安田講堂攻防戦の第4回となるが、前回に引き続き、安田講堂の占拠から機動隊導入による攻防戦に至る経緯を週刊誌の記事で見てみよう。
【安田講堂籠城日記 202日間彼らはそこで何をしていたか】
サンデー毎日 1969.2.20増刊号
『<自由意志で去る者と残る者>
1月15日
闘争勝利労学総決起集会。安田講堂前は11・22についで再び数千の反日共系学生、支援の青年労働者で埋め尽くされた。安田講堂に残って、全員逮捕を覚悟で戦う籠城部隊は約400人と決まった。東大全共闘も約150人近くの籠城組を決めた。
全共闘は今後の闘いのために活動家の半数以上を温存し、機動隊導入のさいは講堂から撤退させることにした。
講堂に残るか出るかの任務分担は上からの指令でなく、各グループごとに話しあい、すべて納得づくで決められた。家庭の事情、身体の調子が考慮に入れられ、個人の自発的意思が尊重された。講堂をでるものに、戦線離脱者としての後ろめたい気持ちはまったくなかった。むしろ外へ出る組にはこれからもつらい苦しい戦いが待っている。学生たちは長い闘争にすでにかなり消耗していた。籠城して戦えばともかくそこで一区切りつく、疲れた学生たちの頭にはそんな考えすらあった。
籠城組に決まった者は逮捕に備えて身辺を整理した。長年、家庭教師をやってきた教え子に、しばらく会えないからと後任を見つけに走るものもいた。
籠城組の“解放講堂死守”戦術は何度もの代表者会議で確認されていた。圧倒的な機動隊の攻勢にできる限り長く抵抗すること。警察側の持久戦法も想定して10日間は籠城できるような体制をとったが、全面的な攻撃に対してせめて1日間は持ちこたえたいと幹部は考えていた。そして500人が10日間は持ちこたえるくらいの食料が運び込まれた。米、ニギリメシ、パン、インスタントラーメン、カンパン、ミカン・・・時計塔の一部屋が食料庫にあてられた。ガス、水道、電気が断たれるのを覚悟して飲料水、石油、ロウソクも容易され、炊事、医療班として女子学生10余人も籠城組に加わった。
バリケードも考えられる限りの補強をした。1階の窓や出入口は多すぎて、完全防衛はとても不可能なこと。したがって、1階が破られることは覚悟したが、要は5つの階段をがっちり固め、2階以上に機動隊を上げなければいいのだ。
階段という階段にはロッカーや机がぎっしりと積み上げられ、太い針金でしばりつけられた。そのうえ、スキマにはセメントを流し込み、コンクリート固めしたうえで、文字通り“砦”とする予定だったが、これだけは資金不足と時間不足で十分なことはできなかった。
代わりに火炎ビン、硫酸、塩酸などが用意された。バリがこわされたあとも、これらを投げつけ、機動隊を寄せつけないための“時間かせぎ武器”だ。
2階から3階へ階段も同じように固められた。したがって2階防衛班は1階からの階段が陥落したらもう逃げるところはない。“退路”を断ったうえでの徹底抗戦の構えだ。3階、4階組も同じ。窓という窓にはベニヤ板が2枚、3枚と重ねて打ち付けられた。ビニール・テープで十分な目張りも行われた。催涙ガスへの備えも一応は十分である。
1月17日
午後11時5分、加藤総長代行名で退去命令がだされた。いよいよ機動隊との対決の時がせまった。安田講堂の出入りが激しくなり夜明けまで続いた。「がんばれよ」「お前もな」残る者、去る者、それぞれが目顔であいさつし、短い言葉を交わして別れていく。
最後の時計台放送アピール「われわれの戦いは勝利だった。全国の学生、市民、労働者の皆さん、われわれの戦いは決して終わったのではなく、われわれにかわって戦う同志の諸君が再び解放講堂から時計台放送を行う日までこの放送を中止します。」(了)』
(筆者注:写真は「毎日グラフ」から転載)
4回にわたって紹介してきた「安田講堂籠城日記」はこれで終了した。一部の引用ではなく、掲載された記事全文を紹介したのは、あの時代を知らない世代の方々にも、安田講堂攻防戦に至る状況が良く分かる資料と考えたからである。
また、籠城したのは特別な人間ではなく、普通の学生だったことが分かると思う。
当時、「朝日ソノラマ」という雑誌で「音で残す永遠の歴史・激動の東大1/18・19」という特集があり、雑誌に付いていたソノシート(ビニールで作られたレコードのようなもの)をレコードプレーヤーにかけて、最後の時計台放送を聞いていた記憶がある。
この「朝日ソノラマ」という雑誌は「音の雑誌」ということで、「生きているゲバラの演説」(1964年国連演説)とか、「新宿広場‘69」(歌うフォークゲリラ)など、毎回左翼系の特集を掲載していた。
当時の「朝日ソノラマ」は古本サイトでも見つからないので、多分入手不能。
次回は1969年1月17日から1月19日までの安田講堂攻防戦をめぐる新聞記事を紹介します。