野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2010年10月

イメージ 1
9月上旬、「図書新聞」から手紙が届いた。手紙は、ある本(写真)の出版記念会の案内状だった。

『「日本赤軍!世界を疾走した群像」の出版記念会へのご案内
暑さの火照りがなお残る日々です。
「シリーズ60年代・70年代を検証する」は、その(1)として「柄谷行人 政治を語る」を昨年出版しましたが、その(2)「日本赤軍!世界を疾走した群像」が、9月に出版されることになりました。
内容は、今年7月に懲役20年が確定、下獄し、日本人グループとして戦後初めて、最も矛盾が集まり厳しいアラブの地において連帯せんとした重信房子氏が軸となっています。
その母体であった共産主義者同盟赤軍派議長の塩見孝也氏は組織出生の格闘を、また日本赤軍兵士として戦火を交え無期懲役となって刑務所に送られている和光晴生氏、映画製作とパレスチナの人々との血と汗の熱い連帯を潜り弾圧を経た足立正生氏、日本と世界を広く実に深さのある視野で映画を撮り続けている若松孝二氏が問題のテーマを、核心ばかりか余裕ある周辺から浮き彫りにして、全体像を明らかにしています。
編者・聞き手は、作家・歌人の小嵐九八郎氏(「蜂起には至らずー新左翼死人列伝」講談社刊の著者)です。
つきましては、捕らわれてしまっている重信房子氏、和光晴生氏になんらかの思いを、そして、この本が魂をふくらませて人々へとながれるようにという願いをこめて、出版記念会を計画しました。
おいそがしいとは思いますが、どうぞ、是非、是非、お出かけを。』

本の出版記念会・・・。このような会合に出たこともないし、どんなものだか見当もつかない。
以前、図書新聞に連載されている「シリーズ60年代・70年代を検証する」の明大出身の二木啓孝氏の回で、資料として1969年の明大新聞を提供したことがあり、その関係で私のところに案内状が来たのだろう。
私のような者が出席していいものだろうかと、ちょっと躊躇したが、これも何かの縁と思い、出席することにした。
会場はJR「水道橋」駅近くの居酒屋。
店の前には「出版記念会」らしい案内も出ていない。
店に入ると、従業員の人が「奥へどうぞ」と案内してくれた。
雰囲気で分かるのかな?
奥の座敷には「図書新聞様」と小さな札が張ってあるだけ。「出版記念会」の文字もない。

定刻を過ぎて会は始まった。
出席者は約30名。明大関係では、米田隆介氏、二木氏、局瑤H氏、N氏、そして私。  
まず、図書新聞のM氏が「著者の2名、重信、和光両氏が下獄している中での出版は格別の意義がある。」と本の出版の趣旨を含めたあいさつがあった。
続いて、著者1人である足立正生氏から「異論はあってもバランスのいい本だ」とのあいさつの後、乾杯。
この後、M氏の進行で参加者が次々と「あいさつ」を行なったが(私もあいさつさせられた)、その中からいくつか紹介する。

著者の1人である塩見孝也氏からは
「日本赤軍は果敢に闘ってがんばった。理論を現実化した。この本はコンパクトに日本赤軍のことがわかる本であり、重信、和光両氏の下獄への餞(はなむけ)の書である。
日本赤軍は良しにつけ悪しきにつけ、赤軍派を受け継いだ。
(本に)一つだけ注文があるとすれば、丸岡さんに言及して欲しかったこと。
丸岡さんについては、関西を中心に救援活動をしているが、心臓病でベットに横たわっている。救援の署名とカンパをお願いしたい。」

再び足立正生氏からは
「遍路がわりに刑務所めぐりをしている。重信さんに会いに行ったら、その日に上告棄却。
丸岡さんにも会いに行った。小嵐さんには丸岡さんに会ってもらいたい。
丸岡さんは酸素吸入器を付けて車椅子生活、2週間に1回病院に行っているが、ハイジャックによる超法規措置を取らされたことに対し、検察庁による「早く死んでしまえ」という措置である。
まじめに出している本で面白いものはめったにない。この本を読んで欲しい。
若松さんは残念ながらスケジュールが会わず今日は来られない。」

