーで通行を禁止したわけです。ですから闘争自体が半分合法闘争という流れの中で戦われたものでした。連赤事件以降、そういう運動自体が無くなってしまうかなと思っていたら、これは本当に戦車を止めて、これが終わるのがだいぶ後になるんですけれど、実際に終わらせたのは自民党が重量制限の法律を変えてまで(戦車を)通してしまうことで収束するんですけど、そういう闘いでした。
何が言いたかったかと言うと、ベトナム解放後にベトナム政府代表団が来日した時に、「あのニュースは本当に解放戦線を勇気づけてくれました」と言われるんですね。解放戦線にいた人たちが政府の要職に就いているので、そういう代表団として来たわけですけれど、彼らが言ったということが当時新聞にも出て話題にもなりました。非常に話がクリアですよね。戦車を止めた、その戦車はベトナムに行く戦車ですから、帰ってくる時は本当に米兵の死体の血だとか人肉とかがキャタピラに付いている状態で帰ってくるようなことだったので、非常にリアルな闘いでした。いろんな新左翼諸党派も参加したわけですけど、一番大きな党派はあそこに来て、千人単位で何と内ゲバ゙をやってくれました。何もならない。
何が言いたいかと言うと、連赤事件以降(反戦運動は)無くなったように見えたけれども、実際はそういう市民に開かれた闘いというのはちゃんとありましたということを言いたいわけです。
そういう社会運動、反戦運動というものに、今回なかなか繋がりにくいというのも分かるんですけれども、そういう中で何が可能かということも含めて、皆さんに話し合ってもらいたいと思います。
田中さんから、今現在考えていることを話してください。
田中駿介
皆さんこんにちは、田中駿介です。今大学院生で戦後政治学の研究を行っているんですけれども、今非常に大きな問いが第1部そして安田さんから投げかけられました。
今25歳です。かのマルクスが「存在するすべてに容赦なき批判を下せ」と言った年齢です。
そういう立場からすると、さきほどの話だと、あらゆる国家だとか軍隊なんて無くしてしまえばいいんじゃないか、それ以外に反戦・平和の道はないんではないかと、一方ではやはり自分自身思うわけです。それは若さ故と言われてしまえばそれまでかもしれないけれども、軍隊というのは戦争を実際に起こすためにある装置、暴力装置に他ならないわけです。まずはその問題から考えていきたいと思います。
先程来、多くの登壇者が「反戦運動は暴力的である」とか、あるいは「連合赤軍を想起させるものだ」というのが前提でたぶん語られていたんですが、私はあえてここに今回の議題を設定したいと思います。
要するに暴力というのは市民が持つものではありません。国家が持っているものです。国葬問題に関して「テロや暴力に屈しないで、民主主義を守り抜くために国葬を行う」と岸田首相は言いましたが、これほどおかしいことはないわけです。つまり、暴力というのは警察であり自衛隊であり、そういう国家権力そのものであるわけですね。一方で倒錯が起きていて、運動の側が暴力的だと見なされる、これは連赤が問題だとされている。しかし、今の話のように70年代に戦車闘争がありましたし、その後、市民運動や住民運動という形、あるいは反原発、障がい者運動、ウーマン・リブの運動、様々な当事者運動がありました。このような形で運動というのは、形を変えて行われてきたわけです。
一方で、国家権力やいわゆる暴力側は、こうした運動を極力矮小化しようと常に試みてきたわけです。2001年には早稲田大学のサークル棟が閉鎖されたり、あるいはビラ撒き逮捕事件というのもありました。これは単純にメディアが作り出したイメージに留まらず、国家権力であり、様々な働きによって、社会運動というものは暴力的なんだというレッテルが貼られてきた。これをいかに解消していくのが重要な問題になってくると思います。
雨宮さんは、先ほど「連赤の呪縛とか、負の遺産というのはこの世代は無い」とおっしゃっていたけれども、私はそこは楽観的に見れないんですね。「フライデイズ・フォー・フューチャー」という気候変動の運動がありました。これは全世界的には、私もドイツで参加したことがあるんですけれども、金曜日のお昼の1時に公園に集まって、皆で学校をストライキするんですね。日本はどうしたかと言うと、金曜日の夕方5時、放課後に集まるわけです。それで、「デモじゃない、マーチだ」と、気候マーチとしてやっていたんです。要するに、デモだとかストだとか、そういったことは広まらない、嫌われると。これを僕よりはるかに若い中学生、高校生が考えているわけです。これは何故もたらされたのかというのは、やっぱり考えていかなければならないし、これに対して私は楽観的には思いません。ですから、暴力という問題は運動の内部にあったというのももちろん有り得るけれども、外部からもたらされてきている。こういうレッテル貼りをどういう風に排除していくのかという部分を、今日皆さんと議論できればいいなと思っています。よろしくお願いいたします。(拍手)
金廣志
ちょっと私の方から。時間が長いね。一つは安田さんが悪い。一つは田中君も7分喋ったらこれはディスカッションにならないよ。やはり皆さんがそれぞれ自分の意見を述べると、もうそれで終わってしまうと思うんですね。ですから、やはりここは「こういうことについて問題提起する」という形で、お互いのディスカッションを深めていっていただければと思います。
