野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2009年07月

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1970年3月14日から9月30日まで、大阪の千里丘陵で日本万国博覧会(EXPO'70)が開催された。
総入場者は6,400万人と万国博史上最多であった。

「人類の進歩と調和」をテーマにしたこの万国博に対し、1969年、日本で最も過激な儀式集団といわれている「ゼロ次元」の加藤好弘氏が中心となって「万博破壊共闘派」が結成される。
文化管理体制に向かいつつある万博に、破壊を持って闘うという方針で全国的に反万博の行動を展開。
69年6月、京都大学のバリ祭で、教養学部本館のベランダの上で反博全裸儀式を行い、その様子が「アサヒグラフ」に見開きカラーで掲載されたことから、これを契機に猥褻物陳列罪で8名が逮捕される。

反万博の行動や、この京大での「儀式」の様子は、写真集「ゼロ次元 加藤好弘と60年代」(平田実・2006年河出書房新社)で見ることができる。
京大での写真を見ると、京大教養学部本館バルコニーに羽の付いたヘルメットを被り、片手をあげた全裸の男女10名が並んでいる。(写真は「通俗的芸術論」から転載)
本館の柱には「帝大解体」「造反有理」のスローガン、「万博破壊共闘派」の後ろには「4.28政府中枢霞ヶ関占拠 社学同」の文字。そして本館からロープを伝って下に降りようとする男(服は着ているが、途中で落下し重症を負う)。
写真集の帯広告には「ラジカルかつスキャンダラスなパフォーマンスで60年代の街頭をカオスの渦へ変貌させた芸術テロリスト集団」とあるが、正にそのとおり。

この京大での儀式による逮捕を巡って、朝日ジャーナルに記事が載っているので紹介する。
【芸術家の反体制行動 ハンパク=反戦のための万国博】朝日ジャーナル1969.8.17(引用)
『70年を前にして、万国博への批判が各方面から高まっているが、その中に「万博破壊共闘会議」を名のる芸術家の一群がある。
パプニング、アンダーグラウンド映画、サイケデリックなどの風潮の中から生まれた「ゼロ次元」「告陰」「ビタミン・アート」などのグループで、彼らは昨年末各地を巡回して万博粉砕のデモンストレーション集会を行なってきた。
最近では京大バリケード内と池袋アート・シアターで、ヘルメットに全裸という姿での「儀式」を行なったことは、「アサヒグラフ」や「週刊明星」にも報じられたから、知られているだろう。

<逮捕された前衛グループ>
ところが、この2誌の報道をきっかけに、警視庁がいわゆるアングラ芸術への弾圧にのりだしたのは、みのがせない問題をふくんでいる。
まず、「週刊明星」記者が任意出頭を命じられた。調書をとられ、写真その他の資料を提出させられた。
ついで「アサヒグラフ」編集長も事情をきかれた。そのあと「告陰」グループ3人(うち女性2人)が、公然ワイセツ物陳列容疑で逮捕され、「アサヒグラフ」の記事を書いた映画評論家・金坂健二も参考人として出頭し調べられたが、調書を拒否したという。
なかでも「ゼロ次元」の加藤好弘と「新宿少年団」の秋山祐徳のばあい、逮捕状況が問題である。
目白署の刑事がT新聞文化部記者と名のって来訪し、文化部長に会って万博について話してくれといい、本人が着替えているあいだに周囲を包囲し、それから逮捕状をつきつけたという。
これは当の刑事もみとめ、「東京新聞」と「サンケイ新聞」が記事にとりあげた。
逮捕された5人は、いずれも10日間の拘留ののち一時保釈され、2万5千円の罰金をいいわたされたが、取調べの内容もゆゆしい問題をふくんでいる。
尋問はワイセツ云々ではなく、京大全共闘、ベ平連、反戦青年委などとの関連を追及することに集中した。
逮捕者の1人によると、ある担当検事は「万博を前にして国辱的なアングラとかいうシロモノを一掃しろ」と、自民党筋からの圧力があることをもらしたという。
その後、「ビタミン・アート」の3人がさらに逮捕され、これらの関係者の自宅やたまり場、万博批判の特集をやった某映画雑誌社には、電話盗聴器や張りこみがついている模様で、家宅捜索にきた若い刑事の中には「たかが裸になったぐらいで、なぜ上の方が大さわぎするのかわからない」と首をかしげているものもいるそうだ。

