
今回は久しぶりに「朝日ジャーナル」に掲載されていた「学園ハガキ通信」を紹介する。
大学の紛争の現状など大学生からの投稿を掲載していた記事である。
【朝日ジャーナル 1969.4.27号「学園ハガキ通信」】(引用)
□逆封鎖用の鉄柵完成(東洋大学)
2月中旬の地区別入試前、入試阻止のうわさがあったため、右翼体育会学生たちをつかって逆封鎖して入試が行われた。
川越移転をもくろんだものの実施できず、狭い白山の地に1万人をはるかに越える学生をつめこむ建物を必要としている状況だから、とても門などつくる敷地の余裕はありはしない。それで、入試当日はロープを張りめぐらし、テントの中で、右翼体育会学生らによる検問が行われた。ロープではあまりにおそまつと考えたのか、地区別入試終了後、当局は苦肉の策として、1号館横の通路に、とても「門」とはいえぬ。開閉可能の鉄柵をつくった。
この手回しのよさは、官憲導入時に少しも劣らぬ。なお、目下、当局は学生のためにと、1号館と2号館との間のわずかな空間に、接着剤でつくるような室をつくっていてくれる。ありがたいことである。
(匿名希望・文学部)
<管理人:注>
東洋大学は東京・文京区白山にある明治20年創立の老舗大学である。
写真は「毎日グラフ」1969.2.15号に掲載されていたものであるが、コメントに
「東洋大学 図書館・学生会館建設をめぐって昨年6月約200人の学生がすわりこみ、機動隊が導入され、これで全学休講のまま夏休みにはいりキャンパスの学生ものんびりヒルネ」とある。1968年夏頃の写真か?
同じ「毎日グラフ」に大学紛争一覧(現状と争点)というコーナーがあり、東洋大学については「一時小康をえていたが、社会学部の一部学生が同学部の一部を封鎖、急に険悪化してきている。」とのコメントがある。
「サンデー毎日」によると、当時の東洋大のセクトは社青同協会派(経・二文・二社)と民青(法)となっている。69年頃の集会で東洋大の部隊を見かけた記憶がないが、全共闘的な組織はなかったのかな?
□ポン大生復活(日大歯学部)
歯学部においても1月25日のスト解除以来、学校当局の居直りが進行中であるが、当の学生は、元学園正常化有志会(反スト派)の諸君を筆頭とし、日大闘争そっちのけで進級テストにむけて猛勉強中。
一方、歯学部闘争委員会は2月7日再封鎖闘争以後、学内での組織活動ができないばかりか、1月13日、学園正常化有志会責任者とのこぜりあいの件で、一部父兄会世話人に退学勧告をされ、さらには、現在まで闘争委6人が不当逮捕され拘留中である。
スト解除後に発足した学生会執行部は1月13日の問題をセンセーショナルに情宣し、「逮捕は当然」といい、「今後は暴力学生を排除し、教授会を信頼し、話し合いで民主化をやっていこう」と学校側もニコニコするような活躍ぶり。カンノン(完全ノンポリ)学生が学内を平和に闊歩するさまは、日大闘争前と全く同じ。ポン大生の復活・・・そして古田体制復活がそこにある。
(匿名希望・日大歯学部)
<管理人:注>
この投稿の背景となった事柄が「叛逆のバリケード(新版)」(三一書房)の年表に記載されているので引用する。
『1月13日:医学部で教職員、父兄、右翼学生によるスト破壊。学生委員会は策動によるスト解除を決議。スト続行を基本方針とする学生会(岡進委員長)は執行部の解散を宣言。
1月25日:歯学部 動員された右翼学生らが歯学部学生集会(500名)を開催。スト解除決議を採決。
1月27日:歯闘委、学生集会(500名)を開催。25日の集会は学部外から学生が動員され、また、採決にも不正があったとして、スト解除決議の無効を宣言。スト続行を決議。
1月30日:歯学部集会が世田谷体育館で開かれ、学部当局が一方的に「バリケード撤去・授業再開」を宣言し、閉会となる。
2月3日:歯闘委、歯学部学生大会で「スト解除。バリケード撤去を決議」。バリケードから日常闘争へ戦術を転換。闘争委員会がスト解除とバリケード解除を決議したのははじめて。
2月7日:歯学部のバリケード解除を実力行使した右翼学生集団150名と全共闘行動隊50名が衝突。官憲の弾圧で行動隊が排除される。』
今後も当時の各大学の状況を伝える「学園ハガキ」通信の紹介を続けていきます。