1969年から1970年にかけて、大学だけでなく全国の高校でもストや授業ボイコット、バリケード封鎖などが行われた。当時の新聞記事を引用する。
朝日新聞 1969.10.28
【高校紛争全国に広がるー2ヶ月間で49校も】(要約引用)
『大学紛争が下火になりかけたのと対照的に、高校紛争が燃えさかっている。9月からの2ヶ月間に、全国でバリケード封鎖や大規模なスト、授業放棄が起きた高校は49校に達した。封鎖やストを伴わなくても、無届けの校内集会などの例は全国のかなりの高校に見られる。
紛争高校は東京の19校をはじめその近県、さらに大阪11校など関西地区に圧倒的に多い。また、各校の紛争理由を見ると地方高校では長髪禁止や学校施設への不満が大きいが、大都市とその周辺では、受験体制に組み込まれた高校教育への不信、校内の集会、掲示を制限する生徒心得への反発など、不満は高校生活のあらゆる問題にわたっている。
<紛争高校>
岩手県:釜石商、長野県:長野、埼玉県:浦和西、神奈川県:川崎・鶴見・希望丘、千葉県:千葉東・千葉・薬園台、東京都:青山・都立大附属・九段・日比谷・学芸大附属・玉川・航空高専・駒場・明治学院・桜町・文京・南・世田谷工・立川・竹早・葛西工・桐朋学園・志村・中大附属 』
私の出身校もこの紛争高校の1つだった。授業ボイコットが行われているということで、高校時代の仲間数人と、情宣活動(ビラ配り)に出かけた。
朝、高校の2箇所の門の前でヘルメットに覆面姿でビラ配りをしていたら、登校してきた日本史の教師に「君も学生運動をやっているのか」と声をかけられた。思わず「はい」と返事をしてしまったが、ヘルメットに覆面をしていてもわかってしまうのですね。
学校側が呼んだと思われるパトカーが来て、応援の警官が来そうな雰囲気になったため引き揚げたが、校舎の窓から生徒たちが興味深そうに我々を眺めていた。
朝日新聞 1969.10.11
【目立った高校生-主役はノンセクト】(要約引用)
『新左翼が初の統一行動をみせた「10.10集会・デモ」でもっとも目をひいたのは1650人(警視庁調べ)というこれまでにない数の高校生の集会への参加。この数は警備当局の予想をはるかに上回ったが、この1年間に高校生の活動家が確実にふえ、その組織が70年安保闘争の一端をになうまでに大きくなったことを示したともいえる。
この日、高校生グループは東京・千代田区・清水谷公園に集結した。せまい清水谷公園は、旗の波、ヘルメットのうず、絶叫、そして砂ぼこりで埋まった。
その中でも、この公園の主役は、装備もまちまちなノンセクトの生徒たち。これまでの通りでは、反戦高協、反帝高評などの大学生活動家にテコ入れされた組織が中心で、ノンセクトの生徒は影が薄く、また集会でも遠巻きにして見学することが多かった。しかし、この日は300人以上のノンセクト生徒が一団になって最大勢力をつくった。大学生のテコ入れとは無関係に、自発的に活動の道を歩みはじめる者がふえた。』
私も当日、明治公園の10.10集会に参加する前に清水谷公園(写真)の集会の様子を見に行った。現在は公園内に池ができているが、当時は池がなく、小さな集会ができるほどの広さがあった。
清水谷公園は、この記事のように超満員。私の出身校の高校生(ノンセクト)も参加しているようなのだが、どこに居るのか分からない。
広場の脇の斜面の上に小道があり、そこから広場を見渡すことができたので、そこに登って出身校の高校生の場所を捜していると、出身校の生徒指導の教師が隣でメモを取りながら集会を注意深く見ている。多分、参加している生徒が誰なのかチェックしているのだろう。辺りをよく見ると、私服刑事に混じって高校の教師らしき人物の姿もチラホラ。
出身校の旗を見つけたが、集会の中には入れそうもなかったので、彼らと話すこともなく明治公園に向かった。
1969.10.10集会は「ベトナム反戦・安保粉砕・沖縄闘争勝利・佐藤訪米阻止」をスローガンにべ平連、全国反戦、全国全共闘、反代々木系各派の参加により明治公園で開催された。
清水谷公園で集会を行った高校生も参加し、2万人を超える参加者が会場を埋め尽くしていた。明大全共闘からも約1000名が参加した。
明治公園の集会が終わり、デモ隊が神宮球場の脇を通り青山通りに向けて進んでいると、デモ隊の先頭のほうが騒がしい。拍手をしたり笛を鳴らしたりしている。「何だろう?」と思いながら青山通りに出る手前に差しかかると、その意味が分かった。右手にある都立青山高校(紛争中)の正門の門柱の上にヘルメット姿の高校生が1人立ち、街灯に照らされながら一生懸命に大きな旗を振っている。我々の隊列も旗を振ったり、手を振ったり「がんばれよ!」と叫んだりそれに答えた。
今でもあの光景が目に浮かぶようだ。