<“反博”運動への弾圧?>
(中略)それは「国民不在の祭典」とよばれる万国博への高まる批判を、国家権力によって封じこめようとするものであり、万国博が70年安保のカモフラージュ装置であることを、権力者みずから立証するものだからである。
この事件を無視できないと考える数人の芸術家は、7月19日、突然「通路」と書きかえられた新宿西口広場で、機動隊にかこまれながら、事実経過を知らせるビラをくばったし、美術評論家ヨシダ・ヨシエは、個人の資格で、万国博に参加している芸術家たちに、即刻協力を中止し、千里丘陵ストを実現するよう、よびかける手紙を送った。(後略)』

「万博破壊共闘派」は逮捕にも屈せず、8月に開催された「反戦のための万国博」会場で再び「儀式」を行った。

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連載No85の続きです。
1969年4月14日、明治大学の新学期の始まりの日は、4.12本校学生会館への機動隊乱入、不当逮捕に抗議する異例の全学ストとなった。

東京・杉並区の明大和泉校舎では「全学ストライキ突入」の立看板が並び、新入生は初日から「休講」という事態に直面してキャンパスをウロウロ。私もウロウロしていた新入生の1人だった。
全学ストとはいっても構内に緊張感は感じられず、多くのサークルが出店を出して、しきりに新入生を勧誘している。天気も良く春らしい陽気なので、いたってのんびりした雰囲気だった。
正門付近で行なわれた抗議集会には社学同の赤ヘルを中心に300人近い学生が集まっていたが、私も集会を取り囲む学生の人垣の後ろで、集会の様子を見ていた。
午後、駿河台の本校で「大衆団交」が行われるということで、帰宅する道を選ばず、団交に参加することにした。
この体験が、その後の学生生活を決定づけた。

団交の様子を報じた新聞記事を見てみよう。(写真は朝日新聞から転載)
【“抗議休校だけではダメ”ホコ先、大学側に】朝日新聞 1969.4.15(引用)
『「警官隊の乱入を弾がいする」「不当逮捕に抗議、全学ストを」。
騒ぎの続く東京・神田の学生街でこれまで平静を保っていた明治大学も14日、大学側が異例の臨時休校に踏切り、各種の立看板がたち、学長との「大衆団交」まで始まった。
12日夕、日大全共闘のデモ規制に当った機動隊が学生の逃げ込んだ同大学の新旧両学館に独自の判断で立入り、サークル活動中などの明治大学学生まで多数逮捕したことがきっかけ。
大学側は新学年初日の4日14日を「全学部臨時休講」として抗議の姿勢を示したが、おさまらない学生たちは以前からくすぶっていた学生部廃止などの要求を持出し、15日にも学長との団交を開くなど“飛ばっちりスト”にはいりかねない勢いだ。

明大学生部学生課が14日夜までに調べたところによると、12日夕逮捕された同大学生のほとんどは学館内でサークル活動をしたり、喫茶店で話込んでいる最中だった。
新館地下で練習中の演劇同好会「現世代」の13人(男子7人、女子6人)、旧学館5階で新入部員歓迎会の準備をしていた2部山岳部員2人、新館ロビーにいた女子学生3人など。
また、2部の法律研究会、音楽研、雄弁部などの部室でも、それぞれ部員数人が逮捕されたという。
「現世代」の練習場では、一度機動隊員がのぞいたが、練習中とわかり、引揚げた。
だが、約30分後の12日午後5時40分すぎ、別の数人の機動隊員が「ここにもいた」となだれ込み、学生を連行した、という。
この13人は同夜釈放されたが、「全員の証言が同じだったので、誤りとわかったのでしょう。1人、2人なら、どうなったか」と学生課は驚くばかり。

同学館は周辺の日大、中大を追われた各セクトや日大全共闘が寝泊りしており、12日も多くの日大生が学館内に逃げ込んだため、巻添え逮捕が起ったらしい。(中略)
同大学では、事件後警視庁と神田署に抗議する一方、逮捕学生の即時釈放を要求、職員が実情調査に当っているが「調べ中だといって警察ではなかなか教えてくれないので」と、事実をつかむのに苦労している。

14日午後、同大学記念講堂で開かれた学生集会には約千五百人の学生が集り、中川富弥学長も参加、大学当局の抗議方針を説明した。
だが、学生たちは「警察が公衆便所にでもはいるように何のこだわりもなく大学構内に立入るようでは、自治もなにもない。」と怒り、逆に大学側の追及をはじめ、学生部の廃止、寮、学館の学生管理を要求、「全学封鎖」の声まで出始めている。(後略)』

