このブログを書くために当時の新聞や雑誌の記事を読んでいるが、その中で「あの時代」を伝えるのにふさわしいと思える記事がいくつかある。
今回はそんな中から、「菊屋橋101号」についての記事を紹介する。
(写真は毎日新聞から転載)
【菊屋橋101号は語らず】毎日新聞1969.4.14(引用)
『東大事件 女子学生で、ただ1人 独房の青春三ヶ月
「菊屋橋101号」―東大安田講堂事件で逮捕され、いまなお黙秘を続けている学生9人のうち、ただ1人の女性である。
当初留置された警視庁菊屋橋分室の留置場番号をとって名付けられた。
いまは東京拘置所に移されているが、四百人を越える留置学生の法廷闘争の“シンボル”として最後まで黙秘をとおすという(弁護団の話)。
すでに逮捕後三ヶ月。“反省”して“分離公判”を受け出所していく学生もいる中で、いったい何が彼女の口を閉ざさせているのか。
独房で“統一公判”を叫ぶ彼女と、彼女を取りまく拘置学生たちの心情と論理は・・・。
黙秘の9人は「尾久5号」「中央20号」「八王子22号」「東京水上26号」「大森36号」・・いずれも留置場のナンバーを呼称として起訴されている。
ほかにも黙秘学生はいたが、逮捕歴があったり、友人の供述などから名前が割れており、いまも氏名不詳というのは、これまで逮捕されたことがなく、特定のセクトにも属さず、少なくとも“東大事件以前”はとりたてて激しい活動家ではなかったということになる。
「菊屋橋101号」―3月末の拘置理由開示の法廷に現れた彼女は明るいグリーンのアノラックに黒のスラックス姿だった。小柄だが色白の美人である。
女子看守に付き添われて入廷した彼女は、拍手の傍聴席に軽く片手をあげ、落ちついた口調で裁判官に問いかけた。
「憲法は黙秘権を認めている。なのに氏名がわからないからといって釈放しないのは憲法の精神に反するのではないか」「罪障隠滅の恐れがあると裁判官はいうが、具体的に罪障とはなにをさすのか」「私の氏名がわからないのは捜査当局の怠慢で、私の黙秘とかかわりはない」。
男子学生の中にさえ、長い拘置に耐えかね「1日も早く釈放されたかった」と分離公判を受けたものがあるというのに・・・。
拘置所でも午前7時起床、夜9時就寝まで、彼女は看守とも言葉を交わさず、おし黙ったまま。
「救援本部から差入れられた本を読むか、独房でメイ想にふけっている様子」と東京拘置所の保安課はいう。
“東大闘争のシンボル”あてに差入れも届けられるというが、暗い独房の生活は決して快適なものではない。麦飯に1汁1菜。化粧さえ許されない。
“近県の大学生らしい”というウワサはあるが、他の学生たちも、彼女に関しては「見たこともない」とかばい、身元が割れることは当分なさそうだ。(中略)
「菊屋橋101号」の主任弁護人、角南俊輔弁護士は語る。「死ぬつもりで彼女は闘争に加わったのだから絶対に口を割るようなことはないだろう。むろん私は彼女がだれだか知っているが・・。」』
だが、“東大闘争のシンボル”といわれた「菊屋橋101号」の黙秘の闘いは、一部マスコミの不法ともいえる報道により圧殺されてしまう。東大全共闘機関紙「進撃」にその状況が掲載されている。
【報道の自由で黙秘権圧殺】進撃1969.5.14(引用)
『3月12日、サンケイ新聞社発行の「夕刊フジ」は、第1面に、さる1月19日の解放講堂闘争で不当に逮捕されて以来、完全黙秘を貫徹して、闘い抜いている我々の女性同志「菊屋橋101号」(留置場番号)の偽装写真(警察から不当に入手し、意識的にモンタージュした疑いがある)を本人に無断でデカデカと掲載した。
そして、週刊誌「ヤングレディ」4月21日号に、この「夕刊フジ」の記事が複写転載された。
これに気づいた彼女の弁護士、彼女の友人らが4月29日、夕刊フジに「肖像権」「黙秘権」の侵害である、と厳重に抗議した。
しかし夕刊フジは「編集権の問題であるので回答できない」と一切の対応を拒否した。
そのうえ、まるでこの抗議に対する報復ででもあるかのように、5月1日付紙面に、再び彼女の氏名、経歴、家族関係など一切を暴露したのだ。
これにより獄中の彼女が唯一の武器としてきた黙秘権はふみにじられ、何も分からずお手上げの態だった官憲は狂喜した。(後略)』
5月6日、東大全共闘はサンケイ新聞社に対する大衆的抗議行動を行なった。また、5月13日には、東大闘争弁護団が「夕刊フジ」の人権侵害を東京法務局に告発した。
(「進撃」5.22号、6/10号にも関連記事があります。ホームページの全共闘機関紙コーナーを参照)
東大全共闘に関わったある女性のブログの中にこんな文書を見つけた。
「私の心の中で “ 菊屋橋101号 ” という名前は夜空の北極星の様に輝いていた。」
氏名がどうであれ、その闘いが示す方角を多くの人が見つめていたのだ。