野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2007年12月

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写真は高倉健である。今回は前回の「替歌その1」の続きであるが“任侠”の話。
前回紹介した「戯歌番外地」。この本の替歌には各大学の名前が出てくるが、その中で唯一明大の名前が出てくる替歌がある。その替歌と解説を引用する。

「網走番外地」

1 ポリにポリに追われし全共闘
  デモすりゃ殴られパクられて
  どうせ俺らの行く先は
  その名も東京警視庁

2 はるかはるか彼方にゃ機動隊
  黒や銀のヘルメット
  石をはがします投げてます
  その名も日大全共闘

3 ポリにポリに追われしこの駒場
  ゲバやれゲバやれゲバぐれて
  どうせ俺らの行く先は
  その名も警視庁公安課

4 スタだスタだ社民だとけちつけて
  自分は日和るよ官憲に
  姓は反帝名は反スタ
  その名も革マル全学連

5 追われ追われこの身を明大( 砲
  かばってくれた可愛い娘
  聞かせてやりたや やけ総括
  今のブントにゃままならぬ

6 はるかはるか彼方にゃ機動隊
  空にゃ真赤な旗の波
  国会突入叫んでます
  その名も反帝全学連

7 ゲバ棒ゲバ棒片手に殴りこみ
  マスコミ嵐を肩で切る(◆
  10・8精神()胸に秘め
  その名も中核全学連

8 馬鹿を馬鹿を承知のこの封鎖
  「民主的」教授会に背を向けて
  無理に笑ったゲバ学生
  その名も都立大スト実連

9 ドスをドスを片手に殴りこみ
  革マル殺って男泣き
  どうせ解放の行く先は(ぁ
  その名も東京拘置所よ

【解説】全国学園闘争のなかで、この「網走番外地」の替歌が厖大に生まれた。1.2番は日大、3番は東C(注1)、4~7番は反帝学評(早大か?)(注2)、8番は都立大、9番は横国大の社青同解放派の作。
元歌「網走番外地」(歌詞は省略)(注3)
。院Γ隠検腺隠弘妥直詬郛觚紂入試強行の旗印を掲げた全国諸大学城の旧城主どもはキドー隊なる援軍を得て、各城を奪取していた匪賊全共闘一派を追い出しにかかった。
城を追われた匪賊どもは明大・中大の学館城に身を置いて報復の策を練っていた。
△覆砲というと記者会見をやり、写真うつりのよい大旗を持って突入する「社会問題化路線」を皮肉っている。
10・8精神―67年10・8羽田弁天橋で死力をつくして空港突入闘争を闘い抜いたあの精神。「中核魂」ともいう。
い匹海離札トにもヤクザチックな血は流れているが、解放派の場合、明大全学反帝学評がその旗に“任侠道”と大書し傍らにサイコロを2つ書いていた。セクトの旗としては珍しいものだった。

以上、「網走番外地」の元歌の歌詞を除き原文のまま引用した。

この替歌にあるように、1969年、明治大学の学生会館には各大学を追われた全共闘部隊が駐留していた。御茶ノ水の駿河台学館には日大、中大、青学・・・、杉並区の和泉校舎学生会館には日大文理、東C・・・。

手元にある1971年のメモを見ると、駿河台8号館(旧学館)の部屋の利用者リストには「日大理工」「中大救対」「中大小川ゼミ闘争委員会」「日大二連会」「立正大RRHC」という名前が見える。
明大学館は神田駿河台地区の学生運動の拠点として利用されていたということである。学館解放闘争をしていた我々も、他大学の使用は全然気にしていなかった。むしろ神田地区の拠点として利用してもらいたいと思っていた。

い砲弔い董¬逝臍干愴芯覲愽召脇販反帝学評とも言われており、明大の社学同も党派は違っても評価していた。(1969年当時の明大社学同も理論より行動という人が多かった。)
1969年に和泉地区反帝学生評議会が発行したアジビラのタイトルには「仁義」の文字。
仁義シリーズNo1として、ビラの冒頭に「左翼の仁義とは、伴に闘う中で男命を革命にかけることである 北島三郎」と書いてある。(リンクの「明大全共闘・学館闘争・文連」の「アジビラ」の項目を参照)
当時の明大反帝学評の顔ぶれを思い出すと、外見上ヤクザ的な感じの人はいなかったと思うが、明大のML派(注4)にはフランケンというあだ名の男がいて(フランケンシュタインのような風貌だった)本当に左翼かと思いたくなるような強持ての男だった。全共闘の会議でも他党派に恫喝発言をしていて、都内の有名なヤクザ組織に属していると噂されていた。

