1969年の春、毎週土曜日になると新宿駅西口地下広場にベ平連の「フォークゲリラ」が現れた。多くの通行人や学生などが彼らと一緒に歌を歌い、まさに「反戦広場」となった。
しかし、警察当局は「広場」とは認めず、「通路」であるということで警官や機動隊による規制に乗り出した。1969年5月から6月にかけて新聞記事を見てみよう。
朝日新聞 1969.5.14
【演説・カンパ活動一掃 今夜実力行使して新宿西口広場から】(引用)
『新宿駅西口広場が学生などのカンパ活動や集会で“占拠”されているのは通行人に迷惑と、淀橋署は14日夕、機動隊の応援を得て一斉排除に乗り出す。
同広場は、駅構内と都道の接するところで、乗降客を含めて1日ざっと百万人が通る。ところが毎週土曜日のベ平連集会を始め、学生のカンパ活動、各種演説会などがあり、これが通行の妨げになるという。これまで何度か警告してきたが、効き目がないため同署は機動隊100人と署員50人の大部隊で排除することになった。これに抵抗すれば道路交通法違反や鉄道営業法違反を適用する構え。これに対し、詩集売りまで排除されるとしたら新宿の“味”がなくなるという声も周辺の人からあがっている。』
朝日新聞 1969.5.18
【ミニ・ドキュメント 地下道ゲリラ戦 「歌うな」「止まるな」の新宿駅】(引用)
『新宿駅西口地下広場
午後6時7分
交番裏の柱のかげからギターをかかえた若者2人がするりと姿を見せる。ギターをかきならして「友よ夜明け前のやみの中で・・・」と歌いだす。とたんにクツ音を響かせて制服警官30人ほどがワッとばかり2人をとりかこむ。「カエレ、カエレ」まわりの人がきからいっせいに声がかかる。追いたてられながら若者たちが陽気に歌う。「セーギの味方、おまわりさん勝手なまねをすーるーな」「ワッショイ」「フンサイ」
午後6時29分
若者たちがまた交番の裏に集まりだした。「友よ夜明けは近い・・・」ギターをかきならすのは別の2人組。通行人がどっととりかこむ。「おい、手をつなげ」「こわい東口へ行こうよ」「ナンセンス。ここで歌おう」腕を組んだ輪が二重、三重となる。
「こちら淀橋署、道路に立ち止まっていると・・・」マイクの声が聞きとれない。すかさず、「おまわりさん、立ち止まっていると道交法違反です。」
午後6時40分
紺色のヘルメットの機動隊が群集を割って入ってくる。「みんなの広場だぞ。」「ギターまでゲバ棒扱いか」
通行人その1「イタチごっこだね。おとなげないな」
通行人その2「若者と警官のおかげで商用で待ち合わせた人とはぐれた。30分さがしたがみつからない。あきらめたよ。この混乱には、いきどおりを感じる」
通行人その3「歌をうたってるんですか。へえ。公園でやればいいのに」
駅構内での禁止事項を書いた掲示をみつめていた若者に「はやく行きなさい」「このビラ見なければわからないじゃないか」
また輪ができた。少女が涙ぐみながら「勝利の日まで・・・」と歌う。
「受験生ブルース」をもじった「機動隊ブルース」を歌う。
「おいで皆さんきいとくれ ボクは悲しい機動隊 砂をかむよな味けない ボクの話をきいとくれ」
その後、若者の1人がおどけて「シュプレヒコール、キドウタイはベ平連の弾圧に屈せず闘うぞ(笑い声)政府自民党と連帯して戦うぞ(失笑)西口広場を占拠するぞ(笑い声とナンセーンスのかけ声)
午後7時57分
「機動隊がはさみうちしそうです。きょうはこれでやめます。」輪の中にいたほろ酔いの老人が、相撲の勝ち名乗りの調子で、「きょうはみんなの勝ちイ」と叫んで拍手がわいた。』
朝日新聞 1969.6.15
【6千人の新宿大合唱 あふれ出た6・15前夜】(引用)
『6・15統一集会をひかえた14日午後、東京・新宿駅西口地下広場で恒例のフォークソング集会があり、これまで最高の6千人が集まった。「獄中書簡」や「週刊アンポテスト版」を売る学生、「月刊浪人創刊準備中、求むカンパ」と書いたバンガサを突っ立つ高校4年生。接着剤の空びんをひろげ「彼らは何を求めてこれを吸ったか」と訴えるボサボサ髪。午後7時半、人出は最高潮に達し、歌声のわきをいくつものグループに分かれた学生たちがうずまきデモ。地下広場に通ずる車道は一時交通ストップ。同8時過ぎ、約千人の学生が地上にわき出て、西口から東口へと街頭デモ。一部は歌舞伎町へ。また地下広場に逆流して、夜11時すぎまで輪になって議論を続けた。機動隊の出動だけはこの日もなかった。』
新宿駅西口広場をめぐる「フォークゲリラ」側と警察の攻防が新聞で取り上げられたこともあり、毎週、フォーク集会の参加者が増えていくような状況だった。私もこの日(14日)の集会と街頭デモに参加した。だが、この新宿の「反戦フォーク集会」も長くは続かなかった。その後の状況は次回の連載で。