
No148の続きです。
10月4日の授業再開に向けた全学集会は、全共闘の阻止行動により流会となったが、佐藤訪米阻止に向けた10.11月闘争を前にした10月9日、大学側は駿河台、和泉、生田の各校舎に機動隊を導入してバリケードを排除、ロックアウトした。
駿河台の本校では、大学院に社学同、ML派、反帝学評、中核派の7名が立て篭もり、徹底抗戦を行なったが、全員逮捕された。(写真は明大新聞から転載)
【神田最後の拠点、明大手入れ 百余日ぶり封鎖解除】1969.10.9朝日新聞(引用)
『警視庁は9日午前6時半、紛争中の明治大学からの警官隊導入要請で、約二千人の機動隊を動員、東京・神田駿河台の本校と杉並区和泉校舎の両キャンパスの封鎖解除を行なった。
駿河台の大学院校舎ではたてこもった7人の学生が“徹底抗戦”を叫んで、火炎ビンを投げながら抵抗したが、わずか30分で不退去罪、凶器準備集合、公務執行妨害、傷害などで全員が検挙され、他の校舎は抵抗もなく封鎖を解除した。(中略)
大学当局はこのあと両キャンパスをロックアウト、10.10集会を前に過激学生の神田地区拠点は一掃された。
午前6時半、約千人の機動隊員が小川町から国電御茶ノ水駅までの駿河台通りの交通を止め、超高圧放水車を先頭に明治大学を包囲した。
前夜泊まり込んでいた約20人の学生は、9階建ての大学院校舎に決死隊7人だけを残し、学外に姿を消していたが、正面にイス、机でバリケードを築いていた。
午前6時35分ごろ、屋上にいた赤ヘルメットの学生が、いきなり火炎ビンを駿河台通りに投げつけたのをきっかけに、あちこちの窓から一斉に火炎ビンが飛んだ。
これに対し、機動隊は大学院校舎内の貴重な資料を傷つけないため、催涙弾だけで応戦した。
高圧放水車が前面に出ると、学生は空ビンにはいった硫酸らしい劇薬を投げつけ、放水車に乗っていた隊員ら4人が劇薬を頭からかぶり顔面などにヤケドした。
第一機動隊などが正面攻撃で学生たちを駿河台通りに引きつけている間に、大学院裏の文学部校舎から第二機動隊員が突入、階段のバリケードを取除きながら屋上に迫った。
屋上にいた学生は一段と高い塔屋の上に立てこもり、スクラムを組んでインターを合唱したが、抵抗の気力はなく全員が両手をあげ簡単に“降伏”した。この間。わずか30分足らずだった。
その他の校舎も、機動隊員がバリケードを排除、このあと大学側作業員の手で、ヘイが造られ、ロックアウトされた。
同大学は6月20日「大学立法反対」などで全学封鎖され、過激派学生の最大拠点となっていた。
闘争のたびに、反日共系学生たちが同校に立てこもり、街頭に出ては激しい行動を繰返し9.30事件でも約二千人の学生を集め、大量の火炎ビンを校舎内に持込んで武器庫とし、神田地区でゲリラ戦を展開した。
このため、警視庁は、17回にわたって大学側に警告、校舎の管理を厳重に行なうよう申入れた。
中川富弥学長も「10.10で明大が拠点となり、神田戦争が予想されるだけにこれを放置しておけば大学周辺の市民生活に多大な損害を与えることになる」と警官隊を導入した。
また、警視庁公安部は明大和泉校舎についても9.30日大闘争事件と9月1日の通行人暴行事件で捜索したが、学生側の抵抗はなかった。
駿河台、和泉両校舎で押収された証拠品は次のとおり。
試験管145本、竹やり17本、火炎ビン5本、ガソリン3缶、角材260本、鉄パイプ45本、ヘルメット79個、空ビン54本、薬品(過酸化水素、エーテル、ベンジン、塩酸、クロロフォルム、アンモニア各1本)など683点。
【川崎】
川崎市生田の明大校舎は学生部廃止など六項目を要求する反日共系学生により、6月17日から第一校舎の農学部、第二校舎の工学部とも封鎖されていたが、大学側の要請で9日午前7時すぎ、神奈川県警機動隊員ら五百人が出動、封鎖を解除した。(後略)』
【当局全学をロックアウト】1969.10.16明治大学新聞(引用)
『<ロックアウト粉砕でデモ>
この大学当局のロックアウトに抗議する全共闘系の学生は9日、立教大、慶應大などに泊り込んでいた学生も含め、約200人が、神田淡路町公園に午前10時ごろ集合したが、待機していた機動隊に規制され、同地下鉄駅構内に結集した。
その後小川町校舎前に集まり、本館前をデモ行進したが直ちに機動隊のサンドイッチ規制をうけて「ロックアウト粉砕」を叫びながら医科歯科大わきの聖橋公園まで行進、そこで集会を開き、昼過ぎに解散した。(後略)』
10月9日の機動隊導入を受けて、翌日の明治公園で行われた「ベトナム反戦・安保粉砕・沖縄闘争勝利・佐藤訪米阻止」10.10集会には、明大全共闘で2,000名の学生(明大新聞による)が参加、集会・デモ参加者数としてはバリスト以来最大規模となった。
(つづく)