右翼も左翼も紙一重といわれているが、ヤクザも左翼も紙一重。正確に言うと暴力団ではなく、高倉健の映画に見られるヤクザ=“任侠”の世界とシンクロしていたのだろう。

(注1)東C:駒場にある東大教養学部のこと。

(注2)反帝学評:反帝学生評議会の略。青ヘルメット。

(注3)網走番外地:高倉健主演の東映映画「網走番外地」の主題歌。元歌の歌詞を知りたい方はインターネットで調べてください。

(注4)ML派:日本マルクス・レーニン主義者同盟。学生組織として学生解放戦線(SFL)があった。赤に白のモヒカンのヘルメット。



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大学のバリケードの中は落書であふれていた。
当初の落書は闘争のスローガンが中心だったのかもしれないが、次第に替歌や学生運動の日常を書いた落書に取り囲まれていった。そんな全国の大学のバリケードの中から替歌を蒐集した本がある。

「戯歌番外地」-替歌にみる学生運動―(注1)
 野次馬旅団 編
 装丁:赤瀬川原平
 1970年6月15日 第1版発行

この本を編集した野次馬旅団の実体はよくわからないが、赤瀬川原平さん(注2)の紹介文によると都立大学の学生達のようである。そういえば1971か1972年の都立大学の学園祭のテーマがBeatlesの「マジカルミステリーツアー」にひっかけて、「ドジカルヒステリーツアー」というもので、都立大学にはずいぶんと洒落っ気のある人がいると思ったが、この野次馬旅団の流れを引き継いでいたのかもしれない。

私も当時、朝日ジャーナルという週刊誌に掲載されていた赤瀬川原平さんの桜画報を読んでいたこともあり、1971年に「野次馬新聞」というビラを作った。(リンク先の「明大全共闘・学館闘争・文連」のメニュー「伝説の野次馬新聞」参照)
同じ野次馬同士ということで、野次馬旅団には親近感を覚えますね。
本の発行日も1970年6月15日、70年安保の日ということで、こだわりが随所にみられ、うーむ脱帽。

巻頭言には「60年代学生運動を担ったすべての同志諸君に捧げる」とあり、1960年代の替歌、約100編が掲載されている。
替歌には解説がついており、替歌の背景となった当時の学生運動の状況との関係がよくわかる。
替歌がどんなものなのか知るために、この本から日大全共闘関係(注3)の替歌1編と解説を引用してみたい。

「日大闘争時代」(元歌は「学生時代」)(注4)

立看の連なる並木で アジビラを配った日
デモ多かりしあの頃の 思い出をたどれば
なつかしいミンの顔が ひとつひとつ浮かぶ
重い旗ザオかついで デモったあの頃
下高井戸 御茶ノ水 神田三崎町
なつかしいあの頃 日大闘争 

【解説】
万余の大衆が古ダヌキ体制のカラクリに怒り狂って白山通りを埋め尽くしたスバラシイあの頃の歌。
日大の教授連の部屋にはエロ写真、エロ本の山。肩書きがつけばつくほど質量ともに増していた。もしかすると日大の先生様の位はエロ本の収集量で決まっていたのかもしれない。粋な教授もいたもんだが、エロ本を奥さんに隠れて読めなくなったからといって「バリスト反対」などというと、恐妻家ぶりがバレてしまうだけ。
最初は全共闘にいた民青はムッツリスケベなのでエロ本の山を見ると、そらぞらしいツラして逃げ出してしまった。
この歌は芸術学部と並んで日大教授の影響を素直に受けて、それからの全共闘運動を乱しに乱した(?)文理学部闘争委員会銀ヘル部隊の歌。