明大記念館で行なわれた14.15日の「大衆団交」には、明大新聞によると延べ5,000人もの学生が参加した。
学生側は学館乱入・不当逮捕問題が全学的なものであるのに何故学生と教職員一体の抗議集会が開けないのかと迫ったが、平和的に文書・口頭で権力に抗議するという大学側と、権力には受身でなく積極的に行動し、大学側も学生と共に闘えとする学生側の意見は平行線でかみあわず、結論は出なかった。
また、学生部廃止問題や、67年の学費値上げ反対闘争時の諸問題も取上げられたが、意見は対立したまま「団交」は終わった。

学生会中執は4月25日、「4.28沖縄デー」に向けて駿河台記念館に約2千人の学生を集めて「臨時学生大会」を開き、出席代議員の過半数の賛成を得て、26日から3日間の全学ストに入った。
全学ストが可決された後、明大前通りを約500名がデモを行い、記念館正門にバリケードが築かれた。
4.28ストに入った大学は、東大、九大、北海道大、法政、同志社など全国37大学。
4.28当日は、明大、東京医科歯科大に集結した社学同、中核派、日大全共闘、ML派などが御茶の水駅を中心に市街戦を繰り広げ、“カルチェラタン”が再現された。
(つづく)

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1994年に全共闘白書(新潮社発行 全共闘白書編集委員会編)が刊行された。
「プロジェクト猪」(1947年生まれの猪年にちなむ)が事務局となって、当時、全共闘に関わった人たちにアンケート調査を行い、その回答と事務局の呼掛け人座談会、大学当局者・教員のコメントなどを編集してまとめた本である。
このブログを見ている方の多くは、すでに読んでいると思うが、私は最近まで読んでいなかった。
ブログを書くには読んでおく必要がある文献と考え、図書館で借りて読んでみた。

全国81大学・高校の250人近い方々のアンケート回答が掲載されている。
アンケート項目は以下のような46項目に及ぶ細かいものである。
運動参加の理由、自己評価、あの時代に戻れたら、革命、社会主義の有効性、運動と人生観、印象的な闘い・事件、元活動家の沈黙、運動を離れた主因、運動は人生に役立ったか、運動による損害、過去を家族に話しているか、運動の歴史的役割、現在の学生運動の停滞、子供が学生運動に参加したら、当面の最重要課題、10年後の最大関心事、現状、年収、女性と家庭、家事・育児の男女分担、子供と塾・予備校、外国人労働者、自主的活動、労働組合、倫理に反したこと、嫌いな文化人・言論人、憲法、安保条約、自衛隊、自衛隊のPKO参加、日の丸、君が代、国連の安全保障機能、日本の安保常任理事国入り、選挙、支持政党、最も嫌いな政治家、最も好きな政治家、政界再編成のあり方、ぜひ発言したいこと。

明大も19人が登場するが、414B統一戦線の仲間であったK氏が実名で回答を寄せているのを発見した。
【全共闘白書】(新潮社発行 全共闘白書編集委員会編)(引用)
『1.運動参加の理由
  自らの信念で。歴史を変えたいと思い、その原動力は学生しかないと思って参加した。
 2.自己評価
  誇りに思っている。歴史は変わらなかったかもしれないが、社会は変わったと思っている。その中で行動できたことは意義のあることであったと思っている。
 3.「あの時代」に戻れたら
  また運動に参加。人間はそう簡単には変わらないと思う。あの時代の“炎”は完全には消えているわけではない。
 4.革命
  信じていなかった。
(中略)
7.印象的な闘い・事件
 4.28沖縄デー。大学に入って初めての街頭闘争であった。10.21国際反戦デー。学園闘争(1969年)
8.元活動家の沈黙
特に何も思わない。各自生活があり、妻がいて子供がいて・・・。“政治的”な意味がわからないが、社会的な地位の中で沈黙を守っている仲間は少ないが・・。
9.運動は人生に役立ったか
少なくとも“闘うこと”のみは持続。それが経済的な目的のみであっても、また他の世の中を相対的に見ていられることは何にもまして役立つことである。
(中略)
54.安保条約
堅持
55.自衛隊
合憲
57.日の丸
認める。赤ヘルがブントであり、青ヘルが社青同であり、白ヘルが中核であるように日の丸は日本の国旗である。
58.君が代
認める。インターナショナルが労働者の歌であるように、日本の歌はとりあえず君が代である。
64.支持政党
新政党
65.最も好きな政治家
小沢一郎 
(後略)      』

革命は私も信じていなかった。あの時代に戻ったら私も再度、闘争に参加すると思う。それが敗北と分かっていても。
「日の丸」と「君が代」に関する例えはK氏らしいが、強引だなあ。
白書を読んでいて、好きな政治家に小沢一郎を挙げる人が多かったが、K氏もその1人か。

