
No136に引き続き立命館大学の闘争の様子を紹介する。
【立命館大に機動隊 学生と衝突】1969.5.20毎日新聞(引用)
『20日午前7時ごろ、京都府警は機動隊約400人を動員、全共闘学生がたてこもっていた立命館大恒心館(京都市上京区)の封鎖を解除した。
恒心館内には全共闘の男女学生約200人が泊り込んでおり、屋上や窓から投石したが、間もなく抵抗をあきらめ、20分後には機動隊が館内の捜索にはいり、火炎ビン約150本、鉄パイプ60本、投石用の石トラック2台などを押収した。
全共闘学生たちは全員裏庭の広場に集合、間もなく約100メートル北側の広小路学舎にはいり、正門、西門などのバリケードを築いて同キャンパスを完全に封鎖した。
一方、機動隊の立入りを知った、一般学生、学友会側学生らは、次々に登校、各門で全共闘と激しく投石、学生同士がなぐり合うなど混乱、双方にけが人が出た。
この衝突を見守っていた機動隊約300人は、正午マイクで大学側の退去命令を伝えたあと、まず西門のバリケードと金網を乗越え約100人の機動隊員が構内にはいり、続いて正門からの金網を乗越えて次々と構内にはいった。
バリケードの中にたてこもっていた全共闘学生たちは鉄パイプ、角材を振り上げて激しく抵抗、7人が公務執行妨害現行犯で逮捕された。
学内の乱闘は機動隊の出動でいったんおさまったが、大学側は「警官の立ち入りを認めない」と府警に退去を要請したため、午後零時20分、機動隊は学外に引揚げた。
このあと学内は再び全共闘と学友会側学生が対立、乱闘や投石を繰返してますます混乱を深めた。
大学側は全共闘にマイクで「すぐ学外に立去りなさい」と命じ続けた。
この日の府警の捜索は3月18日全共闘学生が学友会学生の泊り込んでいた広小路学舎の研心館自転車置場に火炎ビンを投込み守衛室に放火3月20日興学館のとびらをこわし、ガスのゴム管の先に火をつけ応接室を焼いた4月8日研心館に乱入、泊り込んでいた学友会の学生、職員に暴行した、などの容疑で大学側も捜索を認めた。』
【“わだつみの像”を返せ 立命館大 破壊学生を責める】1969.5.21毎日新聞(引用)
『「わだつみの像をなぜこわした」「あんな像にいま何の価値があるんだ」
機動隊の立ち入りで荒れた立命館大広小路キャンパスで20日の午後、逃げ遅れた全共闘学生をつるしあげる学友会と一般学生。
かみあわぬ議論と怒声の中で、傷ついた“反戦の像”の表情はわびしかった。
“わだつみの像”は戦没学徒の手記「きけわだつみのこえ」出版を記念して本郷新氏が制作、東京大学に立てるはずだったが学内の一部に反対があって中止、当時の末川博立命館大総長らが昭和28年、同大にひきとり、立命館民主主義を象徴するものとして親しまれてきた。
この像を20日午前9時ごろ、機動隊と争った全共闘の学生が破壊したのだ。
倒された像が左腕をもぎとられ、頭部にぽっかりあいた穴には花がさしこまれ、胸には赤ペンキで「死」の文字が書き込まれる無残さ。
全共闘学生も、末川前総長への激しいつるしあげをしなかったように、像の破壊だけは控えていた。
しかし、いま全共闘学生の1人は「像が立命館民主主義のシンボルであるかぎり、死ぬ運命にあった。立命館民主主義の死は機動隊の乱入であきらか」と語るようになっていた。
機動隊が再び出動して全共闘学生を排除した午後3時過ぎ、逃げ遅れた女子学生2人が“わだつみの像”のあった台座のそばに連行された。
たちまち学友会と一般学生たち4.50人が取囲む。
別の学生がキャンパスの片すみに、こわされたままになっていた“わだつみの像”を運んできた。
「これを見ろ」2人に、無残に穴があいた頭ともがれた手を見せる。
学友会側の学生の1人が「これから全共闘の弁明を聞こう」とマイクで声をはりあげた。
周囲の学生の数は約500人にふくれ上がった。
全共闘派の女子学生がさらに1人、男子学生が4人連れてこられた。
なかには応援にきた府立医大生もいる。
「君たちはなぜ像をこわした」また怒りの声がとぶ。
マイクを握らされた1人は「わだつみの像がいったい立命館大でどん
な役割を果たしたんだ」と叫んだ。
すかさずやじと怒号が渦巻く。
“争点”のかみ合わない押し問答は1時間半にわたって続いた。』
全共闘は、この日(5月20)以降、京大に亡命することになる。
6月28日、立命館大学全学共闘会議法学部闘争委員会の機関誌「CONTESTATION」(コンテスタシオン)が創刊される。
この機関誌はホームページの「全国学園闘争図書館」コーナーで見ることができる。
(つづく)