聞き手である小嵐九八郎氏からは
「丸岡さんについては、刑が確定するとコンタクトが取れない。確定する前に会えなくて残念である。今後、がんばっている生者のことについて、この検証シリーズで3.4巻を出していきたい。」

そして、重信房子さんを支える会、救援連絡センター事務局長、ブント・中核派・解放派・ML派のリーダー的立場にいた方々(神津陽氏など)、元赤軍派の方からのあいさつが続く。
出席者の1人が「新左翼諸党派の中で、歴史の検証に耐えられるのは日本赤軍だけだ。」と話していたのが印象的だった。
こんなメンバーの会合に、ノンセクトで一兵卒だった私のような者が居ていいのだろうかと思った夜でした。

「日本赤軍!世界を疾走した群像」(株)図書新聞発行 2,625円

イメージ 1
慶大編最終回です。図書新聞の記事と当時の新聞記事から慶大闘争を見ていきます。

【みゆき族から新左翼へ 今は自動車誌を編集】2009.6.20図書新聞(引用)
鈴木正文氏(元慶應大学文自書記長)、聞き手は小嵐九八郎氏(作家・歌人)
『(前略)鈴木:それで、68年10月8日の新宿での米タン阻止闘争に赤ヘルメットをかぶって参加したのが、党派活動家になって最初の闘争です。
するとたちまちのうちに社学同の正会員であるかのような扱いになりました。
Sさんの根回しがあったんでしょうね。
東京都の社学同の集まりで、慶應大からの報告をさせられたりとか、議論になれば意見をいったりして、いつの間にか社学同の拠点である明治大学の学生会館に入り浸るようになりました。
10.21闘争では、中央大学に結集して防衛庁にデモをかけました。
一部には新宿闘争に騒乱罪が発動されたため新宿に行こうと主張する人もいましたが、徹底的にここでやろうと頑としていったのがH氏でした。
僕はH氏とともにいました。それで防衛庁の中に突入したんですが、やることがなくて出てきちゃいました。(大笑)
なんか牧歌的なところがありましたよね。

小嵐:なるほど。慶應では、68年、69年はほとんど授業がない状態だったということでしたが、その中で無党派から社学同になって活動されたのですね。

鈴木:そうです。
そのころは党レベルの活動家になっていました。
慶應にもいきましたけど、日吉をベースにしながら、他大学に行くことの方が多かったです。
東大の駒場と明治の和泉でクラス討論を何回もやりました。
その大学で、守衛の人が「鈴木君」と呼んでいましたから、こちらの素性は大学当局も知っていたんでしょう。

小嵐:そして。69年1月には東大闘争の安田講堂死守戦に参加された。安田講堂の5階バルコニーにいて、36時間にわたって催涙弾と放水の制圧攻撃に耐えられました。
その前の年の1月に米原子力空母エンタープライズの佐世保寄港に反対する闘争では、市民の絶大なる応援や、中核派の米軍基地突入を含めて大きな盛り上がりがあり、そこで機動隊による催涙液の放水が社会的問題になりました。
当時の学生運動の参加者はだれもが催涙液で苦しんだ経験がありますよね。水ぶくれややけどがひどかったですよ。

鈴木:僕も1週間寝込みました。最初赤くただれた、しびれが強くて、動けなかったですね。尾久署の九号房に入れられたんですが、そこは阿部定がいたところなんだそうです。(中略)

小嵐:阿部定のことは後になって尾久署を見に行ったんでしょ。

鈴木:そうなんです。その時はともかくずっと寝てました。今でも酒を飲むと、催涙液の跡が赤くなって浮き出てきます。
手首の部分が一番ひどくて、ずっと下に足の方まであるんですが、ズ
ボンやシャツの重なった部分とか靴下の中などに催涙液がたまるために、そのあたりが赤い縞のようになっているんです。
やけどによるケロイドと同じなんです。
刑事は、自分でまちがって火をかぶったんだろうなんて責任逃れをいっていました。