以上、原文のまま引用した。

この元歌「学生時代」という歌は「学連時代」という替歌にもなり有名である。社学同作といわれており、私も当時知っていた。明大が社学同の拠点校の1つだったからかもしれない。こちらの方は3番まで替歌になっている。この本にも掲載されているので、ご希望があれば別の機会に紹介したいと思う。
この本には替歌がたくさん載っているが、1969年に私がデモを始めた頃は、デモで歌う歌といえば「インターナショナル」か「ワルシャワ労働歌」だった。替歌は歌わなかった。
「インターナショナル」も「ワルシャワ労働歌」も最初は歌詞も分からず、肩を組みながらただ歌を聴いているだけだった。デモを重ねるごとにだんだん歌詞を覚え歌えるようになったが、通しで歌えるようになったのはいつ頃からだろうか。
今でも全部とは言わないまでも7割くらいは歌えるかな・・・。

次回も替歌の続きです。

(注1)戯歌番外地:古本サイトで検索すると売っています。3000円~6000円位しますが、欲しい方はどうぞ。

(注2)赤瀬川原平:画家、作家、路上観察学会員。著書に「櫻画報大全」「老人力」などがある。

(注3)日大全共闘:日大全共闘について知りたい方はリンク「1968年全共闘だった時代」を見てください。

(注4)学生時代:ペギー葉山が歌っていた1964年のヒット曲。元歌で歌われる大学はペギー葉山の出身校である青山学院大学といわれている。元歌の歌詞を知りたい方はインターネットで調べてください。

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浅川マキ
歌手
1970年「浅川マキの世界」でレコードデビュー。現在も活動を続けている。

前回の連載No2に1971.6.15集会のデモで逮捕されたO君との東京拘置所での接見の様子を書いたが、書いているときにO君から借りたままになっている浅川マキのレコードのことを思い出した。
レコードはまだ我が家にある。レコードを聴けるステレオは10数年前に廃棄してしまったので、もうレコードは聴けない。
借りていたレコードは「浅川マキの世界」。浅川マキのファーストアルバムである。
レコードを借りている間にO君が逮捕され、結局そのままになってしまったのだ。あれから36年、今ではレコードは聴く機会もなく物入れの棚にある。

O君からレコードを借りた後、「MAKI供廚鯒磴辰拭どちらも浅川マキの初期を代表するとても素敵なアルバムである。2つのアルバムには寺山修司作詞の曲が多数入っているが、浅川マキの雰囲気・声とよくあっている。寺山修司も私の好きな作家・映画監督・演劇家であるが、この2人のコラボレーションはベスト。
この2枚のアルバムの曲は好きな曲ばかりだが、敢えて1曲を選ぶとすると、「朝日のあたる家」(新宿花園神社でのライブ)かな。オリジナル曲ではないが娼婦が歌う雰囲気がとてもよく出ている。浅川マキには娼婦の歌がよく似合う・・・・・。

浅川マキは歌手として認められる前、一時、ピンク映画にも出演していた。私も1970年か71年頃、東京の場末のピンク映画館で浅川マキが出演していたピンク映画を見たことがある。もちろん主役ではなく端役の娼婦役であるが、マキの雰囲気そのままだった。題名は思い出せない。

さて、10月下旬から11月上旬は当時も今も大学祭の季節である。
1971年の10月31日から11月3日まで開催された明治大学駿台祭で学苑会(局堯砲隆愀玄圓11号館に「リヴァプール」という名の喫茶店を開設した。
その宣伝文句には

― 全てのBeatles Generationはリヴァプールに結集せよ!
全時間BeatlesLP演奏。でも時々浅川マキもかけるかもしれないよ。―

とある。
私は駿台祭当日、御茶ノ水の明大駿河台学館のあたりをうろうろしながら、11号館から小さく聞こえるBeatlesと浅川マキの歌に耳を傾けていたが、浅川マキのレコードもBeatlesに劣らず、よくかかっていた。

この喫茶店を取り仕切っていたのが、局学苑会の活動家だった写真のヌードの女性である。(写真は71年の学苑会駿台祭パンフレットからの転載。写真の撮影場所は明大記念館内。)
あと何枚か彼女の写真がパンフレットに掲載されているが、この写真を選んで載せた。
彼女とはあまり話したことはなかったが、クールでとても存在感のある女性だった。
ビートルズと浅川マキ、ちょっと不釣合いな感じがするかもしれないが、浅川マキの歌は確かにあの時代の歌だった。

