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全国学園闘争シリーズ第8回目は、東京の慶応義塾大学。

今回も大学の写真を撮りに行った。
JR田町駅を降りて第一京浜国道をまたぐ歩道橋をわたり、慶大方面に向かう。まだ朝が早い時間帯なので、慶大の中等部や女子高等部の学生に混じって大学の正門を目指す。
桜田通りに出て、正門の反対側の歩道から写真を撮ろうと思ったが、構内が工事中で写真写りが良くない。
そこで、東京タワー方面に回りこんで、東門(門といっても建物の1.2階部分が通れるようになっている)でパチリ。(写真)

図書新聞で現在、「60年代・70年代を検証する」シリーズが連載されているが、2009年6月に鈴木正文氏(元慶應文自書記長)のインタビュー記事が掲載されている。
今回はこの図書新聞の記事と、当時の新聞記事から慶大闘争を見てみたい。

【みゆき族から新左翼へ 今は自動車誌を編集】2009.6.20図書新聞(引用)
聞き手は小嵐九八郎氏(作家・歌人)
『1968-69年の全共闘運動の中で、慶應大学でも全学バリケード封鎖が行なわれた。
多くの学生がストライキを支持し、さまざまな党派の活動家が生まれた。
慶大だけでなく、全国の活動家たちは、70年安保再改訂阻止・沖縄返還協定反対を掲げて、犠牲をおそれずに進んでいった。
警察の厳しい弾圧に対抗して武装闘争に向かい、懸命に闘った。
だが、それは軍事路線をめぐって試行錯誤をよぎなくされ、党派的な分裂を深める過程でもあった。
その中の1人、鈴木正文氏に、当時をふりかえり、そしてその後の自身の歩みをふまえて、新左翼の運動の体験を内在的に総括する貴重な話をさまざまに語っていただいた。(中略)

小嵐:では、68年に大学に入ってからのことをお聞きします。
慶應大学では、ちょうど米軍が医学部に委託研究をしていた問題がありました。

鈴木:その年の3月か4月に朝日ジャーナルが暴露したんです。医学部が米軍から研究資金を援助されていたんです。
そのころちょうど米軍によるベトナムでの枯葉作戦が進められていて、大問題になっていました。
多分、その作戦に慶應大学医学部の研究が敏捷に取り入れられていることは、常識的に見てありえないとは思うんですが、大きな目で見れば、米軍が特定の研究のために資金を出していること自体、何らかの見返り期待があると考えられます。
ですから、大学当局の説明がどうあれ、やっていることがおかしいとなって、闘争が始まり、5月にはたちまちストライキに入っていきます。
僕は当然それを担っていくことになりました。(後略)』

【慶大24時間スト 日吉分校大学の公聴会拒否に】1968.7.5毎日新聞(引用)
『慶応義塾大学(永沢邦男塾長)医学部が米陸軍極東開発局から受けていた研究補助金問題をめぐって学校当局の責任追及と1日に予定されていた同問題の全塾公聴会を学校側が拒否したしたことに対し、同校日吉自治会(村川浩一委員長)の「日吉学生大会」は4日昼、横浜市港北区の同大学日吉校舎で開かれ、2回の投票の結果、賛成多数で同日午後8時から24時間ストに入った。

大会には日吉在学生約半数に近い五千人が参加した。
第1回投票は2時間も遅れ午後5時前に行なわれ、総得票数3271票のうち賛成1536、反対1603と反対投票が多かったが、過半数に達しなかった。
このため再投票で賛成が過半数を占めれば24時間に限りストを行い、その後の体制については5日午後3時から東京の三田校舎で開かれる全塾学生大会で決めるという条件で再投票に入った。
その結果、総投票数3011票のうち賛成1797、反対1152票で賛成多数でただちに日吉自治会では正門入口にバリケードを築き、スト体制にはいった。(後略)』

【日吉無期限ストへ 三田で三千人深夜集会】1968.7.6毎日新聞(引用)
『米陸軍極東開発局から医学部への研究補助金問題をめぐって、4日午後から24時間ストに入っていた慶応義塾大学(永沢邦男塾長)日吉自治会(村川浩一委員長、三千人)は、5日午後1時から学生大会を開き、今後の闘争体制を討議、村川委員長から提案されたストの無期限続行について、同4時半学生投票を行なった。
この結果、総投票数1761票のうち賛成892票、反対790票で同自治会は無期限ストにはいることを決めた。
一方、全塾自治会(原信夫委員長)は5日、永沢塾長に対し「6日、三田校舎で塾長団交を開いてほしい」と申し入れた。
これに対して永沢塾長は「塾長団交を受ける意思はない。8日に公聴会を開き、塾長、全常任理事、医学部長、各学部教員有志が出席して学生と意見交換し、説明したい」と述べた。
しかし、自治会側はあくまで塾長団交を求める方針で、スト決議を提案する構え。
三田校舎では午後から経済、文、法、商の各学部ごとに学生大会を開き午後6時過ぎから全塾学生大会を開き、日吉自治会から合流した学生をあわせ、約三千人が深夜まで討論を行なった。』

(つづく)