この本を見て、「全共闘白書」のアンケートが私のところへも送られてきたことを思い出した。
当時、私的には「沈黙の時代」。アンケートの何も書かれていない回答欄を見ながら、書こうと思っても「ことば」が何も出てこなかった。
結局、白紙回答で名前だけ書いて返送した記憶がある。
アンケートでは「今こそ語り始めよう全共闘世代」と呼びかけていたが、私にとって、語るべき時代はまだ先だったのだ。

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青山学院大学の闘争の状況を3回にわたって紹介してきたが、今回は番外編。

この写真は「朝日新聞報道写真集1970」に掲載されたキャノンの広告である。
見開きで2ページにわたる広告のコピーには「これから10年、忘れがたい事実を伝えるのは活字かレンズか」とある(今回は写真を大きめに掲載しています)。
宣伝する製品をアップにしたものや、単にカメラを持つカメラマンを写した広告が多い中で、この広告はメッセージ性が強く、インパクトのある広告である。
キャノンといえば、昨年は派遣切りや会長の知人の脱税問題などで評判を落としているが、別にキャノンの宣伝で今回の連載を書いているわけではないので、念のため。
ヘルメット姿の学生や立看板が出てくる商業広告は、私の記憶している範囲ではこの広告だけではないだろうか。
“広告は時代を映す”といわれるが、この広告は1969年という時代を反映した広告の1つだろう。

この写真を撮った場所は青山学院大学と推測される。背景の立看の右下に青学大の文字、そして社学同のヘルメットを被った学生。(青学には社学同がいた。ロックアウト後は、明大に青学の亡命政権があった。)
立看板の文字は典型的な立看文字。
ロックアウト策動粉砕というような文字だろうか。時期的には全学バリケード・スト後の1969年6~7月頃と思われる。
外国人カメラマン同行していたスタッフが偶然かやらせかは別にして、意識的に撮った写真だろう。

外国人カメラマンがバリケードを非難(と思われる)し、社学同のヘルメットを目深に被った学生が英語を理解しているかいないかは別にして、腕組みしてカメラマンを見据える。
この写真を見て、社学同ならカメラマンに向かって悠然としてこう話してもらいたいと思った。
ヘルメットに書かれた「世界同時革命」について英語で喋る。

Turn International Class Struggles
In The World under Transition
Into A Struggle to Destroy
Imperialism of Each Nation And
For World Proletarian Dictatorship
(過渡期世界における世界的な階級闘争を、各国の帝国主義打倒と世界プロ独へ向けた闘いに転化せよ)
1969年に開催された「反帝国際会議」のポスターにあったスローガンである。

この広告は、見ているといろんなことが想像されて非常に面白い(興味深い)広告である。

さて、1994年に全共闘白書(新潮社発行 全共闘白書編集委員会編)が刊行され、全国の大学や高校で闘争に参加した学生のアンケートが掲載されているが、当時、青学大の全共闘に参加した文芸評論家の高野庸一氏が「運動参加の理由」という項目に、こんなことを答えている。
『今でも不思議だと思っているのですが、カール・マルクスの読書体験や新左翼系の知識などまるでなく、そして誰かに教わったのでもないのに、ある日突然にアジ演説をしていたというのが現実だったのです。
デモに行く前にインターナショナルの歌詞を渡されたことを記憶しています。ほとんどの参加者たちはその歌を知らなかったのです。』

青学大闘争に限らず、他の大学でも、闘争に関わった者の多くは同じような体験をしているのではないだろうか。
大学入学当初は、私も同じように「カール・マルクスの読書体験」や「新左翼系の知識」などまるでない状態でヘルメットを被ってデモをしていた。
インターナショナルの歌詞も、何回目かのデモでやっと覚えたような状態だった。
デモで歌を歌うことなど知らなかったので、最初は戸惑い、肩を組みながら、皆が歌うインターナショナルの歌詞を黙って聴いていた。

今後も全国学園闘争の紹介をしていく予定であるが、当時の資料を見ていると、全共闘といっても各大学によって状況が異なり、一様ではないことがよくわかる。
 全国学園闘争は東大・日大闘争だけでなく、様々な闘いがあったことを伝える必要があると感じている。

(終)



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全国学園闘争、青学大編も3回目となる。
今回は、1969年6月の全学バリケード・スト以降の青学大の様子を当時の新聞記事から見てみよう。(写真は毎日新聞から転載)

