野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2009年12月

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今年、「1968」という上下2冊の本が話題となった。
1968年から1972年頃までの時代について『「あの時代」の叛乱が「なんであったか」「戦後史に何を残したか」をあえて主題とし、「総括」を試みる』という本である。
この本はまだ読んでいないが、上巻の表紙の写真について明大の学生ではないかという指摘があり、関係者に聞いてみようと思っていたところ、朝日新聞の書評に『上巻の表紙の写真は評者と同じ大学の後輩ノンポリ学生』という記述があり、早大の学生であることが判明した。明大の学生でなくて残念・・。
そんなこともあり、今年の最後の野次馬雑記の写真には、「1968」の表紙を真似て私が作った仮想の「1969」という本の表紙イメージ(写真)を載せてみた。
ちなみに「1969」という本には、今年から始めた全国学園闘争シリーズも含め、1969年に関する文章が載っているという想定。

さて、この野次馬雑記を読んでいただいている皆さんは、今年は1969年に関する文章が多いと感じているのではないだろうか。
一応、この野次馬雑記では1970年前後の時代に関する事柄を紹介していくという方針なのだが、どうしても関心が1969年に向かってしまう。
1969年は1960年代から70年代へ移ろうとする時代の境目の年である。
1968年は時代の転換点として常に注目されているが、1969年は1968年に連続している年として語られてしまう。
それは歴史的、社会的には正しいと思うが、個人的には1969年への「こだわり」がある。
今年、全国学園闘争シリーズということで、東大・日大闘争の陰に隠れて忘れ去られようとしている全国の学園闘争に関する新聞や雑誌の記事を紹介していく作業を始めたのも、その「こだわり」が一因だろう。
マスコミ等では全国の学園闘争は皆同じで一律に語られることが多いが、闘争の時期、地域、大学の個別性などにより、それぞれの「闘争」は異なると思うし、闘争に関わった者たちの想いも、関わった場面が共通しているということはあるにせよ、1人1人異なり、それぞれの学園闘争、全共闘運動があると思う。
そんなことが、この全国学園闘争シリーズで少しでも明らかになればと思っている。

このシリーズとして、今まで明治学院大、青山学院大、東洋大、東京工大、龍谷大の闘争を紹介してきたが、書きながら気になることが出てきた。
このブログはヤフーのジオシティーズに登録している関係上、1回二千字という制限があり、引用する資料の全部を紹介しきれないという問題を常に抱えている。
また、ブログの更新が週1回(作業としてはこれが精一杯)で、同じテーマで続けて書くにしても3回(週)位が限度であるため、私の独断で新聞や雑誌の記事の一部を編集引用して紹介する形になり、どうしても私の想いが入った文章になってしまう。
1969年4月に明大に入学し、闘争に関わった個人の視点での文章である。
そのため、私が意図しなくとも、結果的に「偏った歴史」となってしまう恐れがあるのではないか、ということが気になった。
その問題を解決するため、ブログで紹介した資料をできるだけ忠実に「読み手」に公開していく必要があるのではないかと考えていた。

その折、ある方のご厚意により、当時の貴重な資料を寄贈していただいたので、それを核にして資料のWeb書庫というべきものをつくろうと思い立った。
そして、ホームページの「新左翼機関紙・冊子コーナー」が新たな資料の公開を終了する時期にきていたこともあり、10月末からHP上に新たに「1968-69全国学園闘争図書館」コーナーを作り、既に公開中の全共闘機関紙とともに、資料の公開を始めた。
このコーナーの中に、ブログで紹介できなかった雑誌の記事などの全文が見られる場所を設けて公開していこうと思っている。
作業は休日しかできず時間も限られているため、スローペースでの公開となるが、このブログとHPの「図書館」の2本立てで全国学園闘争の紹介をしていきたい。
なお、このコーナーは「マル共連」(マルチメディア共産趣味者連合)の掲示板に書き込まれたこともあり、すでに900件近いアクセスがある。

今年もこの野次馬雑記には、数々のコメントが寄せられた。本題と関係なくコメントが続く回もあり、私が言うのも何だが、本題よりコメントの方が面白い回も多くある。
コメントもそれが集まれば、ジグソーパズルが出来上がるように「あの時代」が浮かび上がってくるというご意見も寄せられた。
来年も皆さんのコメントを楽しみにしている。

最後に、野次馬雑記も2年が経過したが、こんなに続けられるとは私自身思ってもいなかった。
いつまで続けられるか分からないが、引き続き1970年前後のあの時代の持つ意味にこだわり、時の流れの中に消えようとしている「あの時代」の匂い、吹き抜ける風、喧騒、そして私たちが作ろうとした「物語」の断片を、「1969」という仮想の本に包んで届けていきたい。

