野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2010年01月

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No109で1969年11月13日号の「週刊読売」臨時増刊号について紹介したが、その中の各党派代表者へのインタビューを、党派ごとに抜粋して紹介する。
第2回目は社学同。
明大は社学同の拠点校だったので、党派の中では一番なじみがある。

週刊読売 1969.11.13臨時増刊号
【70年安保から世界革命戦争へ】(引用)
『社会主義学生同盟(社学同)全国委員会 中島 弘(中央大)
(インタビューではなく編集部への文書回答です。)

<70年安保について 闘争方針(方法・戦術)>
世界革命戦争を切り開く武装中央権力闘争―戦略的マッセン・ストライキを基軸とする。
武装戦略拠点構築→市街戦形態を推進し、正規軍建設を目指してゲリラとカンパニア闘争を結合し、政治的危機創出・永続的革命戦争の開始。(中略)

<安保前衝戦としてのこの闘争の評価>
11月は安保前衝戦ではない。なにか70年6月が決戦なのではないかという人たちがいるということを聞くが、国会をめぐる政治流動―安保という条約をどうするのかという机上の論議を並びたてることは空文句である。
安保は日米両帝国主義の反革命同盟であり、その実体(米軍―自衛隊)の解体が直接的課題となる。今秋は、安保決戦として位置づけられる。

<沖縄について>
沖縄問題は、本質的に領土問題ではないということが、明確されなければならない。
したがって沖縄領土の返還要求運動(社・共)は、日本帝国主義の沖縄戦略を補完する反革命的な役割をしている。
沖縄問題の本質は、なしくずしファシズムー安保再編―侵略反革命戦争への日帝の侵略反革命前線基地化として把握されねばならない。
政府自身も沖縄問題を安保の重要な一環として位置づけていることだけでも、それが一般的な領土問題でないことの証左である。
(中略)

<70年安保をめぐる統一戦線に関して>
一党では革命をなしとげることはできない。プロレタリア権力機関―ソビエトを展望する統一戦線として、当面六派―七派の反帝統一戦線を形成する。
しかし、しれは諸党派の大衆運動における共同行動のための戦術的統一戦線から、世界革命戦争勝利を基準にした戦略的統一戦線への再編を推進しなければならない。
それを日本共産主義者党協議会として創出する。
権力闘争―党派闘争の基準を明確にし、党派闘争(内ゲバ)多発的今日的状況を止揚するのは、統一戦線の戦略的革命論的意味を認識しえない党派のプラグマティズムによるものである。

<統一戦線指揮系統のできる可能性はあるか>
現在の六派―八派統一戦線は分解を余儀なくされるだろう。質的に飛躍した統一戦線の創出と、その運動、前衛領域における統合を実現しなければならない。

<ノンセクト・ラジカルをどう評価するか>
ノンセクト・ラジカルの形成は、党派の弱さの表現であると同時に、統一戦線の破産の結果である。
ノンセクト・ラジカルを統合する媒介として、統一戦線の強化・党の純化・階級形成を図らなければならない。
また、ここで赤軍の問題について触れておく。
赤軍とわれわれとを分けたものは歴史的認識の相違(時期の問題)であるが、その後の情勢の急速な変化によって、赤軍の行動はある面で認めざるを得ないところに来た。
われわれ八派連合でも、赤軍の統一戦線への参加を確認している。
(中略)

<学園闘争と政治闘争との関係について>
帝国主義の対外侵略の時代は、同時に経済闘争を激成させるものである。
個々の大学の個別的な矛盾として見られる問題も、帝国主義のなしくずしファシズムの個別表現以外のなにものでもない。
個別学園闘争は、全人民的政治闘争に飛躍させられなければならない。全人民的政治闘争の質をもった指導が行なわれなければならない。
問題を個別のわくに押しとどめ、反大学解放運動や、大学コミューンを夢想するごときはサンジカリズム、ドン・キホーテである。
帝国主義の打倒―革命戦争の一環として社会革命的質をもった多様な運動、組織形態が考えられるべきである。
ブルジョア大学―反大学という個別主義は、運動の現実が乗り越えている。個別大学の自足した解放などありえず、革命戦争の根拠地にこそしなければならないのである。』

各党派インタビュー記事は今後も掲載していくが、抜粋で一部しか紹介できないため、機会を見てホームページの「新左翼党派機関紙コーナー」に全文を掲載したいと考えている。
(つづく)

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前回に引き続き、「平凡パンチ」に掲載された、小中陽太郎氏による日大全共闘議長 秋田明大氏への獄中インタビューを紹介する。
(写真は「平凡パンチ」から転載)

