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前回に引き続き立命館大学の闘争の様子を紹介する。

69年1月22日の日共系による封鎖中の中川会館攻撃関係の記事が朝日ジャーナルに載っているので見てみよう。
【関西にみる東大紛争の衝撃】1969.2.9朝日ジャーナル(引用)
『(前略)
代々木系の誤算は立命館大学でもっとも鮮明にあらわれてくる。
立命館大学でも京大と同じく、22日夜、大学当局から黄色ヘルメット500個が配給され、京大学生部に武装部隊が突入したほぼ同時刻に、ゲベ棒部隊約200人が封鎖された中川会館に突撃した。
すじ向いから中川会館を見下す存心館屋上には、援護射撃のため数百人の投石部隊が配置され、京大と同様、放水もおこなわれた。しかし、中川会館は陥落しなかった。
というのは代々木ぎらいの体育部を中心とする一般学生が毎日つめかけており、その日は千人以上にもふくれ上がって、武装突撃隊の前に立ちふさがり、素手のうずまきデモで武器を奪って、校門から放り出してしまったからである。

実は代々木系は、これに先立って“暴力学生”実力排除に関して、全学同意をとりつけようと着々と手を打っていた。
18日には代々木系が牛耳る五者共闘(一、二部学友会、生協理事会、同労組、教職員組合)と大学当局との間で「封鎖解除、中川会館内に軟禁されている学寮委員の身柄釈放を20日正午までにおこなえ」という「寮連合」(封鎖派)に対する最後通告を決定。
20日には大学当局と五者との共催で五千人を集める全学集会を開き、即時解除を決議する。(中略)
そしてこの日は、代々木系学友会一派が封鎖解除に押し寄せたが、体育会などの学生が間にはいって収拾してしまう。

ここで代々木系は戦術をきりかえ各学部五者会談と拡大学園振興懇談会を開いて、実力解除の大義名分をとりつけようとする。(中略)
学友会は代々木系が牛耳っているが、学部長も半数が代々木系だといわれ、実力解除、武器供与は簡単に決まった。
ところが、話合い路線を主張する林屋辰三郎文学部長は、実力解除、学部長の自己批判を叫ぶ代々木系学生に一晩抵抗したあげく、22日の理事会に辞表を提出、これに文学部三役の山本幹雄教授と佐々木高明助教授がならった。
さらにノンポリの名和献三・経営学部長と橋本次郎、理工学部長が辞表を出し、理事会の崩壊によって拡大学振懇は宙に浮いてしまったのである。

こうして立命館では京大のように全学一致による武力解決がとれなかったため、理事会は急遽平和解決に方針を改める。
が、この方針変更が武装突撃隊に伝達されないうちに、戦端が開かれてしまった。
ということは、京大と同時期に、大学の“正規軍”として攻撃を開始するという代々木系上部のスケジュールが、簡単に変更できなかったからであろう。(後略)』

翌2月20日、2月18日のゲバルトを口実に機動隊が学内に入り、中川会館の封鎖は解除される。(写真は18日の様子。朝日新聞報道写真集より転載)
【立命館大にも警官隊】1969.2.20毎日新聞(引用)
『乱闘事件 要請なしの“独自捜索”
京都府警本部は20日午前7時40分、大阪府警からの応援500人と府下28署からの約100人を含む制私服警官千八百人を動員、大阪府警のヘリコプター、警備車2、放水車、無線車各1台を装備、京都市上京区河原町広小路の立命館大学広小路学舎を捜索した。

学生の抵抗はほとんどなく、凶器準備集合罪、公務執行妨害、傷害、暴力行為容疑で先月16日いらい反代々木系学生が封鎖する本部、中川館をはじめ、18日夜から19日朝にかけて大乱闘のあった存心館および周辺広場など4ヶ所を検証した。
この間、学生約500人が西門にまた約400人が中川会館前広場にすわり込んだが、小ぜり合い程度で大きな混乱はなく、検証は急速度で進められ、同9時すぎ学生1人(黙秘権行使)を市公安条例違反現行犯で逮捕、警官2人が2日間のケガをしたほか学生数人も軽いケガをした。

同大学では去る18日夜、法学部の反代々木系学生が存心館を占拠したのをきっかけに、同館にたてこもる反代々木系と、その奪還を目ざす学友会の代々木系学生が18時間にわたって投石、放水、角材による乱闘を重ね、19日午後零時半、反代々木系の退去で存心館は封鎖解除されたが、学生約100人が重軽傷を負った。(うち1人重体、2人重症)
府警は19日最高幹部会議で強制立ち入り捜査の線を決めて末川博総長に協力を要請、学内立ち入りを反対してきた同総長も「自主解決は目ざすが、法による捜査ははばめない」との態度を示したもの。

学園紛争の対立をめぐる乱闘事件で大学側の要請なしで立ち入り捜査するのは関西ではこんどがはじめて。
また、立命館大に警官隊が入るのは戦前戦後を通じて最初で、封鎖中の中川会館は1月16日から35日ぶりに解除された。』

(つづく)