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全国学園闘争シリーズ5回目は、京都の龍谷大学。
龍谷大学は、1639年に西本願寺に設けられた「学寮」にはじまる、370年もの歴史がある西本願寺の宗門大学である。
宗門大学ということで「浄土真宗の精神」が、龍谷大学の建学の精神ということになる。
龍谷大闘争の様子が朝日ジャーナルに掲載されているので見てみよう。

【学園ハガキ通信】朝日ジャーナル1969.10.26(引用)
『僧に非ず俗に非ず(竜谷大)
青年とともに学び問題を解決していた親鸞、国家権力と対決し抵抗していた親鸞、しかしながら、今ある親鸞精神とはなんであろうか。
仏教そのものが門徒から寄付金を搾取するものでしかありえないし、西本願寺そのものが、そのための機構でしかありえない。
仏教そのものが「死体埋葬業」と言われるまでになり、ただ形式どおりの念仏をとなえるものとなってしまった。このような状態においても、何ら対応策を考えない。
西本願寺があるというだけで仏教があるというような幻想を作り上げてしまった。
本願寺はまた、ハレンチにも竜大にまで介入してきた。竜大は本願寺のためにあるのではなく、全人民のためにあるのだ。
われわれはこのような介入を許すことはできない。
本願寺宗教権力下にある竜大に全学無期限バリケードを築くことによって、僧侶大量養成所=竜大の機能をマヒさせ、本願寺との関係を断ち切り、日大闘争で表現された破壊の思想をもって、西本願寺宗教権力を徹底破壊してゆかねばならない。
破壊こそが、あの「教行信証」にある「主上臣下法に背き義に違し」「すでに僧に非ず俗に非ず」の精神である。
(竜大仏教闘争委員会のパンフレット「非僧非俗」No4から。なお竜大は9.12より全学無期限バリケードを築いている。)
(文学部・白須浄真)』

このバリケードは約50日続くが、バリケードを築いた当日、同じ仏教系の京都女子大とともに西本願寺突入闘争が闘われた。(写真は毎日新聞から転載)

【西本願寺に1000人乱入】毎日新聞1969.9.13(引用)
『“学生一揆”に法灯大ゆれ 重文もメチャメチャ 「大学への介入やめよ」
京都・西本願寺へ12日午後、同宗門立竜谷大全共闘、京都女子大全闘委などの学生約千人が「本山の大学への不当介入粉砕」「本山解体」などを叫んで押しかけ、警官のピケを破って境内になだれ込んだ。
学生たちは土足のまま西本願寺で最も神聖とされる御影堂と阿弥陀堂に“一向一揆”のむしろ旗を先頭に突入。重文御影堂の障子2枚をこわし、投石で柱に無数の傷がつくなど大荒れ。
防戦に出た本願寺職員と衝突して双方に約40人の負傷者が出た。

この日正午過ぎから、竜大深草学舎(京都市伏見区)で、竜大全共闘、同ベ平連、同ノンポリ・ノンセクト連合、京都女子大全闘委など主催の「大学立法粉砕、本願寺不当介入粉砕集会が開かれた。
この後約1,200人が市中デモをし、午後3時過ぎ、下京区の西本願寺総門前に着いた。
届出のコースは、ここから南下して西本願寺隣の大宮学舎に向かうことになっていたが、先頭のヘルメット学生約100人は、警官約20人と警察のトラックでつくっていた総門前の阻止線を一気に突破して構内になだれ込み、続いて他の学生も全員構内に突入した。
正面の重要文化財御影堂(大師堂)前の広場を埋めた学生たちは「本山の不当介入抗議集会」を始め、御影堂の階段に土足ですわり込み、さい銭箱の上に乗って次々と本山批判の演説をした。
同3時40分、リーダーが「責任者の太田淳昭総長が現れぬなら土足で本堂に踏み込む」と演説。
ヘルメット学生約100人が土足のまま御影堂階段から回廊で駆け上がった。
本山側は若手職員、信者、学生ら約50人が廊下に待機していたが、学生はこの列に突っ込み、旗ザオを振ったり、なぐりあいの乱闘となった。
階段下の学生からの砂利やこぶし大の石が投げられ、正面の障子や柱に傷がついた。
本山側はあわてて同堂の板戸を降ろしたが、学生の体当たりで障子2枚がこわれた。
いったん突入をあきらめ集会を再開した学生たちは、同4時10分、今後は御影堂の回廊を土足でデモしたあと、約70メートルの廊下(重文)を駆け抜け、北隣の阿弥陀堂(本堂・重文)回廊へも乱入、ここでも職員と衝突、投石を繰り返した。
同4時半、学生たちは境内から大宮学舎構内に移り集会「今後も本山との対決を強める」と気勢をあげて散会した。(中略)
対立のきっかけは竜谷大が8月末に発表した「竜谷大学改革試案」。この中で大学側が「学長には僧籍は必要でない」としていることに、同本願寺が「僧籍が絶対に必要だ」とクレームをつけた。
学生たちは「不当介入だ」と本山を批判していた。(後略)』

“一向一揆”のむしろ旗を掲げて1,000名の部隊が西本願寺に突入、宗教系大学はラディカルですね。