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救援ノート(写真)
編集 安保を闘う婦人連絡センター
発行 救援連絡センター(注1)

1969年9月に発行された逮捕者の救援活動のためのポケット版ノート。当時、学生運動のデモや集会に行くときはヘルメットやタオルとともに必ず持って行った必需品。救援連絡センターの電話番号が591-1301だったことから、ゴクイリハイミオオイ(獄入りは意味多い)と覚えておくように言われていた。私が持っているのは1969年11月22日発行の第3版だが、いつ買ったのか覚えていない。当時の定価は100円。


救援ノートの目次を見ると

第1部 救援活動
 第1章 差し入れ(留置場の場合)
 第2章 接見(拘置所の場合)
 第3章 裁判の傍聴
 第4章 現場での救援活動
第2部 家族の心得
 第1章 家宅捜索
 第2章 任意出頭
 第3章 家族はどうすれば一番よいか
第3部 逮捕されたとき
 第1章 デモや集会に行くときの注意
 第2章 弾圧
 第3章 黙秘権
 第4章 警察署で
 第5章 未成年者の場合
となっており、救援活動の注意事項や体験談、逮捕された時の心得などが書かれている。

私は幸いデモなどで逮捕されることはなかったが、1971年の全国全共闘(注2)主催6・15集会のデモで私が属していたノンセクト(注3)集団(414B統一戦線)のO君が公務執行妨害で警察に逮捕されてしまった。
当日、O君は我々の旗を持っていたのだが、デモの解散地である千代田区の日比谷公園で機動隊と小競り合いがあり、公園入り口付近で他の学生と一緒に旗を機動隊に向けていただけで逮捕されてしまった。不当逮捕である。
O君は逮捕後、留置所から東京拘置所に移されたため、仲間でローテーションを組んで交代で接見(差し入れ)に行くことになった。

東京の下町、東武伊勢崎線の「小菅」駅で降りると東京拘置所が見える。夏のギラギラした陽射しを受けて拘置所の塀に沿って歩いていると、松尾和子(注4)の「再会」という曲の1フレーズが私の頭を過ぎった。

・・・・小さな青空 監獄の壁を見つめて 泣いてるあなた・・・・

面会所入り口から中に入り、面会申込書にO君の名前と私の住所・氏名を書き、面会時間まで待合室で待つことになった。
待合室にはヤクザ関係か学生運動関係の人しかいないと聞いてきたが、夏の暑い昼間の時間帯で待合室は閑散としていた。
ヤクザの関係者と思しき女性が売店で差し入れの買い物をしている。救援ノートによると「東拘・小菅は選挙違反の大物が入るから売店には田舎のよろずや位の品物、牛肉の缶詰、果物まである」と書かれている。
私は売店で買った記憶はない。差し入れを持って行ったかも覚えていない。現金の差し入れもOKだったので、集めたカンパを差し入れたのかもしれない。

接見の時間になり面会室に入り待っていると、少し顔が太ったO君が扉の向こうから現れた。O君が元気そうだったので、こちらもホットした。30分くらいの短い時間だったが、金網ごしにこちらから大学の状況などを伝え、O君からは拘置所の様子などを聞いた。
拘置所の中ではラジオの放送もあるらしい。O君はうれしそうだった。人と話すことが殆どないのだろうから、短い時間でもいかにも喋るのが楽しいという感じだった。今でもその時のO君の顔を思い出すことができる。

立会いの職員から「時間です。」と告げられ、面会室を後にした。
O君は拘留後、1ヶ月程で公判があり、執行猶予付判決が出て保釈された。O君は保釈後、すぐに実家のある大阪に連れ戻され、その後逢うこともなくなってしまった。
そういえば、彼から浅川マキ(注5)のレコードを借りたままになっているけどどうしたものだろうか。

(注1)救援連絡センター:現在も活動を続けており、救援ノートも第8改訂版が発行されている。救援ノートを手に入れたい方はリンクにある救援連絡センターのホームページを見てください。

