
「朝日ジャーナル」に掲載されていた「学園ハガキ通信」の紹介も5回目となる。東大・日大闘争の陰に隠れて、ほとんど知られていない1968-69年の各大学の様子がよく分かる。
この「学園ハガキ通信」以外にも、当時の新聞や雑誌には各大学の闘争の様子などが記事として載っているので、今後、別のシリーズで紹介したい。
(写真は「毎日グラフ」より転載)
【朝日ジャーナル 1969.4.27号「学園ハガキ通信」】(引用)
□まず言論の自由を(近畿大)
法学部では、刑法の前田教授をはじめ5人の教授、助教授が追い出された。そして昨年は3人。私たちは、ゼミは開いてもらえず、授業は休講、そして今年からは憲法0、民法1、刑法0、つまり基本法律科目で教授はたった1人らしい。
さすがにのんきな近大生も、民青諸君と反代々木諸君とノンセクト・ラジカルが共闘して闘った。ところが、わが近大には愛校民主主義学生同盟という不思議な団体があって、自治組織を全部握っている。彼らは新人生を学校当局からもらった金で、まずヘルスセンターへ無料でつれて行き、その後、学生大会を開く。
そこでは応援団、体育会の恐ろしい人たちがいて、新人生があれよあれよというまに拍手の3回もして全部信任される。そしてわれわれ一般学生がその後、また前でもいくら自治組織を作っても、当局からは非公認団体として責任者は処分されてしまう。
われわれは、そのような状態に不満を持っていても、口に出して言えば、彼らからは赤とののしられ、またけんかをしいられ、おまけに当局からは、目をつけられる。無許可デモを行ったために、大学側から、アルバイトの紹介を断られた学生もいた。
(匿名希望・法学部)
<管理人:注>
近畿大学は昭和24年に設立された私立総合大学である。
大学紛争一覧(毎日グラフ1969・2・15号)によると、近大の紛争状況は以下のとおり。
紛争の発端・原因:機構改革
現状と争点:民主的な教授会の確立、ゼミの正常運営など10項目を要求している。
商経は社学同、理工は民青系が握っていたようだ。
□平穏を破ったビラ(早大)
東京いや全国で学園闘争が起こっているのに、学生運動の名門(?)わが学園は平穏な日々が続いてまことに結構な次第ではある。
ところが、この平穏を破るように、3月25日卒業式に卒業式フンサイ闘争が起こった。以下はその時のビラより
「ココデ4年間すぎちょびれ/卒業式にハッパフミフミ
インテリの条件(1)手にはジャーナル、心にマガジン。(2)黒ブチメガネをかけること。(3)こんなくだらないステッカーを作らない。(4)卒業式にみんなで泣く。
混乱をもとめて孤立をおそれず
力つくして倒れることを辞さないが 混乱を起こさず卒業することを拒否する。
=全学4年生連絡協議会・理工4連協」
とまあ、わが学園卒の巨泉先生をひくところなんてにくいねえ!
(金沢豊・早大喫検
<管理人:注>
この卒業式の新聞記事があるので見てみよう。
【卒業の日、突然荒れる 早大】毎日新聞1969年3月25日(引用)
『東大、日大などの紛争をよそに静まり返っていた早稲田大学で25日の卒業式を迎えて火の手が上がり、卒業式の会場で反日共系学生と日共系学生の乱闘が始まるなど、午後1時からの式の開会が30分遅れた。
学部、大学院、専攻科10845人の卒業生を送り出すマンモス卒業式は午後1時から同大記念講堂で行われる予定だったが、反日共系学生、日共系学生はともに時子山総長に「41年の授業料値上げのとき、さらに昨年の総長選挙で同総長のとった行動は反民主的であった。自己批判を求める。」と、卒業式を討論集会に切替えるよう申し入れていた。
午後零時半過ぎ、まず黒ヘルメットに角材の早大反戦連合の学生約70人が会場に2度3度と乱入して引きあげた。そのあと“時子山粉砕”のプラカードを掲げた日共系学生約100人が演壇前におどり出て、総長の自己批判を求めるアジ演説。
そこへ反戦連合の学生が戻ってきて、角材をふりかざして激しい乱闘、発炎筒に火をつけたりした。さらに右翼系学生約20人も突入したため、三つどもえの乱闘がつづいた。
学校側は全学卒業生連絡会議(日共系)の学生に5分間の演説の時間を与え、午後1時半から式をはじめた。
演壇にならぶガウン姿の教授めがけて、場内からタマゴや生きたニワトリが投げつけられ、反戦連合の学生が爆竹を連発。騒然とした中で、とにかく式は終わった。』
当日の卒業生にはこんな人も・・・。
【「文学士 吉永小百合」誕生】毎日新聞1969年3月25日(引用)
『早稲田大学の卒業生の中に女優、吉永小百合さんの姿もあった。吉永さんは第二文学部で西洋史を専攻、西洋史の卒論では三番目という優秀な成績だったとか。(後略)』