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No108の続きです。
6月21日にⅠ部全共闘が結成され全学バリケード・ストに突入したが、7月3日、スト後、初めての連合教授会団交が記念館で開かれ、約5,000人の学生が参加した。(写真は明大新聞から転載)

全共闘は、①全共闘を正式に承認せよ②学校側が出した警告と「学生諸君へ」の要請書の撤回と自己批判③学生のスト権をどのように考えているか④大学立法反対といいながら大学は何も活動をしていないではないか、と大学側に回答を求めた。
大学側は、①全共闘と中執の関係がよく理解できない②警告文は学園の自治を守り学生諸君に理性的行動を求めるために発したものだ③学生自治の建前からスト権は認める。しかし、バリケードは異常事態と思わざるを得ないので、バリケード・ストライキは認められない④大学立法に関してはわれわれにできる行動で反対している、と回答し、議論が続いた。
しかし、全共闘承認問題など最後まで一致点を見出せず、11日に再度団交を持つことで閉会した。

7月6日、和泉校舎でⅠ部全共闘を構成する最大党派である社学同の内ゲバが起こる。その後の明大全共闘の行く末を暗示するような出来事であった。
【社学同統一派、まっ二つ】毎日新聞1969.7.7(引用)
『(前略)社学同統一派が、戦術問題をめぐって急進的な関西派とやや穏健な関東派に分かれ、6日朝、東京杉並区の明大和泉校舎で衝突、事実上の分裂状態に陥った。(中略)

6日午前9時25分ころ、東京杉並区和泉の明大和泉校舎本館前で約100人の関東派と約50人の関西派がそれぞれ角材にヘルメットで武装、ぶつかった。
衝突はまもなくおさまったが、約1時間後、同校東側の同区永福町1の8の1、築地本願寺墓地内でも両派が内ゲバ、数で劣る関西派が追出され、2人が重傷を負って病院に収容された。(中略)
警視庁の調べだと、社学同統一派は14日から16日まで中大講堂で安保へ向けての大会を開く予定だったが、6月下旬千葉で開かれた幹部会議などで、11月の佐藤首相訪米阻止闘争などの戦術をめぐり、「革命軍をつくって決戦」という急進的な関西派と、やや穏健な関東派の意見が分かれ、微妙な対立を続けていたという。
両派の対立は大会前にさらにもつれ、5日夜、関西派が上京したため、関東派も動員をかけ、神田駿河台の中大、明大、お茶の水の東京医科歯科大などに両派約600人が泊まり込み、こぜり合いを続けていた。(後略)』

この7月6日の内ゲバについて、当時、明大Ⅱ部にいた重信房子氏が、「図書新聞」の「60年代・70年代を検証する」シリーズの中で語っている部分があるので、紹介する。
【全共闘の魂はアラブを駆け巡った】図書新聞2008.9.13(引用)
『(前略)赤軍派の結成というのは、明るいのもではありませんでした。いわば「はずみ」で、そうなってしまったというところがあります。
またまちがった形で、どちらにしても「はずみ」で、分裂していたとは思います。当時の党観自体に問題があったと思いますから。
「スターリン批判」をしつつ、日共も新左翼も、党の唯一性、無謬性を原理としてひきずっていて、他を認めない、他を批判することが立脚点になっていました。これは分裂にしかなりません。
分裂の党観においては、指導者の人格にもよりますが、意見のちがいを共存、和解させていく方法論を、当時もちえませんでした。
1969年の7.6事件というのが、赤軍派結成のまちがった「はずみ」を生みました。
これは、赤軍派の党内党的な動きに対しブントの中央指導部から査問や処分を行なおうとしているとのことで、「赤軍フラクの要求する“革命を担う党”への改組に、まじめにとりくんでいない。今のブント指導部ではできない。指導に異議を申し立て、自己批判をせまろう」と、7月6日に、明大和泉校舎におしかけて、当時の議長の仏徳二さんをはじめとする人々を糾弾し、そのはずみで暴力を行使しました。
その時、機動隊が包囲して、当時4.28闘争への破防法適用で指名手配中の仏議長が、赤軍派の暴力で怪我したまま逮捕されてしまいました。
また、当時赤軍フラクは、医科歯科大を拠点としていましたが、戻ったその拠点を、今度は、ブント内の他のグループ、後の叛旗派に襲撃されて、フラクのリーダーだった塩見孝也さんらが拉致されました。この時、これまでいつも一緒に活動していた仲間が襲撃し、されることに仰天しました。
「革命とは、こんなことをしないといけないのか?何か変だ」と。
仏さんを攻撃した時、現場にはいませんでしたが、その話を聞いて反省していたのに、今度は、同じ日に逆に襲撃されて、その時には、私もいたのですが、やられたことに腹をたてました、リーダーがやられて、中大につれていかれてしまった以上、このままではすまない。奪還しなくちゃ!と、一歩またふみだしました。
この7.6事件によって、ちょっと僭越な言い方をすれば、私はルビコンの川をわたりました。(後略)』
(つづく)