小嵐:僕も佐世保闘争で踝(くるぶし)と膝の裏の所になお跡が残っています。
それにしても、36時間にわたって催涙液を受け続けたんですから、本当に大変だったですね。

鈴木:ええ、でも誰かに頼まれたわけでもないですから、そのぐらいのことですんで、死ななかったのが幸いでした。(後略)』

【120日ぶりにスト解除 慶大日吉 学生大会が採決】1968.11.3毎日新聞(引用)
『米軍からの資金をめぐって無期限ストの続いている慶應義塾大学)の日吉校舎で、2日「日吉学生大会」が開かれ、投票の結果、スト解除を採択、7月5日のスト突入以来、120日ぶりにバリケードを取り除いた。
これで1.2年生約1万1千人の留年問題も回避された。

学生大会は2日午前11時から同校舎日吉記念館前広場で、1.2年生四千余人が集まって開かれた。
日吉自治会執行部がー治会の分裂や一般学生から授業再開などの声が高まっている中で、ストライキをつづけていることは解決にならない▲好肇薀ぅ解除は問題の解決ではなく、あくまでも大学側に対して米軍資金の拒否宣言をかちとるためのクラスやゼミナールでの討論を通して学生の意識を再編成し、学校当局に拒否宣言を要求する、とスト解除案を出し、過半数で採択された。
留年問題を抱えた学生たちは授業再開が決まってほっとした表情。スト解除が採択されると学生たちはスクラムを組んで構内をデモ行進、午後5時半からイチョウ並木に築かれたバリケードを排除した。』

昨年の1月頃、フジテレビ開局50周年企画の番組の中で、東大安田講堂攻防戦が取上げられた。
その時、テレビのインタビューに応じていたのが鈴木氏だった。
番組では、当時の学生運動グッズということで、ヘルメット、タオル、軍手、ヤッケなどが並べられ、司会のビートたけしがそれを身に着けて「闘うぞ!」と拳を挙げていたのを思い出した。

(終)

イメージ 1
前回の続きです。図書新聞の記事と、当時の新聞記事から慶大闘争を見ていきます。
写真は占拠中の三田校舎塾監局(本部)(毎日グラフから転載)

【みゆき族から新左翼へ 今は自動車誌を編集】2009.6.20図書新聞(引用)
聞き手は小嵐九八郎氏(作家・歌人)
『(前略)
小嵐:文学部自治会の委員長になられた?

鈴木:いいえ、たしか書記長とか、そういうものだったと思います。

小嵐:次の年の69年には大学立法が出てきましたね。そのころはどうされていましたか。ブントに入られたのはいつですか。

鈴木:入党の手続きをした記憶はないんです。署名した覚えがないですね。

小嵐:社青同解放派もそうでした。“心意気”で入党です。

鈴木:68年の夏休みにもバリケードを維持するんですが、教師も学生も来ないですから、あまりやることがないんです。
愛塾挺身隊というのが結成されて、ブルジョアの息子たちが素敵なスポーツカーに乗ってバリケードを破りに来たんですけれど、それの警戒ぐらいでした。
議論はずっとしてました。本当の無党派というのは日吉文学会にしかいなかったと思います。みんな真面目で、よく議論して、別に男女交際などもせずに、麻雀もやらずに、礼儀正しくておとなしい学生たちだったです。
ヒューマニスティックな正義感が結集軸だったと思います。僕は大江健三郎がいっていることも賛成だし、サルトルも賛成でした。吉本隆明が好きな人もいました。
和光晴生氏は、映画を媒介にして、日本赤軍に参加することになりますが、文学的な性向の強い学生だったと思います。
(後略)』