三宅千晶
三宅と申します。私は1989年、ベルリンの壁が崩壊、そして冷戦が終り、昭和が終わったという日本史的にも世界史的にも激動の時代に生まれました。
先ほど「絶対平和主義が成り立つかどうか」という議論がありましたけれども、私は絶対平和主義でして、それは生まれが沖縄、母方が沖縄、父方が広島で被爆者というところにルーツがあるんですけれども、今日は特にそこについてお話していけたらなと思います。よろしくお願いします。(拍手)
金廣志
これがいいんだよ。(笑)元山さんどうですか。
元山仁士郎と申します。先ほどのウクライナの話もある中で、今、台湾有事だということで、沖縄でまさに日米の合同演習だとかがなされていますし、辺野古の基地だけではなくて、奄美あるいは馬毛島から与那国まで、自衛隊の基地が2016年以降作られた、あるいは石垣ではまさに作られている途中なんですけれども、沖縄に対して関心がある方、行ったことがある方もいらっしゃると思うんですけども、皆さんの周りがどういう風に最近の台湾有事について見ているのかとか、あとは何故関心を持ち始めたのか、そのきっかけみたいなところがあればお聴きしたいと思っています。よろしくお願いします。(拍手)
安田宏
船橋秀人
船橋です。27歳になりました。27歳と言うと、ロック・ミュージシャンなどがだいたい26歳、27歳で死んでいく歳で、僕も立看板を立てて生きていられるような年齢ではなくなってきたんですが、大学院に入ってからカントを研究します。人間というのは、啓蒙主義ですね、必ずこの戦争という野蛮な状態は絶対克服できると僕は信じていますし、哲学はそれを証明していくと思います。
1点、さっきの第1部で「戦争はいけないということはどうも説得できない」という発言がありましたが、僕から一つ提案というか、よく言われる「現実」というものに対するクリティーク、批判原理を提案したいと思います。「現実」というのは、僕も憲法9条の意義を訴えたり、軍備縮小を訴えている中で、「そんなこと言ったって北朝鮮に攻められたらどうするんだ」とか「中国に攻められたらどうするんだ」とか「ウクライナを見ろ」と、そういった意味とセットで「現実」というのが言われるんですね。この「現実」とは何なのかというのを考えていって欲しいんですよ。
まず、ウクライナとロシアの戦争に限っては、国家と国家の戦争というものを、まるで個人と個人の戦争かのように考えるのは間違っています。というのは戦争というのは、特に近代以降、権力者が私たちのような民間人に人殺しをし、人殺しをされる、そういったことにあると思います。なので、本当の意味での現実的な解決策というのは、権力者に私たちの方で戦争をさせない、そして北朝鮮、中国を含めて世界中の人に向けて「私たち日本人は戦争をしないんだ。あなたたちを殺すつもりはないんだ」ということを訴えていくということが、現実的な解決策だと思います。恐らく彼らの言う「現実」というのは何なのかと考えてみた時に、例えば進化心理学とか、ダーウインの適者生存ですね、これを応用した議論だったり、あとは社会物理学と言って、人間とその集団を原子と分子の集まりとして見るといった、これも非常に誤った方法を前提にしてしまっているのかなと思っています。ただし、人間というのは決して物体でもなければ動物でもないですよね、そういう面もありますが同一ではありません。例えばマルクス・ガブリエルなんかは「倫理は実在する」なんて言いました。なので、社会物理学で得られた知見、進化心理学で得られた知見というのは、我々が倫理を持って利用するものであって、それに利用されるものではありません。なので、こういった意味で「人を殺すな」というのが今回よく言われますけれど、これも現実に適用された提言例法をいかに実践していくかということが必要だと思います。昔で言えば、例えば山本義隆さんが、ベトナム反戦の全学連の行動に関して「これは世界に日本の良心を示した」ということをおっしゃっていました。この「良心」というのも、立派に人間に実在する「現実」なんですね。ここから具体的な政府だったり、文化というのが立ち上がること、僕はそこに希望を持ちたいと思います。以上です。(拍手)
安田宏
前田和男
前田です。75歳です。1965年、昭和40年に大学に入りまして、もちろん高校時代から生徒会活動、日韓闘争、ベトナム反戦闘争をやっていました。僕が(大学に)入った時の一番思い出深い言葉が、「私は二十歳だった。それが青春とは誰にも言わせはしない」(ポール・ニーザン『アデン・アラビア』)この言葉に震えましたよ。それを立看にも書きました。
今日はそれで第1部の話を聴いて私が思ったのは、「平和とは必ずしも反戦とイコールではない。反戦は必ずしも非戦とはイコールではない」場合によっては不戦という言葉も使いますね。私はその上で、もちろん私は反戦運動に命を懸けましたけれど、1968年、その前年に羽田闘争に参加して山﨑君が亡くなりましたけれども、その翌年に佐世保(のエンタープライズ寄港阻止闘争)に行って、催涙液をバリバリ浴びながら、それはもう大変なんだよね。すぐ(服を)脱いだり水を被らないと(皮膚が)タダレちゃって、俺の友人なんかはそれが原因で2ケ月くらい九州大学の学館に泊まり込むような羽目になりましたけれど、いずれにせよ、そういう時がありました。命を懸けました。しかし、その中でその先にあったものは何なのかというと、イントレピッド(アメリカ海軍の航空母艦)で脱走兵が出るんですけれども、これは後で話しますけれども、要するに逃げる。これは臆病ではないんですね。私はあの時の戦いの中から逃散(ちょうさん)主義者(※)になりました。共産主義ではありません。以上です。(拍手)