【女ってこんなにキレイだったのか 独房の中で8ヶ月激動の時代を見つめる人間秋田】
平凡パンチ 1969.11.24(引用)
『<釈放されたらまずスキヤキに日本酒>
コナカ もし、いま釈放されたら、出迎えの人にまずなにを言うだろう?
アキタ 「オオ、みんな、元気か」たぶんこう言うだろうな。
コナカ それから何を食べる?
アキタ 前はビフテキにビールだったけど、最近変わってスキヤキに日本酒。だいぶ寒くなってきたからね。
(中略)

コナカ ところで、キミの郷里の広島カープは、ことし最下位だったけど、どうすれば強くなると思う?
アキタ ソレソレ。オレ、毎年ガッカリさせられるんだ。出だしがよくって終わりダメ。積極的なエネルギーがないんじゃないか。日大闘争の粘り強さを少しわけてやりたいよ。
(中略)

<ピーターはいいセンいってるヨ>
コナカ もっかシャバでは、ピーターって女装の美少年がウケてるけど・・・。
アキタ 既成の概念を破ろうとしてるんじゃないか。反体制のテーゼといっちゃオーバーだけど。

コナカ モノ・セックスってことば、知ってる?
アキタ 孤独な男にゃ、わからないんじゃないか。
コナカ ソウカナ?孤独な男ならわかる、と思ったんだけどな。いま読んでるものは?
アキタ 「エコノミスト臨時増刊」、「朝日ジャーナル」「少年マガジン」

コナカ つげ義春と白土三平の差はなんぞや?
アキタ つげ義春はよくわからないけれど、どろどろした情念の世界を描写しているのではないの?白土のほうは感情の世界ではなくて、現実の社会、つまり歴史を闘争的に描写し、だれが時代の主人公であるかを訴えようとしているんじゃないかな。だけど最近「ガロ」読んでないけど、「ガロ」の一番最初の「ワタリ」だっけ、あれ読んだ限りでは、思想的限界を表しているようだなあ。

コナカ 「平凡パンチ」は金出して買ったことあるかい。
アキタ ある、ある。高校、大学1年ごろまでよく買ったよ。そういえば、マンガ差入れてくれるのに「パンチ」はあまり差し入れされないな。前に一度ね、パンチ差し入れされたけど、ヌードのところ、黒々と塗られていたよ。ガッカリだよね。

昨年の夏、バリケードの中で秋田クンにあったときは、彼はコッペパンかじりながら「ことしの夏はザック1つさげて北海道に旅行したいけど、それどころじゃなくなって」と、白い歯を見せて笑ったものだが、あれから8ヶ月も権力は彼を暗い独房に閉じ込めている。
数度の保釈請求にも、一度は保釈金百万円、しかも広島に帰れ、という闘争を放棄させる条件をつけ、現在は証拠隠滅の恐れありというナンセンスな理由で、1人の若者を拘置しつづけている。
それでも秋田クンは、いまなお強いことばで語るのだ。
「日大闘争ほど展望のある闘いはない。日大闘争は人間として日大生として、生きていくために避けることのできないものだ。だから、決意などない。ただ、人間として生きて行くだけだ、それが闘争だ。」
そして、闘い半ばにして去っていった仲間にも
「闘ったことを忘れないでほしい。そしてそのことを肯定できる生き方をしてくれ」と望むのだ。
そしてなお、獄中で彼が思うのは外のたたかい。
彼は、全国全共闘に対しても、こう言っている。
「技術的政治的に堕さないでくれ。八派だけでなく、いろいろな学生組織も参加してほしい。
そして11/17の佐藤訪米阻止には、東京中がゴチャゴチャになること、ありとあらゆるところに、戦闘的な人間のウズがわき上がることを期待している」と。

コナカ 山本義隆評聞かせて。
アキタ 物事を理論的に考える人、自己にきびしい人、だけど、この人、あまり清潔じゃないね。2月ごろだったかな汗で汚れて黄色くなった下着着てたよ。

コナカ このあいだつかまった日大全共闘書記長の田村正敏クンは?
アキタ あの男、カタブツに見えるけど、なにしろ毛沢東万歳だからね。案外おもしろいよ。オイラ、あの彼の笑い声にひかれるな。キーキーキーって笑う。まだたくさんあるけど、本人にしかられるからやめるよ。(中略)
 
1日1回の貴重な5分がすぎると、かたわらの看守がリミットを告げる。私と秋田クンのあいだに通っていた、暖かいものが、一瞬、とだえ、冷えびえとした接見室の現実にかえる。
ぐっと歯を食いしばった秋田クンは、看守にうながされて、牢獄の、厚い壁の世界にかえってゆく。
拘置所を出ると、東京の空はぬけるように青かった。』

(終)

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今はもう廃刊になってしまったが、「平凡パンチ」という雑誌があった。
1960年代を代表する雑誌といってもいいだろう。
ファッション、車、女性のヌードなど若者向けのいわゆる“軟派”系の雑誌であるが、当時の学園闘争関連の記事も載せていた。
今回紹介するのは、1969年11月24日号(写真)である。

