前回に引き続き、安田講堂の占拠から機動隊導入による攻防戦に至る経緯を週刊誌の記事で見てみよう。
【安田講堂籠城日記 202日間彼らはそこで何をしていたか】
サンデー毎日 1969.2.20増刊号
『夏休み
レジャーに、旅行にと遊び回る学部学生や「全学連」大会などで忙しい各セクトの活動家に代わって、ノンセクトの大学院生が中心となり、交代で“講堂番”。むし暑い講堂内を避けて講堂前広場には“支援テント”が10張以上誕生。“ノンポリ・テント村”と呼ばれた。
7月15日、各学部、学科代表、大学院代表、反日共系全学連各派代表などが集まって共闘会議代表者会議を開き、「7項目要求」が正式に決定され、闘争目標が明確になった。名物“時計台放送”が始まったのもこのころからである。
夏休み中、“闘いの火”を消さぬことが当面の課題。このため毎週火曜日を登校日と決め、講堂内で集会を持たれた。黒田寛一、岩田弘氏ら各派の理論指導者やイタリア・フィレンツェ大学の助教授の講演会が開かれたり、あるいは“闘う労働者、市民、高校生”のためにも解放され、“反戦、反安保集会”が盛んに開かれた。
学生たちは彼らの講堂を「1968年解放講堂」と呼ぶようになった。フーテン大会が講堂前で開かれようとして一騒動が持ち上がったのは、夏休みも終わろうとしていた8月24日夜のことだ。
9月―10月
夏休み明けとともに安田講堂の全学共闘派は活発に動きだす。オルグ活動は学生間に浸透し、各学部でつぎつぎと無期限ストに突入。10月12日最後の法学部もストに入り全学無期限スト体制が確立された。講堂の1・2階に並ぶ大小10数の部屋がつぎつぎに各学科やセクトの“部屋”として使われていく。総長室は各グループの代表者会議―全学共闘の最高決定機関―を開く時にだけ使用された。各学部学科の闘争委、院生の全闘連、助手共闘そしてML、反帝、フロント、革マルなどの各セクト、複雑な組み合わせからなる共闘会議の意思を決定する際、安田講堂は最適の“統合参謀本部”であった。指令1つですぐ各グループ代表が総長室に顔を合わせ、代表者会議、事務局会議が連日開かれた。
学生たちは余裕をもちだした。マクラもとにゲバ棒はおいたが、ヘルメットをぬぎ、ジャンパーをぬいで汚れた貸しぶとんにもぐりこんだ。各学部のバリケードの中に寝に帰る学生も多く、講堂で泊るのは30人余りだった。
電気もガスも水道も使えた。泊まりこみ組は各室の電熱器でインスタントラーメンやインスタントコーヒーをつくった。時どきは正門近くの食堂や喫茶店へでかけた。電話も昼間は大学の交換台が安田講堂をよんでくれた。大学側に盗聴されているらしいと学生たちはこの電話ではさしさわりのない用をたし、闘争の連絡には赤電話やレポを使った。各学部のバリケード内との緊急連絡用に工学部学生は安田講堂から構内専用電話をひいた。
<革マルと反帝学評が対立!>
11月18日
紛争収拾を図ろうとする新執行部の加藤学長代行は全学共闘との公開予備折衝にのぞむため、はじめて学生の占拠する安田講堂にはいった。大講堂は共闘会議のシンパや一般学生約4,000人で超満員。壇上の共闘会議派幹部が7項目要求をつきつけて激しく加藤代行を追及。加藤代行の答弁は学生を満足させず、最後は「帰れ、帰れ」の大合唱で講堂を追い出された。全学共闘はこれ以上大学当局と話し合うことはムダだと判断した。
11月22日
全学共闘は全国の反日共系活動家8,000人を安田講堂前に集めて東大・日大闘争勝利総決起集会を開く(筆者注:写真は「毎日グラフ」から転載)。安田講堂は時計台上に数本の赤旗がひるがえりバルコニーには社学同、ML、革マル、反帝の各セクトの旗がかかげられた。中核もはじめてセクトとして東大闘争に参加した。この日を境に安田講堂のバリケードは一段と強化された。集会に参加した日大全学共闘の猛者たちは東大生のひ弱な“バリ造り”を笑い、日大生の指導で正面玄関のバリケードの“改造”がはじまった。
五分板をうちつけ内側にはスチールロッカーをぎっしりつめ、一ヶ所あけた入口も30秒あればいくつものロッカーが上からおちてきて開かずの扉となるしかけ。闘う工学部大学院生たちの“バリケード工学”は日ましに進歩した。
武装した“外人部隊”の出入りで安田講堂の空気も殺気立った。反日共系のゲバルト部隊は、これも構内の教育学部を根拠地とする日共系ゲバ部隊とにらみあったが、この日は結局、激突を回避した。封鎖を拡大して全学バリケード封鎖をするかどうかで代表者会議はもめた。
革マルと反帝学評がお互いに相手を日和見主義者と非難しあって対立、共闘会議の頭痛のタネとなった。』
(つづく)
盗聴されている電話は声が聞きづらかったり、カタカタという変な音が聞こえたりというような「症状」が出るといわれていた。
次回もこの記事の続きです。