安田宏
ありがとうございます。前田さんの経験によるんだと思うんですけども、最後のお言葉がインパクトがありました。やっぱり現在のロシアとウクライナの戦争でも、「一刻も早く停戦するべきだ」という話と、「もっとやれ」という人もいますし、でも何よりもロシア国内でも反戦運動が弾圧されながらも起こり始めているし、それからウクライナでも避難して逃げる、必ずしも徹底抗戦しようとする人ばかりではないので、そういう考え方というか、そういうアプローチはあるかと思います。
もう1回田中さん、お願いします。
田中駿介
今日、元山さんと三宅さんがいらしているわけで、沖縄という問題を我々はどうこれから向き合っていくことができるのかということを、やはり考えていかないといけないと思うんですね。
もちろんそれは第一には、いわゆる新左翼運動がマイノリティの問題をきちんと見れていなかったんではないかという批判というのはあるわけですね。しかし、我々の世代は果たしてどうなんだろうということも、もう一つ考えていかなければいけないわけですね。
今、沖縄反戦を主張する人たちの中に、主に2つの立場があります。
一つは、日米安保が問題なのであるから、日米安保を廃止していかなくてはいけない、共産党の場合は廃棄しなくてはいけないだし、立場によっては粉砕になるかもしれない。どちらにしろ、安保を解消していかなければならないという立場。
もう一つは、それは非現実的なものであるから、基地をいったんは本土に引き取らなければいけない、主に「引き取り論」と言われる立場ですけれども、この2つの立場があるように見受けられます。
ここにいらっしゃる方にお伺いしたいのは、このどちらに、よりリアリティのある運動を見出せると考えるのか、お聴きしたいと思います。私はやはり安保の問題を踏み込まずに、基地問題は解決できないだろうと思っていますが、一方でヤマトンチューとして、あるいは私は北海道出身なのでシャモ、和人として沖縄に対する差別を止めるためには、引き取りという考えにも一定程度考える余地があると思っているんですが、これに対して皆さんの考えをお聴きしたいと思いました。
安田宏
金廣志
今の田中君の話は、それはそれでいいと思うんです。一つ先に進んだ話だと思うんですね。先ほどの元山さんの方から提起された、元山さんは沖縄の人間として、要するに皆さんが沖縄の基地問題、基地問題というのは二重性があるんですよね、歴史的な問題と結果から物を言われている問題がある。このことについていったん先に話してから、それから田中君が言った問題に踏み込んできて、より本質に入っていけるかなと思いました。
田中駿介
安田宏
そうですね、今の話ってとっても大事だと思うので、僕の聞いている限りでは、沖縄の人たちの意識というのは基地反対であると。何で自分たちだけに押し付けられるんだということですね。それで安保破棄は原則としてあれなんだけれど、それは多少時間がかかるんじゃないかということで、そういう話が出てくるので、僕ではなくて元山さんの意見を聴きたいです。元山さんどうぞ。
元山仁士郎
今、金さんがおっしゃった、何故関心を持ち始めたのかというところは後回しにして、「引き取り」なのか「安保破棄」なのかというところをまず話すということでいいんですかね。
私は1991年の生まれです。2019年に行われた県民投票に「辺野古の県民投票の会」の代表として関わっていたりだとか、(2015年の)安保法制の時はSEALDs(シールズ)という団体をやっていたりしました。特に県民投票が終わってからそろそろ4年が経とうとしているわけですけれども、辺野古の基地建設というのは日々進んでいるわけですね。もちろん技術的、物理的に軟弱地盤というのがあって、埋め立てがそもそも日本の技術では出来ないとも言われていますし、埋め立てられて基地が出来たとしても、離着陸だとか、あるいは震度1とか2の地震があった時にも崩れてしまうのではないかとか、いろんな事を言われているわけですけれども、(基地建設は)進んでおります。
私としては、県民投票が終わってから100回以上講演会などに呼ばれて、北は北海道から南は鹿児島まで行きましたし、もちろん行っていない都道府県もありますけれども、話をしているんですが、なかなか伝わらないなと思っています。玉城知事も先日、広島でトークキャラバンと言って、トークの企画をやって、「辺野古の基地だけでなく日米地位協定のことを含めて考えて欲しい」ということを訴えたりするわけですけれども、なかなか難しい。沖縄県外の人の良心とかに訴えるだけでは厳しい。「(基地問題を)考えて欲しい、皆で立ち上がって変えて行こう」と言い続けても、なかなか変わらないかなと残念ながら思っています。
「引き取り論」だとか「安保破棄」で両方やったらいいんじゃないかと思いますし、それぞれで、別に私もどういう運動があってもいいと思いますし、それぞれで頑張っていきましょうという感じなんですけれども、何か運動論というよりか、最近は制度論というか、アファーマティブアクション(積極的格差是正措置)みたいなものが、特に沖縄の米軍基地については必要なんじゃないのかなと思っています。
