
連載55と56で、1969年11月16日の佐藤訪米阻止闘争について書いた新聞記事を紹介したが、今回は「11月決戦」の反代々木系各派の総括集会の様子を書いた新聞記事を紹介する。 (写真は週刊アンポ第3号より転載・東京蒲田)
【「勝った勝った」の反代々木 首相訪米阻止の総括集会】
朝日新聞 1969.12.15(引用)
『「各派とも大入り満員 “勇敢戦闘”のカラー映画」
<カラー映画>
「10・11月決戦後、最初に総括集会を開いたのは革共同革マル派。先月29日、早大で「大政治集会」を開き、主催者発表で約4千人が集まった。次いで今月4日夜には、東京・品川公会堂でML同盟の「11月決戦報告大政治集会」が開かれた。公会堂の座席は1300だが、つめかけた学生、労働者はざっと1500人。
さらに8日夜には同公会堂で革共同中核派の「大政治集会」。ヘルメット姿の学生や若い労働者が廊下やロビーにまであふれて熱気がムンムン。「2500人も入りました」と公会堂の管理人をびっくりさせた。11日夜には、川崎市の労働会館で社青同解放派の「全関東労学政治集会」が開かれ、約600人が会場をうめた。
これらの集会では、自派の“勇敢な戦いぶり”を描いたスライドやカラーの記録映画が上映されるなど、手のこんだ演出。自派のヘルメット部隊が火炎ビンを投げて機動隊と衝突する場面が登場すると、会場から「ウオー」というどよめきがあがり、しばらくは激しい拍手とかん声のうず。
<勝利と敗北>
ところで、肝心の「10・11月決戦」の評価という点になると、派によってマチマチ。ML派と中核派が「勝った勝った」と威勢のいい総括をすれば、社青同解放派は「敗北」といった具合。佐藤訪米の阻止に失敗しても勝利とはーと首をかしげたくなるが、ML同盟にいわせると「佐藤首相が羽田に自動車で行けずに、ヘリコプターで、しかも空港を機動隊で埋めつくしてやっと出発できた。敵をそこまで追い込んだ。これが勝利でなくてなんだ」ということらしい。中核派の方は「革命の本隊である労働者が初めて武装して立ち上がった。革命への道が切り開かれた」と自画自賛。
「“三里塚決戦”打出す」
<ゲバ路線>
ゲバルト路線への自己批判はどこでも聞かれなかった。中核派の集会では、北小路敏政治局員が「マスコミはゲバルト路線の破産なんて騒いでいるが、とんでもない。佐藤訪米を阻止できなかったのはわれわれの力が弱かったためで、われわれの力がもう少し強かったら機動隊をせん滅し、訪米を阻止できた。したがって今後も機動隊せん滅、街頭武装闘争の方針は変わらない」と強調した。
また。ML同盟の集会では、鈴木迪夫書記長が「敵は自警団を組織するに至った。われわれも人民の武装を進めなければならない」とひときわ声を張り上げ、社青同解放派の集会でも、滝口弘人代表が「われわれはあくまでも革命的暴力主義に徹すべきだ」と叫んだ。
そればかりか。各派の集会では「正規軍の建設」「軍団の強化」など、勇ましい言葉が飛びかった。
<次の決戦>
では、そのゲバルト路線はいつどのような形で再登場してくるのか。総括集会でそれをハッキリ打ち出したのは中核派だ。まず、来春に予想される千葉県成田市三里塚の新国際空港の本格的な工事を実力で阻止。次いで春闘を“バリケード春闘”で闘い、“6月安保決戦”に進撃するという。社青同解放派の集会でも“三里塚決戦”が打出された。
<内ゲバ>
各派の対立も激しくなりそうだ。なかでも内ゲバ寸前の様相を呈しているのが革マル派と他のセクトで、ことし1月の東大闘争以来の対立がさらに深まった感じ。ことの起こりは革マル派が機関紙で「佐藤訪米阻止闘争が明らかにしたものは、武装ほう起宣伝集団(中核派、赤軍派、ML同盟のこと)のみるも無残な敗走であり、山ネコスト待望派(社青同解放派や構改系諸派)の反革命的とん走であった」と他派をやっつけたこと。
このため、中核派の集会では「革マル派の粉砕」が叫ばれ、社青同解放派の集会では、「醜悪な革マル派を粉砕するために闘争資金が必要です」とカンパの訴えが出る始末。一方、中核派とML同盟の間では「10・11月決戦でどちらが勇敢に戦ったか」をめぐって互いに相手をこきおろし、対立はエスカレートするばかり。』
「11月決戦」は勝利だったのか敗北だったのか、党派の見解は分かれ、革マル派と他党派の対立は決定的なものとなった。
その後、12月に日比谷野音で開催された糟谷君虐殺抗議集会では、革マル派と他党派が日比谷公園内で衝突し、大規模なゲバルトに発展した。
ところで、11月16日、蒲田周辺をウロウロしていた軟弱ノンセクトとしては「11月決戦」の総括をする立場にはない。