(注2)全国全共闘:1969年9月に結成された各大学全共闘の連合組織

(注3)ノンセクト:党派に属さない活動家のこと。

(注4)松尾和子:歌手。ムード歌謡の女王。マヒナスターズと競演した「誰よりも君を愛す」(1960年)などの曲がある。

(注5)浅川マキ:歌手。1970年「夜が明けたら」でデビュー。現在も活動を続けている。

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1969年4月13日の朝日新聞社会面。

東京外国語大学で全共闘支持派の仏語3助教授が授業を拒否という記事とともに、明治大学の記事がある。

―「学生と警官また衝突」神田周辺。交通一時止まるー
<12日午後、日大全学共闘会議の学生約500名が明大駿河台学生会館前に集まり、「法・経済学部を奪い返そう」ということで、明大前通りや中大学生会館付近で激しいジグザグデモを繰り返し、機動隊に追われ明大学生会館に逃げ込んだ学生126名が逮捕された。>(1969.4.13朝日新聞から引用)

この記事の写真には「修学旅行生もとばっちり」ということで「学生と警官の衝突で混雑する中をバスから降りて宿にかけ込む修学旅行の中学生」という写真が添えられ、機動隊の盾の前をカバンを抱えながらうつむき加減に通り抜ける女学生が写っている。
たぶん宿は東京都千代田区・御茶ノ水の明治大学大学院の隣にあった「駿河台ホテル」という修学旅行によく使われていたホテルだと思う。写真の中学生は、いかにも「とばっちり」という感じで写っている。

この神田駿河台にあった明大学生会館への機動隊乱入に抗議して、明大では1969年4月14日「全学臨時休講」となり、明大記念館で学生会(自治会)と大学当局の大衆団交が行われた。(リンクしている「明大全共闘・学館闘争・文連」のエピソード1969も見てください。)
1969年4月15日付の朝日新聞にも「抗議休講だけではダメ。団交で追及うける」という見出しで、当時の明治大学中川学長が社学同(注1)のヘルメットを被った学生に指をさされて追及されている写真が載っている。大衆団交そのものはお互いにすれ違いのやりとりばかりだったが、中川学長は頭の髪の毛が薄い人で、アジビラ(注2)を折って作った紙飛行機が頭のあたりをかすめて飛んでいくと、頭をさわって「滑って当たらなかった」というような仕草をするので、会場爆笑という場面もあり、なかなか面白かった記憶がある。

団交の後は、参加者が記念館前の明大前通りへ出てデモをしたが、社学同が記念館の出口で赤ヘルメットを参加者に次々と配り、赤ヘルの勢力を誇示しようとしていた(集会終了後は回収)。参加者は明大前通りを埋め尽くすようなデモ(新聞によると約1500名)を行ったが、赤ヘルのデモ隊列が街灯の光を反射してとてもきれいだったことを覚えている。私の初めてのデモ体験だったので、印象が強烈だったからかもしれない。

さて、デモをしていると例の「駿河台ホテル」の窓が開いて、窓から修学旅行生が鈴なりになって、デモをしている我々に手を振ったり、写真を撮ったりしている。ホテルの玄関あたりには先生が出て窓から顔を出すなというような仕草をしているが効果がない。我々も修学旅行生に手を振り、声援に応えた。

当時は新聞やテレビで毎日のように各大学の学生運動の状況が伝えられており、修学旅行の中学生はデモの理由などには関係なく、生でデモ隊が見られるということで素直に喜んでいたのだろう。新聞の写真の「とばっちり」を受けた女学生も、その修学旅行生の中に居たのかもしれませんね。
(社学同の赤ヘルの絵を書いてみました。)


(注1)社会主義学生同盟:新左翼系の党派である共産主義者同盟(BUND)の学生組織。社学同をブントと呼んでいたが、ブントは共産同のこと。当時の明治大学は社学同の拠点校の1つだった。

(注2)アジビラ:直訳すると煽動する目的で作られた宣伝紙というようなところか。各党派や組織がそれぞれの主張を書いている。
現物を見たい方はリンク先の「明大全共闘・学館闘争・文連」のアジビラの項を参照してください。

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