自分自身もやりながら考えていることですし、誰かと一緒にやっているというわけでもないんですけれども、例えば米軍専用施設、米軍基地が70.3%あるわけですけれども、国会で法律を作って、過重負担しているということは防衛省も認めていることだし、日本政府も認めていることなので、これを減らしていきましょうということは岸田首相でさえも言うわけですけれども、そうであれば例えば年率3%の米軍基地を返還させるというような、法律で設定して、それに向けてアメリカと交渉していく、もちろんその時に共同使用というような取引もやられるかもしれないですけれども、法律を定めても、それに向かって努力をするという制度を作って何かをやっていくことでしか、恐らく米軍基地は減らないだろうと思っているので、その時にどういう運動があればいいのかということだと思うんですけれども、辺野古の基地もそうですけども、普天間基地を魔法のように消すというわけにはいかないので、必ずどこかに行くんですよね。普天間基地自体も山梨とか静岡とか大阪からの移転で出来ている基地なので、普天間基地をどうするのかと言った時に、どこかに行くわけですよね。じゃあグアムの方だったらいいのかと言ったら、グアムの方でもチャモロ人というマイノリティーの人たちがいるわけだし、かなり難しい。じゃあ沖縄でということもまた難しいわけで、アメリカ本国に移すというもがもしかしたら一番妥当なのかもしれないですけれども、それは出来ないということであれば、暫定的に他の米軍基地なり自衛隊基地にというようなことを思ってしまいますけれど、それでも終りではないですし、その後も考えていく必要があるんだろうなと思います。
目指すべきは、私としては、一人ひとりの人権が守られる社会みたいなものが最終ゴールだと思っているので、そうなると軍隊のこともそうだと思いますし、日米安保ももちろん無くなっていくというような方向にはなっていくと思うんですけれど、残念ながらどうしても一足飛びに行く話ではないと思うので、今の時点では「引き取り論」という議論も当然していくべきだと思いますし、沖縄の基地について多くの人が考えて議論するという方向になればいいなと思っています。
金廣志
金廣志
元山さんが1991年生まれだというお話だったので、1991年というと、俺が太田昌秀の知事選挙に応援に行った年だなと思ったんですね。当時現職の西銘順次は3選目を目指して優勢ということで、地元の毎日新聞に聞いたら2万票差があるということだったから、勝手連を作って、結局ひっくり返して勝ったんですけど、勝った自慢話は置いておいて、太田昌秀さん自体は基地を絶対なくしたいという強い思いはあったんだけれども、その時に沖縄の庶民はどうだったかと言ったら、それはなかったんです。それは当然なんです。米軍基地があることによって生活できる。だけどそれは本末転倒の話なんです。最初から(基地が)あったわけではないからです。百田尚樹みたいなのが「普天間にはもともと人が住んでいなかったのに、後から人がやってきた」という出鱈目な話もしていましたよね。そういうことも含めて、沖縄の人に聞いたことがあるんですけれども、沖縄の人は言わないんですよ。これは見事に本音は言わない。その辺のことも、元山さんや三宅さん、親御さんの体験を含めて、沖縄の本音は何なんだと言ったら、一概には答えられないと思うんですけれども、本当に行きたい道って何、みたいなところもどこかで感じるところがあるんじゃないでしょうか。
三宅千晶
私が沖縄の代表の声とかでは全然ないんですけど、今の台湾有事の関係で言うと、「また沖縄県民皆殺しでいいんですか」みたいなところがやっぱりあって、「ふざけるんじゃないよ」と正直思っているところです。だから、先ほど本土に行けという問題なのかとか、安保の問題なのかとか、そういう二者択一の話でもなくて、とにかくそこで生活している人たちが、そんな難しいことを考えられるわけがない、安保の問題とか言ってもなかなか難しいですし、感覚としてなかなか言えないところもあるのかなという気がするんですけれど、だから「どうですか」と言われてもなかなかうまく答えられないけど、やっぱり選挙の結果に出るとうのは、正にそこにあるのかなという気がしていて、土地も取られて戦地に行かされてたくさん人が死にました、でもそもそも沖縄は沖縄県というところではなかったところから支配から始まって、そういう流れでまた同じ事を繰り返すんですかというのは正直なところあって、沖縄を代表して話をするわけじゃないですけど、当たり前ですけど皆さん死にたくないですよね。また、その基地があって、ここが攻撃されるかもしれないところに住んでいる私たちのことを、もっとちゃんと考えてくれよというのが、私の正直なところではあります。
金廣志
僕自身は、自分の叔母さんが沖縄の人と一緒になっていて、浦添に住んでいたりして、沖縄に結構長いこと行ったりすることもあるので、そういう経験も含めて言っているんですけども、だからこそ田中君の話がそれに繋がってくると思うんだよね。
