
1968年から69年にかけて、全国の大学で様々な闘争が行なわれ、当時の新聞や雑誌には、各大学の闘争の様子が連日のように報じられていた。
東大・日大闘争は写真集や本も出版され、マスコミにも取り上げられることも多いため比較的その内容が知られている。
しかし、私が在籍していた明治大学を含め、他の大学の闘争は、東大・日大闘争の陰に隠れて殆ど知られることがないまま、時の流れの中に忘れ去られようとしている。
「あの時代」を今に伝えるためには、明大のみならず他大学の闘争の状況もできるだけ紹介し、公表していく必要があると思う。
そのため、当時の新聞や雑誌の記事の中から関係の記事を探し出し、このブログで紹介していくことにした。
第1回は明治学院大学(写真は筆者撮影)の闘争について。
明治学院大学は東京・港区白金台にある1886年に設立されたミッション系の老舗大学である。
いわゆる“お嬢さん大学”というイメージの大学だったが、闘争はどうだったのだろうか。
【ルポ 紛争地帯を行く】サンデー毎日1969.2.20号(引用)
『大学本部をふくむ校舎の一部が学生に占拠されて二ヶ月あまり。明治学院大学の紛争も、ようやく大詰めにきた感じだ。(中略)1月28日には、機動隊の護衛つきで、大学周辺の道から敷石がすべて取払われ「いよいよ機動隊導入か」と、約200人のロウ城学生を緊張させた。
紛争が起こるとすぐ“病気療養”のため大学から姿を消していた若林竜夫学長も、先ごろ復帰。夜になるとスピーカーつきの車で大学付近にあらわれ、「バリケード封鎖をやめなさい」と、放送していくという。
2月26日からの入試をひかえて、ここ1週間が最後のヤマ場だ。
紛争の発端はごく単純な事件だった。昨年の10月8日、応援団と学友会系の学生約50人が“10.21アピール”の立看板を十数枚、強引に撤去して破壊したのが原因だ。
それば一般学生の目に「学生部とつながった言論弾圧」とうつり、抗議の火の手があがったものである。
だから、その直後に100番教室で開かれた抗議集会では「応援団の解散」と「学友会、体育会執行部の辞任」といった程度の要求しか出されなかった。闘うキリスト者同盟の赤松桂委員長(経3年)もこういっていた。
「なにしろ、うちは学生運動の不毛地帯で、自治会すらない大学なんです。だから、大学当局は“まさか、うちで・・”と安心しきっていたし、われわれも、ここまで闘えるとは考えなかった。」
他大学では簡単にケリがつくはずの問題が、こじれにコジレてしまった。「応援団解散を要求するわれわれに対して、大学当局は何と答えたと思いますか。」と、今度は共闘会議(河野英雄委員長)の学生たちが説明する。
「何も答えなかったのです。それどころか、応援団の暴力行為を目の前に見ながら、学生部長も学生課長もニヤニヤ笑っているだけでした。そして大衆団交を要求すると。RTD方式でなければダメだという。話にもなりません。」
RTD方式とは、“ラウンド・テーブル・ディスカッション”のこと。明治学院で昔から行われてきた話し合いの方法だ。
しかし、「そんなナマヌルイ方法では何も解決しない」と考えた学生側は、すぐ全学共闘会議を結成して、本館バリケード封鎖を決議、10月16日の午後、約120名の学生が本館を占拠した。
ところが、バリケード封鎖に抗議する一般学生の反発が強くて、この本館占拠はわずか1日しかもたず、あっさり失敗。
全学共闘会議といっても、どこのセクトにも所属していない“ノンポリ学生”が主体だ。しかも、活動家の層は薄くて、200人そこそこ、シンパを加えても全学生の1割に満たない人数だ。
10月30日、共闘会議の学生はスキをねらって、こんどはヘボン館を封鎖。わずか20人という“決死隊”だったが、そこで学生部の㊙資料を続々と発見した。
学生盗聴施設の存在とか、応援団員を供応した料亭の領収書など。
しかも、応援団・民青系の学生がヘボン館のロウ城学生を“逆封鎖”して、水や食料の差し入れをストップしたことから、それまで傍観者だった一般学生が共闘会議に同情、大学側のやり方に疑惑の目を向けはじめた。
そこで、共闘会議はさらに本館再封鎖へと手を伸ばし、これとは別に闘うキリスト者同盟の学生が、明治学院大学のシンボルともいうべきチャペルを封鎖しバリケードの中で年を越した。
要求項目もヽ慇孤長、学生課長の自己批判と辞任学則破棄・改正3慊紅輒箸覆鼻硲更猝棔匹砲佞れあがり、現在に至っている。その間、天達学長代理との間に大衆団交が行われたり、若林学長を団交の席に引き出すことにも成功したが、解決の糸口はまだ見つかってはいない。
そのうえ、若林学長の復帰と「学長の権限は教授会に優先する」という発言をめぐって教授の一部からも批判の声があがっており、事態はますます複雑になってきた。(後略)』
次回に続く。