【慶大塾監局 26日ぶり占拠解く 反スト派の説得成功】1968.10.4毎日新聞(引用)
『米軍資金導入問題から東京・三田の慶應義塾大学塾監局(本部)を占拠していた社学同系の学生45人(うち女性6人)は、占拠反対派学生が徹夜で背得した結果、4日午前4時半すぎ占拠を解いた。先月9日夜、占拠して以来、26日ぶりである。
同大学では紛争発生以来“話合い解決”を尊重、一貫して話合いの態度を持ちつづけ、医学部中央事務局占拠、教務部占拠もすべて説得により退去させることに成功している。(中略)
占拠派の学生は3日昼開かれた大学当局と全塾自治会の塾長会見打ち合わせに出席したが、この日、スト反対派の学生が塾監局のドアの窓ガラスをこわしたため、留守部隊が塾監局の屋上から牛乳ビン数本を投げた。
このことからトラブルが起こり、占拠派のリーダー2人が同夜遅くまで約300人のスト反対派の学生につるしあげられた。
4日未明にようやく解放されて塾監局内部にはいり、占拠派学生全員が協議した結果、占拠を解いた。
占拠派の学生45人は午前4時すぎ、赤ヘルメット姿で塾監局から出てきた。「米軍資金導入反対」のシュプレヒコールを繰返しながらキャンパス内をデモ。男子学生のほとんどはヒゲがのび、ボサボサ髪、女子学生の衣服もうすよごれている。
いずれも疲労の色をかくし切れぬ様子で、キャンパス内をデモったあと、正門から姿を消した。(後略)』

【慶應大 塾長囲んで“団交” 幕切れは、とんだ暴力ハプニング】1968.10.13毎日新聞(引用)
『米軍資金導入問題で紛争が続く慶應義塾大学では12日午後、学生約三千人が集まって、永沢邦男塾長との“大衆団交”が開かれた。
会場では激しいヤジが飛んだが“つるし上げ”方式にならず、大学生らしい論争が続けられた。
しかし、同10時50分すぎ、討論内容に不満をもつ体育会系の学生約50人が壇上にかけ上がり、十分間にわたって自治会代表になぐるけるの乱暴を働き、永沢塾長や大学首脳は学生や職員にかかえられてかろうじて脱出、自治会代表のけがはなかった。
この日の“団交”は米軍資金の性格と辞退声明を中心テーマに午後2時から三田の西校舎518番教室で開会、大学側から永沢塾長以下常任理事、各学部長ら13人が出席、学生側は全塾自治会の村川浩一委員長代行が代表して「米軍からの資金援助は戦争協力になる」と大学側を追及した。永沢塾長が「資金援助が戦争協力にとながるとは思えない」と反論した。
この間、会場には激しいヤジが飛びかい、騒然としたふんいきに包まれた。
大学側と学生側の議論は最後までかみ合わず、平行線をたどったまま。約9時間後の同10時すぎ、学生側が17日に再び“団交”することなど7項目の要求書を出し、大学側もこれを了承。その他の要求について次回に回答することを約束して、同10時45分、9時間にわたるこの日の団交を終わった。
すると、それまで討論に不満を持ちながら見守っていた体育会系の学生約50人が、どっと壇上にかけ上がり、村川委員長代行ら自治会代表の顔、頭などを素手でなぐった。
村川浩一委員長代行は自治会の学生にまもられ、すばやく脱出、この騒ぎにまきこまれた永沢塾長らも、もみくちゃにされたが、大学教員にだきかかえられ、やっと会場を抜け出し、とんだ幕切れとなった。』

(つづく)

イメージ 1
前回の続きです。図書新聞の記事と、当時の新聞記事から慶大闘争を見ていきます。

【みゆき族から新左翼へ 今は自動車誌を編集】2009.6.20図書新聞(引用)
聞き手は小嵐九八郎氏(作家・歌人)
『(前略)
小嵐:全学ストライキでしたね。入口の警備員室を占拠したとか。

鈴木:日吉キャンパスのイチョウ並木通りはわりと長大なのもで、右側がグラウンドで左側に校舎が六つか七つあるんですが、日吉の場合は塾長のいる所がないんです。
軍事的にいって、ここを押さえればすべてを押さえたことになるという象徴的な施設がなかたんです。
そのために、正面の門の所にバリケードを張ったんです。
ところが、日吉駅を降りるとすぐ慶應があるんですが、駅から見て右側はずっとグラウンドです。一般の人も通る歩道になっていて、そのままずっと行くと日吉高校になります。
日吉高校はストライキには関係ないから、高校の生徒が通る通路は確保しながら、でも大学の構内には入れないようにしなければならない。
そのため、側面をずーっとバリケードを築いてふさがなければならない。
ですから非常に長大なバリケードが構築されたんです。(筆者注:写真は毎日グラフから転載)
そういうわけで、門の脇にある警備員室に僕ら文学部の一年生たちが詰めて、出入りのチェックと誰何をしていたんです。