要するに金さんは、田中はどういった問題意識なんだと。ここは非常に重要な問題で、先ほど私がお話したように、北海道の旭川という町に生まれて、正に基地の隣ですね。旧第七師団というのがありまして、沖縄戦では、これはよく知られた話だと思うんですが、平和の礎を見に行くと、沖縄県民の数の次に多いのが北海道の人なんですね、地理的には逆だけど。あるいは日露戦争、203高地の戦いで数多くの戦死者を出しているのが旭川の第七師団です。
要するに北と南は最後に捨て石にされるんだみたいな意識の元では育ちました。その一方で、和人という立場であって、アイヌの人たちの土地を私たちが奪ったんだというような、そういった加害者意識という、この両面性、両義性がある中で反戦運動に関わっていったというような立場です。
ですから沖縄問題も、正にアイヌであったり、さまざまなマイノリティの運動と連帯していく余地があるだろうと思っています。その上で、「引き取り」か「安保反対」かというのは沖縄に問うべき問題でもないと思っているんですね。これはやはり本土、ヤマトンチュの側がしっかり向き合っていかなければいけない。その上で、私の可能な一つの提案は、「東アジア平和共同体」、これが一番現実的だろうと思っています。それは、私はドイツに行っていた経験があるんですけれども、冷戦が終結したことに伴って、広い米軍基地が返還された。そこはバーデンバーデンという温泉地にあるんですが、私はそこを見に行きました。今はショッピングモールがあって、民間用の空港になっているんです。先ほどファシリテーターの方から、首里のあたりは基地がなければ食っていけない人がいるんだ、そういう話もありましたけれど、むしろ今明らかになっているのは、基地は最大の経済阻害要因になっているんだと。そこが民用に転生すれば、ショッピングモールが出来たりだとか、新たな施設が出来て雇用も生まれていくわけですね。そういったことをするためには、冷戦が終結すれば基地が帰って来たわけだから、台湾有事なんて言ってないで、いかに中国と対話をして、東アジアでEUのような形で平和共同体、そこにはもちろん歴史的和解が必要です、日本の歴史的清算が必要です、これが出来ないかということを模索すべきだと私は考えています。以上です。
安田宏
ありがとうございます。今「東アジア平和共同体」というすごく大きなテーマを出していただきましたけれども、これは第1部の方の話でも外交と戦争とか、どういう風に平和を追求していくのかということで出たテーマに重なってくると思うんですけど、例えば中国と対話とか、今のロシアのプーチンとの対話とか、外交上うまくやっていけばそれにこしたことはないんですけれども、どうも非常に難しいのではないかと僕は思うんですね。
というのは、今回ネット上では、ロシアのウクライナ侵攻についてロシア擁護派とかウクライナ擁護派とかいろいろいるんですけど、結局ロシア擁護派というのはプーチンの言っていることは正しいと、この間の演説はすごく立派だったと、新しい多極化した世界をどうこうするんだとか、そういう風な話というのが延々とされるんですね。でも、日本の主要なメディアは、ロシア擁護派はいないです。中国擁護派もいないです。中国とロシアは善でアメリカは悪だとなっていますから。日本のメディアは逆なんですね。それは僕は当たり前だと思うんですよ。当たり前というのは、メディアがいいとか悪いとかではなくて、もしも新聞に政府批判とか書いたら禁固15年とか、そういうのが待っているわけですよ。だから、そういうところを逆にメディアが擁護するはずがないので、それは当然だと、そういう国との対話というのは、果たしてどういう風に可能なのかというのは、ちょっと難しいなと僕は思います。
すみません、僕が喋ってもしょうがないので、前田さん、今のお話を聴いていてどうですか?
冒頭、逃散主義ということを言いましたけれど、結局、これは国家論の問題だと思うんですよね。今ここで議論されているのは、日本は一つだよという風に皆さん前提にして喋っているわけで、かつて我々が20代の頃の沖縄闘争もそういう議論がありました。沖縄独立論は右からの議論であったんですけれども、むしろ左翼的議論であっていいと。別に独立と言っても、沖縄が一つとして独立するんじゃなくて、沖縄の中に二つ三つのある意味では多重社会、私たちはあの時の議論で、今日中核派の元大幹部も来ていますが、かつて私もよく論争はしましたけれど、結局日本の中に逆に言えばたくさんの社会を創っていくと(多重権力社会)。外交関係もそういう形で作らないと、鳩山が言っている「駐留なき安保」を前提にした「東アジア共同体」と言うのは空疎なんですよ。実際、台湾は一つだ、日本も一つだ、中国も一つだ、それではとてもじゃないけれども平和構築は出来ないだろうと思うんですね。
結局これは「反戦でも不戦でもない非戦なんだ」と。それは宮沢賢治が(『雨ニモマケズ』で)言っている、「喧嘩をしたら、喧嘩は馬鹿々々しいから止めろと言って帰る」わけですよ。これなくしては、基本的に平和は構築できない。それをどう担保するかということだと思いますね。