【要請なく機動隊入る】毎日新聞1969.6.26(引用)
『全共闘(反日共系)が全学バリケード・ストにはいっている東京・渋谷の青山学院大(村上俊亮学長)で、25日午後1時すぎから同大記念館でバリケード・ストに反対する体育会主催の全学集会が開かれた。
これを阻止しようとする全共闘の150人が同1時25分、ヘルメット、鉄パイプで“武装”して同館入口をイスなどで封鎖、同館西側で集会を開いた。
このため、双方の衝突を警戒して学外で待機していた警視庁機動隊200人が同2時15分、学内にはいり、集会中の全共闘学生を包囲、着色液をかけて学生61人を凶器準備集合罪現行犯で逮捕した。
学内にいた千数百人の一般学生は「帰れ」のシュプレヒコールを浴びせ、投石した。
さらに機動隊立入りに反対して学内をデモ行進し、抗議集会を開いた。
大学側は、この日の朝から学内のウエスレー・ホールで緊急学部長会議を開き、衝突の危険が迫った場合、機動隊を導入することも検討していたが、機動隊立入りのときは両派とも大学側に「挑発行為はしない」と約束して集会中で緊迫した状態ではなかったという。
福島杉夫交渉委員長(経営学部教授)は「警察から“学内に入る”と連絡があったため、“もう少し待ってくれ”と伝えに行こうとしたら、入ってきた。要請なしに立入られ、信頼が裏切られた」と語っていた。
このため、大学側は同夕、緊急学部長会議を開き、警察に抗議する態度を表明した。
一方、吉田喜三郎渋谷署長は「事態が切迫していると判断し、はいった。3分前に学部長会議の席に連絡したが、拒否されなかった。もし拒否されてもはいるつもりだった。」
と語っている。
全共闘は20日から無期限ストにはいり、25日に大木院長、理事会との団交を要求したが大木院長が24日夕「団交拒否」を回答したため、25日朝までに青山学院本部、大学本部のある8号館などおもな建物を封鎖した。』

【学長、全学部長が辞任 “話合い路線”実らず】毎日新聞1969.7.5(引用)
『全学封鎖が続く青山学院大で、村上俊亮学長をはじめ恒田文次法学、早川保昌理工、佐竹明文学、土田三千雄経営、柴田敬経済(代理)の全学部長が辞表を提出、4日開かれた理事会で承認された。
辞任の直接のきっかけは、6月25日に機動隊が要請もしないのに学内にはいり、全共闘学生61人を逮捕したことに責任を感じたためとみられる。
村上執行部はことし3月、大木金次郎学長(現院長)からバトンタッチしたあと、全共闘を力で制圧することを避け、学内に大学問題研究委員会を発足させたり、学生と執行部とのパイプ役になる交渉委員会を設けるなど“話し合い路線”で解決に努力してきた。
しかし、大木院長に反発する全共闘の戦術エスカレートと警察力の介入後、全共闘、スト反対の体育会系など左、右双方の学生から突き上げられて退陣に追い込まれた。(後略)』

【青学大の機動隊導入 バリケードを撤去】毎日新聞1969.8.21(引用)
『警視庁は反日共系学生が6月からバリケードで全学封鎖していた東京渋谷の青山学院大学(大平善梧学長)から21日早朝、機動隊の出動要請があり、同朝午前6時半、機動隊員200人を動員、2ヶ月ぶりにバリケードを解除した。
大学法施行以来、都内で機動隊を導入した大学は中大に続いて青山学院が2校目。』

【警備員詰所に放火 検問に反発の学生】毎日新聞1969.10.28(引用)
『27日午後1時半ごろ、東京渋谷の青山学院大(大平善梧学長)正門検問所で、登校した非常勤講師の鈴木武樹明大助教授が、身分証明書の提示をめぐって警備員と口論を始めた。これを見た学生4,50人が警備員を取り囲み、同3時すぎ8号館に押しかけ、2階学長室隣の総務課ドアをけ破って、中にいた大平学長を軟禁状態にして「通行証を撤廃しろ」「大衆団交を開け」などと迫った。
また、興奮した数人の学生が正門わきにある掲示板をこわして燃やし、警備員詰所に火をつけ、木造プレハブ3.3平方メートルが焼けた。
このため、大学側の要請で機動隊約250人が出動、学生に退去命令を出した。8号館にいた学生は大木学長を力ずくで外へ連れ出し、「学長の口から機動隊を帰すようにいえ」と詰め寄ったが機動隊が大木学長を救出、午後5時ごろ構内にいた学生約三千人を校外に押し出した。(中略)
同校では学生に通行証を発行して、10月1日から約3ヶ月ぶりに授業を再開した。しかし学生たちは、通行証の発行や学内掲示物が1ヶ所の掲示板に規制されるなど、大学側の強い態度に反発していた。』

鈴木武樹明大助教授、こんなところで活躍していたんですね。
(つづく)

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