目次を見ると
ザ・ビートルズの世紀のイタズラ(筆者注:サージャント・ペッパーズをめぐる噂)
白い超ミニのさわやかな17人 <ステージ101>に登場する女のコたち
オトコならやって見ろ! 世間の冷たい眼に挑戦する<奇行>の値段
ワイダンする女の子研究
などの記事が並ぶ中で、小中陽太郎氏(作家・ベ平連)による「この人の証言」というコーナーがあり、第1回目のゲストとして日大全共闘議長 秋田明大氏の獄中インタビューが載っている。
「平凡パンチ」の読者向けではあるが、秋田氏の人柄が伝わってくる内容である。

【女ってこんなにキレイだったのか 独房の中で8ヶ月激動の時代を見つめる人間秋田】
平凡パンチ 1969.11.24 (引用)
『東京拘置所の壁は高く、厚かった。私は、秋の朝、何度か東京拘置所に足を運んだ。
秋田明大に最後に会ったのは1年前の冬、某所から某所へ移動の間のことだった。
8ヶ月ぶりに会う彼と私の間には、面会室の金網が、白く鈍く立ちはだかり、かたわらに、メモをとる看守の姿があった。金網は二重になり、顔の輪郭さえボケテいる。
しかも、面会時間は、たったの5分と厳重に制限される。
二重の金網の向こうから聞こえてくる人間、秋田明大もナマの声をきいてくれ。

<山本クンに会って思わずニヤリ>
東京拘置所の面会人待合室は人生の縮図だ。
小指をつめたヤクザもん。野球帽のオッサンは、競馬場のノミ屋か?
乳飲み子の手をひいた若い女は兎のようにおどおどし、髪をアップにしたトルコ嬢は、ヒモが獄中にいるのか。
白髪の父親が「ガロ」を差入れる。いずれも学生たちの肉親だろう。
私は胸に98番の面会票を付ける。
「三号室に入りなさい」
金網だけが光る。その向こうの小暗いカゲに、紺色のTシャツを着た秋田明大がいた。
土気色の肌、少しむくんでいる。髪も長く、乱れている。
その顔が、にっこり笑って「やあ」といった。

コナカ けさ起きて、ナニ考えた?
アキタ ひとりごと言った。「アア・イヤンナッチャウナ」

コナカ 運動不足じゃないか?
アキタ 独房で体操やるわけ。腕立て伏せ、腹筋、さか立ち、それとコマネズミみたいに走りまわる。いままで体をきたえるため、ハダカでいたけど。このごろじゃ寒くて・・。

コナカ 変わった手紙や知らない面会人が来るかい?
アキタ うん、2.3日前、モミジの押し葉を入れた手紙が来た。「外の空気はとてもおいしいですよ、もう秋ですもの」だって。チキショウ!
それから「あなたは罪を犯しています」。なんだろうね。コレ。

コナカ 君の背番号は?
アキタ 40××番。(獄中の秘密につき伏せ字。でもオレ聞イチャッタ=小中注)
コナカ その番号は、一生忘れないだろ。
アキタ 権力から与えられた屈辱の勲章。でも名誉の勲章だね。

コナカ 看守なんかと話す?
アキタ 若い看守がね、オレの職業どう思うってきくんだ。オレ、答えられないよナ。

コナカ ほかの仲間と話す機会は?
アキタ ないね。あ、そうだ。山本さん(東大全共闘議長)に会ったよ。あれは10.21の前だから20日だったかな。接見に出かけるんで廊下を歩いていたら向こうから声かけるんだ。「おう」といってニヤッと笑ったんでね、こっちも「おう」ってね。

コナカ 護送車の窓から見るシャバのようすは。どうだい。
アキタ それがふしぎに腹立たしくないんだ。街ゆく女性の体、顔つきなんかが、やたら目についてね、女ってこんなにきれいだったかって、目をサラのようにして見るんだけど、アッという間さ。すぐ地裁に着いちゃう。

コナカ 誰にいちばん会いたい?
アキタ ゲバラ、シュバイツアー

コナカ 夢なんか見る?
アキタ ふしぎと見ない。オレ寝ながらドナルらしいよ。

コナカ もしキミが日大に入っていなかったら、今ごろなにしてる?
アキタ 大学出ても、なにするかわからないのに、仮定のことは答えられないよ。ま、しいていえば、百姓でもやってるかな。(後略)』

インタビューはまだ続くが、続編は来週。
(つづく)

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2010年、1970年の安保闘争から40年目となる。
60年安保闘争からは50年目である。日米安全保障条約は70年安保改定から自動更新となり、1年ごとに更新されている。
そういう節目の年でもあり、70年安保・沖縄闘争記録映画「怒りをうたえ」について書くことにした。