僕は前田と言いますけれど、加賀百万石の末裔ではありませんが、かつて前田家は戦国時代が終わって加賀と能登をもらったんですよ。ところが3年間まったく治めることが出来なかった。3年間百姓は稲を植えるんだけれど、刈り取る手前で皆逃げちゃう。繰り返し3年やって、何故かというと、当時3割くらいの増税になったんですね。何故かと言うと秀吉が朝鮮に出兵して、正に戦争ですよ。前田家としては何とかご奉公しなければいけないから百姓をいじめるわけですね。そうすると、元々一向一揆の強いところだから百姓は頭に来て居なくなっちゃうんですよ。つまり完全に人がいない。前田の殿様は何度も謝って、とにかく帰ってきてくれと、その時に日本全国にもう一つの国があったんですね。だから3年間逃げられた。だから言い過ぎかもしれないけれども、沖縄だって基地が嫌だったらみんなで逃げる、ウクライナも逃げる。ウクライナの恐ろしいところは男は逃げてはいけないわけでしょ。皆逃げればいいんだ。だから逃げてしまって3年4年、世界中で私たちがアジール(避難所、逃げ場)を作って、そこで彼らを受け入れれば、根を上げるのはゼレンスキーでありプーチンだと思いますよ。そういう例は過去にも日本だってあるわけだから、そういうことをすべきだと。
私からもう一つ言わせていただくと、何故逃散主義かと言えば、私も実力闘争、先ほど佐世保(闘争)の例を出しましたけれど、あと羽田でも闘いました。ゲバ棒を持って戦って、これで日本を変えられると思ったんですが、その時に私たちが馬鹿にしたグループがいたんですね。ベ平連です。その時に、イントレピッドという空母がベトナム(戦争)の飛行機を積んできた。もちろん僕らは反対しましたよ。その時に、イントレピッド゙から4人の兵士が逃げたんですよ。それをかくまったのがベ平連の人たちでしたね。僕らは馬鹿にしていた。あいつら平和主義者でとんでもない。それが逃げて逃げて、皆でかくまってスエーデンまで逃げました。その結果、その頃は臆病者だとか叩かれていた。ところがこれがだんだん輪が広がって、アメリカに兵役拒否運動が起きて徴兵制が終わって、50万60万といわれる人たちが徴兵カードを捨てたわけですね。その結果、ベトナム戦争が終わったんですね。結果的にイントレピッドのたった4人、それをかくまった日本のベ平連という軟弱な人々が実はベチナム戦争を止めたと僕は後で思いました。だから、逃げた兵士は偉い。逃げるのが大事ですよ。逃げるのが決して臆病者ではないんだと、逃げることをどうやって僕らは現実に起きていることの中で担保していくのか、これを真剣に考えなければいけないと思いますね。(拍手)
安田宏
どうもありがとうございます。とても為になる話でした。やっぱり反戦と言ってもいろんな形があるわけで、さっき僕も相模原の話をしましたけれど、市民運動の可能性というか、そういう意味でベ平連というのは、大きな足跡を残してくれたと思いますので、今の話も身に沁みます。
さっき前田さんがおっしゃっていた「絶対平和主義」「逃散主義」というのはすごく共感します。伝統的な左翼というと血の気が多くて「戦うぞ」というのは、もちろん僕もそれを潜って来た人間ではあるんですけれども、例えば左翼の最近の議論ですと、ラディカル・デモクラシーというのは非常に敵対性ということをすごく強調しますよね。でも今回の戦争に限って、僕はそれはあまり良くないんじゃないかと思っていて、人間同士どうやって和解できるかということを考えた時に、どうしても人間が普遍的な価値を持っていて、絶対に人を殺してはいけなんだということを前提にしなければいけないわけですよね。そういった意味で一つの方法論として「逃散主義」とか、「戦わない」というのは必要ですし、国家というのは、大したものじゃないということを再確認する必要があるんじゃないかなと思いました。以上です。(拍手)
金廣志
僕の方からもう少し三宅さんにお話しを伺いたいと思うんですけど、三宅さん自身は法律家という鎧もありますし、法律家ではない個人としての鎧もありますし、あえて言えば被爆三世であり、沖縄の出身であるということで、それはある意味では法律家として違和感みたいなものを抱えながら生きているのかなと思ったんですね。
三宅千晶
なかなか難しいお話ですが、私は弁護士をしておりまして、あまり司法に期待をしていない部分もあって、ただ石を投げ続けないと、この国というのは歯止めがきかなくなって、思いもよらぬ方向に、私たちが絶対にそこに行ってはいけないという方向に行ってしまうので、司法というのはとにかく石を投げ続け、声を上げ続け、「正しさ」というのは相対的なものなんですけれども、それぞれの個人が考える「正しさ」というのを投げ続ける場所であるということは、一つ存在する意義はあるのかなとは思っています。
先ほどお話があったように、法律というのは、こうならなければいけないし、こういう風にあるんだから、こう解釈できるはずだとうのはやはりあるんですけれども、それがなかなか正しい方向に、本来あるべき方向に解釈されないということは、特に基地関係の問題についてはありまして、支配の及ばない第三者であるとか、こういう風に書かれているんですけどというのも国はそう判断しなかったりとか、いろいろあるので難しいところではあると思っています。
金廣志
今、三宅さんの生き方みたいなところまで踏み込んで聞いてしまったんですけれども、それは置いて、三宅さんはヨーロッパの米軍基地について調査に行かれていますよね。それは三宅さん自身が沖縄の出身者でもあるということも含めて、積極的に行かれたのかなと思うんですけども、その中で沖縄の置かれている位置みたいなものを、どのように思われたのかということをお話いただきたいと思います。
三宅千晶