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No109で1969年11月13日号の「週刊読売」臨時増刊号について紹介したが、その中の各党派代表者へのインタビューを、党派ごとに抜粋して紹介する。
第1回目は中核派。

写真は友人のK氏が持っているマル学同中核派法大支部の「中核旗」。
K氏は反戦高協と行動を共にしていたので、68年後半から69年頃のものと思われる。赤旗に黒マジックで「中核」の文字。
時間が無い時は、このようにマジックで旗に文字を書いていた記憶があるが、街頭闘争で使ったものか?

【勝利の展望は、機動隊の粉砕から】週刊読売 1969.11.13臨時増刊号(引用)
『全学連中核派副委員長 林 信次(横浜国立大)
<まず70年安保を、どういうふうに、なんのために闘わなければならないか>
はっきりいえば、革命のために闘う。(中略)革命というものは帝国主義あるいは資本主義そのものの生み出す矛盾が人民の耐えられないところまできたときに、人民そのものが不満と怒りをその権力者に対して向けるときに起こる。
そういったものを社会主義の方向にいかに導いていくのかが問われるわけで、それをぼくらが、あるいは組織というものがになわなければならない。
この原則に基づいて安保粉砕の闘いを70年あるいは70年代においてやろうというわけだ。(中略)

<中核派の幹部としてあなたに聞きたいが、安保粉砕に追い込む見込みと、その時期について>
おそらくは、70年代の階級闘争というのは安保粉砕、日本帝国主義打倒を掲げて闘われるだろう。そして、その安保が粉砕できたら日本帝国主義は倒れる。
となると70年代の全闘争に新たな地平を切り開くであろう11月闘争のいかんにかかっているとしかいえない。

<すると11月の佐藤訪米阻止闘争が重要になってくるのか?>
(中略)10月非常時体制が敷かれている。(中略)全国十何万、東京で二万五千、防犯部、刑事部の私服刑事をすべて公安刑事として登用するというふうにして、われわれを押さえつけようとしている。(中略)
10月非常時体制、この新しい統治形態の過程を打ち破るかどうかによって、70年、あるいは70年代は決まるというふうに見ていいだろう。
そういった意味で11月佐藤訪米阻止闘争こそはきわめて歴史的な意味をもった決戦であると思う。(中略)

<民衆のエネルギーの爆発がなければ、革命は達成されないと思うが、具体的に中核派としてそれをどういうふうに動員していくのか?>
(中略)組織というのは目的を追求するけど、大衆は勝てないと思ったらやらない。いまの大学闘争についても若干いえると思うが、かって大学治安立法といえば1万人近い人数が東京だけでも集まっていた。
それが最近少なくなっている。それはなぜか。
機動隊万能主義というものにぼくらが十分にまだ打ち勝っていない。あんなに機動隊が出てはもう大学闘争に勝てないんじゃないか、ということが一つの問題になって伸び悩んでいる。
11月にぼくらが機動隊を一部において、できれば全部においても粉砕できるかのどうか、やはり国家権力の暴力と、われわれの暴力との対決になっている機構を知っておく必要があると思う。打ち破らなければ勝てはしない。(中略)
やはり機動隊をいかに粉砕できるか、しかもそれが機動隊粉砕の闘いと同時に、その方向性は沖縄奪還であり、安保粉砕、日帝打倒であることを全体にしみわたらせようということだ。
やっぱり大衆に勝つという展望を与えてやる必要がある。それはぼくらが一部分でも機動隊を粉砕すれば、大衆は「勝てるじゃないか」という気がする。
必ず後からついてくる。(中略)

<革命の結果生まれてくる理想の国家、あるいは社会像は?>
ぼくらは資本主義すべてを否定するわけではない。資本主義というのは厖大な生産力をつくり上げる。それは認める。
マルクスの言うように、ぼくらは資本主義を歓迎する。しかし、支持しないという立場をとる。なぜならその生産力はブルジョアの利益になるからだ。
しかし、ぼくらはその生産力をもっと全面的に解決する。全面的に開花して物質的に豊富になり、全人民に行き渡るということをもって私有財産意識というものはなくなるだろう。
(中略)いまは違う。労働者が働いてもほとんどの利益はブルジョアジーが取ってしまって、労働者はせいぜい労働力の再生産に必要なだけの賃金をもらうだけだ。要するに食べ、暮らし、生産するというような労働力の再生産に必要なだけで押さえつけている。
しかし、ぼくらは能力に応じて働き、働いただけもらうということを喚起する。(中略)
もう一歩進んで、能力に応じて働き、必要に応じて受け取るということが貫徹されなければならない。人間は物質が豊富で、いつでももらえるというときにはためこもうとしない。
なぜ私有財産制度が生まれたかというと、基本的には貧困が原因だ。(後略)』