「怒りをうたえ」は3部構成で全編は8時間近い長さがある。
映画の主な内容は
第1部 1968.10.21 ~ 1969.5.31
10.21国際反戦デー、1.18-19東大安田講堂攻防戦、4.28沖縄闘争、愛知外相訪米阻止闘争
第2部 1969.6.8 ~ 1969.11.17
アスパック粉砕闘争、新宿西口フォークゲリラ、6.15反安保闘争、8.6広島闘争、9.5全国全共闘結成大会、11月佐藤訪米阻止闘争
第3部 1969.12.1 ~ 1970.6.23
三里塚闘争、4.28沖縄デー、6月反安保闘争

第1部が完成した時の新聞記事があるので見てみよう。
【緊迫した画面の連続 記録映画「怒りをうたえ」第1部完成】1970.3.25毎日新聞(引用)
『ベテランカメラマンの宮嶋義勇氏が中心になってつくっていた長編記録映画「怒りをうたえ」の第1部が完成した。
一昨年の10.21国際反戦デーから昨年5月31日の愛知外相訪米阻止闘争までのフィルムをまとめたもので、新宿、沖縄、佐世保、東大、成田をはじめ各地の激しい反戦デモをもうらしており、緊迫した画面の連続だ。
2時間54分におよぶこの映画は、その意味では“怒りの記録”ともいえようが、単なる70年安保反対ではなく、安保体制を維持しようとする構造そのものに対する闘争であり、それを問いつめようというのがねらいだという。
「60年安保のときは映画人は手をこまねいていた。その自己反省をも含めて日本が大きな曲がり角に立っているときに、映像で記録しておく義務がある」というのが宮嶋氏のこの映画製作の動機だった。
これを伝え聞いた土本典昭氏はじめ黒木、小川、東ら記録映画畑出身の監督やプロダクションが協力し、文字どおり“手弁当”で撮影した。
自前のフィルム、カメラ、テープレコーダーで“スタッフ”は延べ100人に達したという。撮影が済みしだい、そのつどこれまで労働者、学生たちの組織で上映され、ちょうど一昨年のフランスの五月革命のさいフランスの映画人が撮影した“シネ・トラクト”のような成果をあげた。
その後も撮影は続行し、昨年6月のアスパック反対から11月の佐藤訪米阻止闘争までを記録した第2部が4月上旬に完成予定であり、さらに第3部はそれ以後ことしの6.15までをフォローすることになっている。
全巻を一挙上映すれば、かって宮嶋氏が撮影した「人間の条件」の9時間半に匹敵する長さになりそうだが、宮嶋氏は「安保闘争への“起爆剤”の役割を果たせたら、と思う、その意味で多くの人に見てもらいたい」と語っている。(後略)』

このブログでは1970年前後の時代について書いているが、書くにあたって、この記録映画は私の記憶を補完するための、また、当時の状況を再確認するための資料として欠かせないものと考えていた。
第1部は1972年4月に見たが、2部と3部は未見だったので、「怒りをうたえ」上映実行委員会が開催している定期上映会で見たいと思っていた。
しかし、この数年、上映会が開催されていないため、新宿の「模索舎」でビデオを買って見た。
40年前のモノクロの粗い映像であるが、冒頭の「安保粉砕!闘争勝利!」と叫ぶデモ隊の映像から一気にタイムスリップ。
でも、映像を見ながら懐かしさというより心が痛んだ。言い知れぬ喪失感とでも云おうか。

ビデオを見ていて、マップ共闘のT君から「第2部に映っていた」と言われたことを思い出し、注意して見てみると、1969年9月5日、日比谷野音で行われた全国全共闘結成大会の映像の中に当時の「私」を発見した。
当日は駿河台の明大記念館前での集会の後、地下鉄で会場に向かった。「霞ヶ関」駅から日比谷公園に入ったが、公園の入口は機動隊によって固められ、機動隊が両側を壁のように並ぶ中、ヘルメットを脱がされて1列で通らされ、明大の隊列にいた東大全共闘代表山本義隆氏が逮捕されてしまった。その時の“検問”の映像である。
ヘルメットを脱いでいるため素顔、それもアップの映像なので顔がはっきり見えるが、映っているのはほんの一瞬、T君がよく見つけたものだと感心した。

8時間近い長さの記録映画なので、一気に見るには根気と体力が必要。3部構成なので、各パートごとに別々に時間をかけてじっくり見ることをお勧めする。
40年という時を隔てていても、「あの時代」が蘇る。
反戦労働者の闘いを中心に撮っているので、今の時代の労働者にも是非見てもらいたい映画である。

(写真は1992年の20年ぶりの再上映運動の時のパンフレット)

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