日弁連の基地部会というところに所属していて、その関係で2018年にドイツとイタリアの基地調査に行ってきました。その中で日本と全然違うのは、ドイツについてもイタリアについても、自国の法律が適用されるんだというところが一番大きなところであって、他方で日本の方は、外務省がホームページで「一般に米軍には日本の法律は適用されません」という結論を導いているんですけども、「一般に」という言葉がどういう意味を持つのかというところについて、この間外務省と防衛省に日弁連の意見書を持って行った時に話を聴いてみたんです。そうしたら何と「一般国際法というのは具体的にどういうことを指しているんですか?」と聞いたら「一般法とか一般的と外務省が使用している時は、国民の皆様により分かりやすくするためです」と。つまり「一般に」ではないんですね。分かりやすくするために「一般に」を付けているけど、「一般に」ではない。日本の方は、国というのをどう考えるかということはもちろんありますけれども、そこに住んでいる個人の人たちの利益を守るためにこの国は動いていないんだな、というのはすごく感じたところでして、ドイツとイタリアの話に戻ると、イタリアで元総理の方に話を聴いた時に、やはり「沖縄県民の生命を危険にしているという状況を、ちゃんと日本政府が理解しないといけない」ということをおっしゃっていて、そこが日本においてはドイツとかイタリアと違って、欠けている視点ではないかと思いました。
元山仁士郎
追加でいいですか?沖縄の基地問題というは何で生じているのかというのを、国会答弁とか政府側の言い分だったり、元防衛大臣など関係者の方たちの言い分としては「本土の理解が得られないから沖縄なんです」ということなんですよ、一言で言えば。これは安倍元首相も2018年に答弁していて、「今までいろいろやってきたんだけど、本土の理解が得られないから沖縄なんです」ということなので、そういう意味でたぶん日本政府が言っている「一般に」というのは「日本国民の人たちが」というところと、そう思っているんだろうからそうなんですというところと、沖縄というのは、先ほどの「本土の理解が得られない」というのは、恐らく通じる部分があって、つまり沖縄の人たちがどれだけ訴えたり頑張ってもどうしても変えられないんですよね、99%と1%の人口比ですから。ですからやるべきは皆さん自身が考えたり勉強することはもちろんですけれども、それをいかに本土側で、ヤマト側で広げていくかということが、恐らくこの地位協定の解釈もそうだし、沖縄の基地問題をちょっとでも解決して行こうという方向になると思うので、そこがものすごく課題なのかな。その時に、「引き取り論」でも「安保破棄」でも、議論を広めていくことだったり考えること、これは自分たちのところで引き取れるのかとか、それはできないだとか、そういう議論、それを考える機会、表明する機会が圧倒的に少ないから(沖縄の基地問題が)放置されているところなんじゃないかと思いますね。
金廣志
金廣志
皆さん、思いません?今、元山さんのおっしゃっていたことは、全くそのとおりなんだよね。沖縄の人は多数派であろうが少数派であろうが、自分たちの歴史的経緯を訴えても、自分たちでは解決できないんだよね。だから、それはたぶん外の人が沖縄について、古い言葉で言えば連帯だけれども、そういう運動をしていかなければ、あえて言えば沖縄の自立すらないということです。
ただ聴いて終わったじゃなくて、何かここから少し始めましょうよ。元山さんや三宅さんが中心となって、我々がお手伝いできることはやっていきましょう。
<最後に一言>
安田宏
ありがとうございます。
前田和男
第1部の議論を聴いて感じたところがありましたけれども、なかなか意義深い話があったと思います。私がちょっと違うなというか、私たちが誤解を解いていないのが問題だと思うんですが、実は私たちの運動も決して最初は盛り上がりませんでした。要するに皆さん、10・8羽田闘争とか佐世保闘争とか全共闘運動のことを思っているから。当時一橋大学で生徒が2,700人で、2,000人がデモに行ったし、私の居た東大でも、最盛時は民青と私たちと一般学生の3分の2くらいが何らかの形で運動に関わったわけです。その数を積算すると、たぶん50~60万人はいたわけです。そこまで盛り上がった。しかし僕が入った昭和40年、その前に山本さんが入られていますけれど、安保闘争の後はペンペン草も生えていないんですね。私は学生運動をやろうと思ってあの大学に入りまして、寮がキャンパスの中にあるんですが、朝は正門前で一生懸命マイクを持ってアジテーションしてビラ撒いてクラスに入ってやりましたし、昼間は寮の前でアジテーションして、それだけやっても、東大から私と一緒にデモに行ってくれる人は10人もいないんですよね。中央とか明治でも40~50人、全都で動員して大きいところで200~300人ですよ。それがずっと続いた。その後、全共闘の前の三派全学連をやっている中で、ベトナム反戦闘争や全国の学園闘争と結びついたわけです。ですから、我々も最初から大盛り上がりであったわけではない。これは是非今の20代の人も知ってもらいたいし、だからそういうところから作るしかない。