週刊誌のインタビューということで、党派機関紙よりもわかりやすい内容となっている。
(つづく)

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連載91で全共闘白書について書いたが、この本は党派、ノンセクトを問わず、全国学園闘争を闘った人たちへのアンケートの回答をまとめたものである。
アンケートの中で「元活動家の沈黙」という質問への回答が気になった。
この質問の趣旨は、元活動家が政治的に沈黙している理由を聞くものなのだろうが、この質問への回答の中に、闘争に関わった者の「沈黙」に対する様々な思いが見てとれる。
以下、そのいくつかを紹介する。

【全共闘白書】(新潮社発行 全共闘白書編集委員会編)(引用)
『「元活動家の沈黙」という質問に対する回答(抜粋)
<東京大学> 66年入学
70年安保闘争の敗北の総括は、「もう一度、各自の持場に戻って、こつこつやっていこう(問題点や矛盾を見つけ、現場で運動していこう)ということであったと考える。したがって、各自の持場を超えた「政治的」なことには沈黙しているのは当然である。

<関西大学> 67年入学
より真摯に活動に関わった人ほど、政治的に関わりたくないのが自然だと思う。全共闘経験を披露しながら現在の政治を語る人を信じたくない。

<京都大学> 65年入学
それでいいと思う。あの時代に私たちが獲得したものは生活あるいは生き方の中に着実に息づいているし、いろんな所で歴史を変えていく力になっていると思う。
元活動家はあくまでもその時代に適用しただけの元活動家なのだから、出てくるべきではない。

<大阪芸術大学> 72年入学
 自分は団塊の世代の少し下なので、当時、運動を担っていた人々が潮の引くように消えたことに、怒りを感じた。かっこ良くやるだけやって、さっさとひきさがり沈黙を決め込んだという気がして、10年くらい前までは、勝手な世代だという判断だった。
今は、日本独特の社会構造の中で自分を守らざるを得なかったのだろうと解釈しているが、謎の部分はまだまだ多い。

<広島大学> 68年入学
沈黙の質が問題だと思います。このごろ、かってともに闘った連中と話をする機会がありましたが、ほとんどが“思い出”としてしか残っていないように思いました。
解体し、敗北した後は、何年たっても当然総括の季節であり、これは個人的にしか担われないものであって、行為的には沈黙するしかないと思いますが、思想的な意味での空虚な沈黙を見てばからしくなります。

<和光大学> 68年入学
何も政治的に発言すればいいということでもないだろう。元活動家の心の中には何らかの形で経験が残っているはず。それを、その場その場でいろいろな形で表現すれば良いと思う。

<早稲田大学> 72年入学
絶望が深ければ深いほど人は沈黙を守ると思うし、「自己否定」という理念が政治的沈黙への道筋となることはある意味で当たり前だと思う。』

「元活動家」の「沈黙」に対し無責任と批判する回答もあったが、それを追認(許容)する回答も多かった。
大学への入学年度の違いや、それぞれの個別の体験を踏まえたうえでの回答なのだろうから、それに対してコメントをする気はない。
ただ、「沈黙」についての私なりの回答を書いてみたいと思う。
私は3年前、ある体験がきっかけとなり「あの時代」を「語る」ことを選んだのだが、それまでは政治的にも個人的にも「沈黙」していた。
大学を離れてから30数年間、「あの時代」のことは語らずに、心の奥底にしまって黙って生きていくことが「あの時代」を体験した者の生き方と考えていた。
全共闘結成、バリケード封鎖、機動隊導入、ロックアウト、内ゲバ、70年安保闘争の終焉、運動の再構築・・・それぞれの場面で多くの人たちに出会い、そして多くの人たちが消耗し、挫折し、姿を消していった。
その間の体験は、政治や組織、思想と自らの関係を常に問われるような重く辛いものであり、懐かしい“想い出”として語れるようなものではない。
肯定することも否定することもできないような「もの」として私の中で「語る」ことを拒んでいた、とでも言っておこうか。それは同時に政治的な活動への参加についてもいえることだった。

当時の闘争に関わった多くの者は「沈黙」の中にいると思うが、たとえ深い「沈黙」の中にいても、当時の「志」を忘れずに、その時々で時代と向き合い、生きていくということが一番重要なことではないだろうか。
「沈黙」には人それぞれに意味があり、「語るべき」時がくれば、どんな形であれ人はそれを「語り始める」と私は思う。

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