手元に1枚の写真がある。撮影時期は1969年9月。バリケード封鎖中の東京・杉並区の明大和泉校舎旧1号館屋上を写した写真で、ヘルメット姿の数人が見える。屋上のポールに闘争委員会の旗を立てようとしているところだ。
このヘルメット姿の学生は414B統一戦線(私が参加していたノンセクト集団)のメンバーである。写真は旧3号館からK君が撮ったものだ。
414B統一戦線というのは変な名前だが、バリケード封鎖後、1号館4階の414B教室に集まった無党派の学生で構成する集団である。
私のクラスの闘争委員会は、バリスト後、1号館に部屋を確保できた。メンバーは私とN氏、それにカメラマンのK氏である。414B教室には、入り口に「出入り自由、来るもの拒まず」という貼紙を掲げたので、クラスやサークルの闘争委員会に参加していない個人の出入りもあり、10人前後のノンセクト集団が誕生した。
414B教室という場を共有し、明大全共闘に参加するということだけを一致点として活動していたが、70年安保闘争終了後は事実上解体し、それぞれ別の道を歩み始めた。
ノンセクトは「ノンセクト・ラジカル」というように先鋭的に語られることもあるが、党派からは「無展望・無方針・無節操」というように見られていた。
ノンセクトといっても、党派に属さないで活動する純粋無党派から、アンチセクト、セクトくずれまで、幅の広い層の学生がおり、表面的には確かにそのような傾向もみられたが、もともと闘争方針について議論し、考えの違う者は排除して意思統一して闘争を闘うということはしない。考え方が多少違っても、個々人がそれぞれ自由な立場で同じ目標に向かって連帯して行動するところにノンセクトの本質があるように思う。
明大全共闘結成から約1年間、一緒に活動したノンセクト集団414B統一戦線のメンバーについて紹介してみたい。
<414B統一戦線群像>
N君。商学部1-7のクラスメイト。2浪して大学に入ったが、浪人時代は浪共闘(灰色のヘルメット)で活動をしていた。414B統一戦線のヘルメットのマークや旗は彼のアイデアによる。ヘルメットに「ドン・キホーテ」と書いていた。
N君は70年安保闘争終了後も学館解放闘争を闘い、学館特別委員会などで4年間活動を続けた。卒業後は故郷の大阪に戻り親の会社を継いでいる。
K君。商学部1-7のクラスメイト。写真を撮ったカメラマン。70年の和泉祭実行委員となり、明大闘争の写真展示を行った。K君も70年安保闘争終了後、学館解放闘争に参加。卒業後は会社をいくつか代わり、小売業関係の会社に勤めたと聞いている。
S君。N君と同じ2浪組。商学部。「68・11・22では革命が起こるんじゃないかと思った」と言っていた。70年安保闘争終了後は活動していない。その後の消息は不明。
Y君。いつも彼女と一緒にいた。ある日、「オレは中核派と一緒にやる。おまえはいつもオレに批判的だったから、今日はゲバルトで決着をつけたい。」と言われ、和泉学館1階の運営委員会室前でお互いにヘルメットとゲバ棒を持ってY君と1対1で決闘することになってしまった。変な内ゲバだったが、結局、運営委員会室にいた仲間やY君の彼女が止めに入って終了。Y君はその後、姿を見かけなかったが、中核派に入ったのだろうか。
N君(クラスメイトのN君とは違う)。彼もいつもミニスカートの彼女と一緒にいた。70年安保闘争終了後は活動していない。その後、三重県のヤマギシ会に入ったと聞いている。
T君。父親が岡山県の動力車労組の組合員だったこともあり、動労のナッパ服を着てデモに行っていた。赤ヘルも被っていたかな?70年安保闘争終了後、学館解放闘争に参加したが、4年生になった時、「公認会計士になるので闘争はやめる。すまん。」と言って去っていった。
O君。414B統一戦線唯一の逮捕者。連載2で逮捕された後の東京拘置所での接見の様子を書いたが、釈放後は大阪に戻り、その後会っていない。彼から「浅川マキ」のレコードを借りっぱなしになっているがどうしたものだろうか。
もう1人のO君。72年の駿台祭実行委員会に私とともに参加した。連載21で、74年の日大講堂のコンサートで再会してビックリ。
D君。広島弁でいつも喋っていた。70年の和泉祭実行委員となったが、和泉祭後は見かけなくなってしまった。麻雀が好きだったからそれに溺れたか?
さらにもう一人のO君。地方公務員になったが、親父さんが亡くなって、その後を継ぐため退職。ビルの窓の清掃会社だった。いつか銀座でバッタリと会ったことがある。学生時代の仲間数人が一緒だったが、「大変だよ」とこぼしていた。
これで10人。
私はどうしたか?ほとんど授業に出なかったが卒業できた。卒業後はフリーターになったが、何とかあるところに職を得て、今は東京の片隅で暮らしている。