それからもう一つ面白かったのは、第1部で言っていた、僕もそうだなと思うんですよ。「おっかないオッサンとかオバサンがでなくて、キャラが立っていないとダメだね」そのとおりで、私たちの運動が盛り上がった理由の一つはそれですよ。早稲田大学で言えば、大口(昭彦)さんという非常に尊敬する人がいて、「大口さんのためなら頑張るか」とか、グループが違っても、ヘルメットの色が違っている同志社大学の藤本(敏夫)とか、カッコいいわけですね。今日は白いヘルメットの人が来ていますが、別の党派ながら秋山勝行もなかなかカッコよかったですよ、何か迫力があって。そういうキャラが立っている奴がたくさんいたね。女性もいました、ゲバルト・ローザとかね。つまり、そういう人をどうやって生み出していくかということだと思うんですよ。悲惨なこともありました。しかし、あの時に輝いていた人たちを是非皆さん、「こういう奴がいた。行けそうだな」ということを継承していただきたい。
もう一つは、過去の悲惨な、もちろん大事ですよ、原爆の語り部は大事、しかい成功体験を語らなければ駄目だ。僕らもいくつか勝っているんですよ。全共闘で勝ってバリケードを解除した例もある。それは是非、こうすれば勝てます、こうすれば部分的勝利はあるんだということを私たち自身も語らなければいけなし、下の世代の人たちも、うまくいったケースもあるんだと、そこから学ぼうぜ、としてもらいたいなと思います。
安田宏
ありがとうございます。
とても熱いお話で、今のお話はすごく大事で、バタフライエフェクト(非常に小さな出来事が、最終的に予想もしなかったような大きな出来事につながる)という言葉がありますけれど、気候変動のことだって一人の女子のストライキから始まっているし、今おっしゃった通り、全共闘運動とか左翼運動って団塊の世代が皆が皆やっていたよう思われがちなんですけど、実際はほんの数パーセントだし、当時の大学への進学率とかいろいろ考えると、本当に一部の人の運動が広がって、跡を残していったんだと思います。
そろそろ第3部の討論に移りたいんですけれども・・・。
金廣志
田中駿介
じゃあ最後に。もう一つ、最後に改憲の話をする予定でしたね。今、岸田政権が行おうとしている法改正とかを考えると、憲法9条を改正せずとも、憲法9条改正以上の変革をもたらそうとしている。本当に戦争が出来る国にしようとしている。例えば、軍事費を2倍という話もありましたけれども、米軍と自衛隊の指令を統合する、そういう役職を作るという話もありました。あるいは武器をついに輸出させることを可能にする法改正を行う方針、これはだいたい日経新聞に載っていた記事で、あまり話題にならなさそうなところにアドバルーンを揚げて世論を見ているわけだけれども、安倍政権の時みたいな反対運動が必ずしも今起きていない状況になっている。つまり改憲だけを議論するのではなくて、15年安保の時もそうでしたけれども、解釈改憲のような、形を変えて「ステルス改憲」と私は呼んだらいいのかなと思いますけれども、こういった戦争の動き、正にこのまま行くと台湾有事とか言いますけれども、要するにこれは米軍が自衛隊を下請けにするということですから。あるいは日本人の生命、沖縄人たちの生命をある意味人質にして、米軍に差し出す、アメリカに差し出すことに他ならないわけですから、こうした動きも私たちはしっかり注視していく必要があるかなと思います。以上です。(拍手)
安田宏
ありがとうございます。
<大谷行雄氏からのメッセージ>
本日、本会に全国から集まられた友人、知人、元同志、諸先輩の皆様に感謝の意と連帯のメッセージを、遥か離れた中東のアラブ首長国連邦ドバイから送りたいと思います。
特に、小生のSNSで誘われて来られた諸氏には小生の不在を心からお詫び申し上げます。本会に合わせ何とか一時帰国を試みたのですがどうしても叶わず参加を断念せざるを得ませんでした。
思えばほぼ半世紀前、当時若者だった我々はベトナム戦争を対岸の火事と思えず、単なる倫理的な嫌戦・反戦運動から戦争加担者となることを拒否、さらに反帝国主義・人民解放戦争の支持、それら諸悪の根源である社会の変革を目指して闘ってきたのですが、今それを我々自身が成功と失敗の総括をしつつ若い世代に継承し、ロシア・ウクライナ問題を始め日本隣国の台湾危機や北朝鮮問題、中東に於けるパレスチナ人民の闘いや湾岸諸国間の宗教がらみの戦争といった現在の危機的な国際情勢において、老若男女問わず戦争と社会について語り合える機会を本日ここに持てたことを心より嬉しく思っています。
それを自らの重病と闘いながら果敢に企画推進してきたキム(金廣志)同志と、それを支えてくれた安田君ほか2・11実行委員会の仲間と若者たちに改めてここに感謝と敬意を表したいと思います。
さらに、それに共感・賛同し本日ご参加いただいた、山本義隆氏、前田和男氏、水谷保孝氏、足立正生監督をはじめとする我が諸先輩の皆様方、誠にありがとうございます。
本会が参加者皆様にとって実りある会とならんことを心から祈念いたします。
最後に、ブラックパンサーパーティのスローガン、All Power to the People! Power to Revolutionize the World! (全ての力を人民に!世界を革命する力を!)をもって連帯の挨拶とします。
アラブ首長国連邦ドバイより 大谷行雄
以上です。
金廣志
(第3部に続く)
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【お知らせ その2】
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