野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2010年12月03日

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全国学園闘争シリーズの9回目は関西大学。
関西大学は1886年に創立された関西法律学校を起源とする大学で、1922年に大学令に基づく旧制大学となった。
関西私学を代表する「関関同立」(関西、関西学院、同志社、立命館)の一つである。
この関西大の様子が、朝日ジャーナルの「学園ハガキ通信」に載っているので見てみよう。

【学園ハガキ通信】朝日ジャーナル 1969.8.3号(引用)
『関西の日大闘争 <関西大>
6月20日以来全共闘に封鎖されていた関大本部は機動隊導入により7月5日解除された。
この全共闘の闘いは関大の学内支配体制=右翼ファッショ的支配体制(体育会応援団の学内機動隊を駆使して意識的学生を暴力的に抹殺)=大学立法の先取り的体制を打破する闘いであった。
まさに関大80年とは、裏をかえせばそのような血にぬられた暗黒の歴史なのである。
それを端的に示すのが次のような事件である。
登校の電車内で「朝日ジャーナル」を読んでいたところ、関大前駅に降りたとたん一緒に乗り合わせていたらしい体育会系学生3人に取囲まれた。
そして全共闘か?学生証を見せろ(持っていなかった)とか何の権利もないのに高圧的に胸ぐらをつかみながらいい、違う、一般学生だと答えると(はっきり言え、体育会本部で調べたらわかる。全共闘やったら命ないものと思え、関大体育会をなめるな)などとならべたてた。
結局三発なぐられただけで“釈放”になったが、捨てゼリフに、赤がかった本読んでたら一般学生でも2,3発なぐられても文句言えないぞとおどかして帰っていった。
まさにこの言葉こそ関大80年そのものをあらわしているといえよう。』

関西の日大闘争という「学園ハガキ通信」への投稿を受けて、翌月の朝日ジャーナルに関西大のルポ記事が載った。

【苦悩する個別学園闘争 関西から】朝日ジャーナル 1969.9.21号(引用)
『日大ミニチュア版 関西大
しばらく前の本誌「学園ハガキ通信」欄で「関西の日大闘争」と題した記事をご記憶でしょうか。
電車の中で右翼学生におどされた学生の話です。だからボクも日大闘争のイメージを頭にえがきながら関大へむかいました。
が、千里山のキャンパスについてまずびっくりしたのは、その広々として見晴らしのいいことで、この点では全国の大学の中でも十指に入るのではないでしょうか。
キャンパスなしの校舎にぎゅうぎゅう学生をつめこんでいる日大とは、全然様子が違いました。
全共闘の学生がたむろしている建物はすぐわかりました。三階の窓からハシゴで出入りしていたからです。
7月5日、機動隊が入って全共闘が封鎖していた関大会館は解除されたのですが、その後、誠之館(学生会館)、法・文研究棟、社研究棟を封鎖して現在にいたっています。
学生たちの話いろいろ聞いてみますと、たしかに日大闘争を小型にしたような点があります。
関大でも前近代的な学生支配の制度の告発が闘争の基調になっています。
ビラや集会の届け出制などを定めた学生規則の撤廃が5項目要求のはじめにあげられています。
もっとも関大の学生支配構造は日大ほど露骨ではありません。
学生が学生を支配するという構造になっており、その意味では日大より巧妙なのかもしれません。
6学部の自治会の上部機関として各自治会やサークルの予算の配分を牛耳っている中央執行委員会があります。
学生投票で選ばれた中央委員会のメンバーで構成されるのですが、その選挙がいままで相当インチキなものだったらしいのです。
投票時間も短時間、場所も1ヶ所に制限、体育会、サークルなどの組織票だけが入るような仕組みになっていたそうです。
こうした不正選挙をめぐる闘争が昨年来続き、商、文、社会学部の自治会などが中心となって、中執の支配から完全に離脱しようという動きがあったのです。
ことしの4月、大学立法反対をひとつのバネに、関大でも新しい学生の自治体を創設しようとする動きが活発になり、それが6月14日に6学部闘争委員会(後に関大全共闘)による大衆団交要求という形に発展したわけです。
大学側はもちろん拒否、6月20日の第2回目の申し入れも拒否、その日に関大会館を封鎖という形にエスカレートしました。(次回につづく)』