小嵐:なるほで。ストライキ闘争は楽しかったですか。当時は政治党派がいろいろいたと思いますが。

鈴木:やはり、刺激があって楽しかったですね。セクトもさまざまにあって、日吉自治会の委員長はフロント(統一社会主義者同盟)で、フロントが指導的な党派でした。
そこに中核派のK氏がいて、反主流派だったんですが、すぐ後に主流派になっていくんです。社会主義青年同盟解放派や統一ブント(社会主義学生同盟)のマル戦派(マルクス主義戦線派)もいました。
その他に共産党がいました。毛沢東主義のML派、それと革マル派はいませんでした。
僕たち文学部は無党派でした。日吉は1年生しかいないんです。2年生になると三田に移るんです。1年生は政治的にあまりにひよわでした。自治会委員長はY氏がやっていたんですが、党派からのオルグがかかっていました。
僕はブントになるんですが、最初のころは中核派にシンパシーを感じていました。
全学連委員長の秋山勝行氏が日吉に演説に来たんです。
彼は労働者人民には革命権がある、武装権があるんだといったんです。当たり前のことではあるんですが、そうだと思いましてね、シンパシーを感じました。(後略)』

【慶大三田校舎も占拠 社学同】1968.9.10毎日新聞(引用)
『米軍の資金援助問題でもめていた慶応大学の三田校舎内の塾監局が、10日午前零時半ごろ、社学同の学生130人に占拠された。
大学当局者によると、学生はヘルメットと角材で“武装”し、ヘイを乗越えて乱入したという。
同大学の日吉本校では、7月以来無期限スト中で、11日からの授業再開を前に、学生たちの間で主導権争いが激しくなっていた。
社学同系は5日、三田校舎もスト体制を確立するよう働きかけることを決めていた。』

【占拠学生を逆封鎖 慶大塾監局 水道もとめる】1968.9.24毎日新聞(引用)
『慶応大学では大学側がさきに塾監局(本部)を占拠中の社学同系の学生に対し、24日午後6時までに退去せよと勧告していたが、時間切れの同時刻ごろ塾監局のまわりにロープを張り、水道をストップするなど“逆封鎖”の手段をとり始めた。
午前6時前から塾監局に面した中庭に、永沢塾長をはじめ常任理事、各学部長、教授ら約150人が集まり、無言のまま内部の占拠学生の動きを十数分見つめていたが反応はなし。永沢塾長は苦悩の表情で「出てこないね」と一言。
そのときはそのまま引揚げたが、午前7時すぎには「塾監局を占拠し、数度にわたる退去説得をも無視した一部学生の行為は許しがたい。大学は24日以降塾監局の立入りを一斉に禁ずる措置をとる」との塾長告示を出した。
このあと占拠学生が出入りできないよう周囲にロープを張り、さらに水道を止める手段に踏切った。
これに対し、占拠中の全学闘争委員会は「われわれの要求である米軍資金の拒否宣言獲得と大衆団交の開催が受入れられるまで占拠を続ける」と長期戦の構えだが、水道のストップで食事も満足にできなくなり、占拠体制にどう影響するか、注目される。
また大学側は全塾自治会の村川浩一委員長代理に「大学は16.18.21日の3回にわたり公聴会開催について申し入れたが、返事がなかった。
一般学生が署名を集めて学生大会の開催を要求しているのに、まだ責任ある回答がない。二つの会を開催するのか、24日午後5時までに回答を求む。
回答なき場合は、全塾自治会はその責任を果たし得ないと考える」と申入れ、告示を出した。(中略)
この告示は大学側が全塾自治会のほかに新しい自治会を作るための“呼びかけ”をしたものとみられる。』

(つづく)

↑このページのトップヘ