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前回に引き続き東工大の闘争の様子を紹介する。
どこの大学でもあったことだが、反スト派が学生大会の開催・バリケード撤去の動きを進めていく。(写真は毎日新聞から転載)
【執行部(学友会)を解任】毎日新聞1969.5.9(引用)
『衝突のなか 反スト派が学生大会
スト突入から100日目の8日、午後、東工大はバリケードを自主撤去し、封鎖を解いたが、スト派の全闘委(反日共系)とこれに対抗する革推会(ノンセクト)、工真会(同)らの学生の対立が一挙に表面化し、追いつめられた形の全闘委は、他大学並みにゲバ棒を登場させた。
事態はなお流動的だが、同大は都内に残っていた唯一のバリケード封鎖校。
機動隊の導入なしで曲がりなりにも自主解決路線への第一歩を踏出したわけだが、大学関係者は「大学人の最後のトリデとして、独力で守り抜けるかどうか」注目している。
8日の大岡山キャンパスは全闘委学生約200人、革推会を中心とし一般学生も含めた学生大会実行委系(ノンセクト)の学生約1,000人、ネトライキ組の傍観学生約1,000人でふくれ上がった。午後1時半正門前バリケード撤去に成功した実行準備委系は、150人の行動隊を3つにわけて陽動作戦に出た。
2時20分すぎ、学生大会の会場に予定している講堂の入口に築かれたバリケードの1つを実力で撤去、どっと講堂内へ。
バリケード撤去を決議した2.14学生大会を無視し、封鎖を続ける全闘委に対し、革推会、工真会、日共系の3者は学生大会実行準備委をつくり、千百余人の署名を集め、学生大会開催、現学友会不信任の工作を進めてきた。
定員をわずかに50人上回る千二百余人の学生を講堂に結集させて大会成立を宣言した実行準備委は、午後5時半ヽ慷Р饉更塢瑤硫鯒き∋団蟷位鬚料出10日以内に学生大会を開催する、旨の議案書を示し、拍手で賛同を求めた。
これに対し、この学生大会を“デッチ上げ”として、全闘委は自ら築いた残る2つの入口のバリケードをこわして会場に突入しようとしたが、容易に撤去できず、大会議案が拍手で認められたあと約千人の学生がさっと会場を出た直後になだれ込み、学生1人をゲバ棒で袋だたきにした。』
この記事の中に出てくる革推会(ノンセクト)のリーダーは、民主党の菅直人議員だった。今年、朝日新聞に連載された「反逆の時を生きて」というシリーズの中で、当時のことを語っている。
【反逆の時を生きて】朝日新聞2009.7(引用)
『卒業まであと2ヶ月、東京工業大4年だった菅直人は就職も決まっていた。泊まり込みで卒業研究の実験をしようと大学にやってきた。
どうも様子がおかしい。学生がたくさん集まり、騒然としている。69年1月、東大の安田講堂攻防戦のころだ。東工大でもスト、バリケード封鎖へ。
「それこそガソリンをまいたような雰囲気ですよ。ワーッとなっている。ヤジ馬根性であれこれいっているうちに、逃げ出せなくなって」
菅は、全共闘でも、共産党系の民青でもない「全学改革推進会議」をつくった。
「社会や大学のあり方を問うところは全共闘に共感した、だが、彼らに任せておくと闘争がセクトの手段に使われる。われわれに団交をやらせよ、と学生大会に提案、それが通った。」
だが全共闘はバリケードを解かない。菅は取り囲まれ、自己批判を迫られた。「あのときの緊張感は忘れられないね。」(後略)』
菅氏には、「あのときの緊張感」を忘れずに政治をやってもらいたいものだが、この反スト派「野合三派連合」による学生大会も効果なくバリストは続き、ついに機動隊が導入される。
【東工大に初の機動隊】毎日新聞1969.7.10(引用)
『大学側の要請で バリケード撤去、逆封鎖
寮の管理問題から紛争が続いている東京工大(東京目黒区大岡山)は、加藤六美学長代行が警視庁に機動隊の出動を要請、10日朝、約300人の機動隊が出動、正門、校舎などのバリケードを撤去した。
同大に機動隊が出動したのは初めて。大学側ではただちにロックアウトを行い、学生の立ち入りを禁止した。
この措置は当分の間続け、この間、機動隊が常駐するという。
同大では大学側が話し合いによる自主解決路線を提唱、教官の自己規制などを含む思い切った改革案を出して全闘委側の学生と折衝してきたが、加藤代行は「新入生の授業のタイムリミット、研究室などが破壊される恐れが出たため、この措置に踏み切った」と述べた。
ハト派からタカ派に突然変わった大学執行部のやり方に、一部教官の間からの批判の声が出ており、紛争はさらにエスカレートするとみられる。(後略)】
(つづく)
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