
今回は前回の続編。
1969年の高校生たちの闘いについて、その心情はどのようなものだったのだろうか。
連載No4とNo5で紹介した「戯歌番外地」から、高校生編の替歌を引用する。
「戯歌番外地」(引用)
【工専生のブルース】
1 皆さん私の歌を聞いて 私はあわれな工専生
もうすぐ退学になってしまう 世にも哀れな物語
2 私が入学した時は 夢や希望にあふれていた
その時あこがれる学校があったけど 親がすすめるから入学したの
3 美しいはずの学校生活 それは紛争の真最中
友人は知らない南の獄へ 学則準則くそくらえ
4 やがて集会が開かれた 私はこの会にかまいきり
ところが学校は授業をしている 当然ぼくは欠席者
5 先生の無責任に気づいた時 純情な僕も乱れたの
いっそ後輩がいなければ 何もしなくてよかったけれど
6 教官も集会に参加されて わずかだが意見を発表した
ところが本当は理解できず 学生と教官の対立よ
7 やがてぼくたち卒業するの 知識だけつめ込まされて
【解説】
日韓闘争から無気味な始動を開始した高校生は、10・8ショックの中でそれまでの物取り主義的な「生活と権利の実力防衛」などという甘ったれた路線と別れを告げ、階級闘争として闘いぬく事を宣言した。
それまで活動家のフラクションなどではあたりまえのことであったが、大衆的次元で仰々しくわめいたことは高校生にとって大事件であった。高校生運動とはそういうものであった。
しかし、今や、大学生よりも過酷な条件の中で、大学闘争に呼応して起ち上がり、全国津々浦々で闘いぬいている。この「工専生のブルース」は、「かわら版」69年10・11月号に載っていたもので、神戸工専闘争の中で出来たものである。
元歌「主婦のブルース」高石友也・歌
以上、原文のまま引用した。元歌を知らない人でも、この詩を読むだけで、当時の高校生の心情が素直に伝わってくるのではないだろうか。
1969年の後半になると、全国の大学に築かれていたバリケードは、機動隊の導入により次々と取り壊され、その後にはベニヤ張りの逆バリ、大学当局によるロックアウトが行われた。
では、高校生の闘いのその後はどうだったのか。
朝日新聞 1969.12.1
【わびしい登校 日比谷高 一部授業再開】(全文引用)
『東京都立日比谷高校(清水正男校長、生徒数1200人)は、1日、1・2年生の授業を再開した。10月6日の後期始業式に紛争が起こってから約2ヶ月ぶり。朝、8時20分までに、1・2年生のほぼ全員の800名余りが建築用材で高べいをめぐらした校門の狭い入り口をくぐり、入場証を示して登校、1時間目から時間割通りの授業が行われた。
同校は10月28日に警官を導入して封鎖解除した後、1ヶ月余りの長い休校期を設け、その間に生徒50人の大量処分、ホームルーム、生徒会・クラブ活動停止などのきびしい措置を打ち出した。なお、3年生の授業再開は1・2年生の様子を見て、10日頃になる見込み。』
【南高と新宿高では全面再開】(全文引用)
『紛争のため一部授業がスットップしていた東京都立南高校(大田区中馬込・中村武夫校長)と都立新宿高校(新宿区内藤町・織田富雄校長)は、1日から授業を全面的に再開した。南高は10月20日に一部生徒によって職員室が封鎖、同26日に自主解除していた。
新宿高では、11月5日に一部生徒が集会などの許可制の撤廃、試験廃止など5項目を提出して授業をボイコット、その後、一部のクラスでは教科の授業をホームルームに切替えて話し合っていた。』
大学生より高校生の方が状況的に厳しい。授業を欠席すればすぐに退学結びつき、授業に出なくても単位が取れる大学とは大違い。その闘いには敬意を表したい。
1968年から69年にかけて全国の大学や高校で多くの闘いが展開された。70年安保闘争を前に機動隊や警官の導入によりバリケードはなくなり、運動の芽はつぶされたように見えるが、地下水脈を伝うように闘いは続いていく。
そして時代は1970年へと突入していく。