【キャンパス情報】毎日新聞 1969.6.21(引用)
『関西大
体育会系が学生組織を牛耳っていたが、学内民主化を叫ぶ反日共系学生たちが20日、全共闘を結成、理事長室や本部事務局などがある大学会館を封鎖した。同大学では、今年二月にも反日共系学生が社会学部学舎を封鎖したが、こんどは反体育会感情をむき出しにした紛争で、今後学生どうしの衝突が心配される。』(写真は毎日ムックから転載)

(つづく)

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前回の続きです。
6月20日に関大会館を封鎖した全共闘は、翌日一旦撤退したが、6月22日、再度封鎖に踏み切る。(写真は毎日グラフから転載)

【関西大再び騒然 全共闘、体育会系とこぜり合い】毎日新聞 1969.6.23(引用)
『封鎖さわぎが一段落したばかりの関西大学で22日朝、再び全学共闘会議派の学生が関大会館を占拠、表にバリケードを築いてたてこもり、封鎖に反対する体育会系学生と深夜までにらみあった。
このため大学側は緊急部局長会議を開き、両派が衝突したときは、警察の出動を要請することを決めるとともに、実力行使を避けるよう説得をつづけた。
全共闘(文、社会、商三学部自治会と五学部闘争委員会で組織)は21日午後7時すぎ、バリケード封鎖中の関大会館から自主的に撤退、姿を消したが、22日午前10時ごろ、“外人部隊”を含め約150名のヘルメット学生を動員、会館を再占拠した。
このあと全共闘は会館前の広場に立てカンバン、机などでバリケードをつくり、館内に角材、鉄パイプ、石などを持込み、さらに小型トラックで食料を運び込んで長期封鎖の体制にはいった。
一方、体育会、文化系の学生約500人も約400メートル離れた体育館やサークル館3ヶ所にたてこもり、通路にバリケードを築いてにらみあった。
両派の学生は夜にはいってから再三鉄パイプなどをふりかざしてこぜりあいを繰返した。』

【キャンパス情報】毎日新聞 1969.6.24(引用)
『機動隊導入を決議
<関西大>全共闘(反日共系)が大学本部を封鎖しているが、学友会執行部(体育会系)は23日、全学集会を開き「機動隊導入を大学側に要請する」と決議した。
全学集会は約五千人の学生が参加、杉原四郎教学部長、桜田誉学生部長らも出席した。
全共闘はこの決議に強く反発しているので、紛争はいっそうこじれそうだ。』

【苦悩する個別学園闘争 関西から】朝日ジャーナル 1969.9.21号(引用)
『日大ミニチュア版 関西大
(前回よりつづく)このときの学内の右翼勢力と全共闘のゲバでは日本刀が登場するなど日大的なシーンがあったらしいのです。
このあたりから、いくつかのサークルが続々学友会離脱を宣言するなど、中執による支配体制が事実上崩壊をみせはじめるのです。
一方、大学側の内部はバラバラで、法、文、商の教授会は機動隊導入に反対の決議をするしまつ。
日大ともっとも違うのは古田会頭的な人物が関大にはいないことかもしれません。
結局、中谷敬寿学長、桜田誉学生部長ら執行部は8月30日に辞表を提出してしまいました。
9月8日、法、経など一部授業再開の動きが出はじめましたが、全共闘は妨害戦術に出ており、まだまだ情勢は混沌としています。
ところで関大は万博会場に近く、学外では関大闘争が万博反対にどう結びつくか、関心のまとなのですが、学生たちは、基本的には反対していてもさて具体的にどうするかということになると相手がでかすぎて・・と苦笑していました。』

闘争とは直接関係ないが、万博に関連して新聞にこんな記事が載っていた。

【関大全共闘、手配師に食われる】毎日新聞 1969.8.14(引用)
『万博工事 保釈金かせぎ二百人タダ働き
逮捕された学友たちの保釈金をかせぐため。関西大学全学共闘会議の学生たち延べ228人が、24日間も万国博の国連館建設現場で働いた。
ところが、いっこうに金を払ってくれず、全共闘で調べたところ、この仕事をあっせんした手配師が金を持ち逃げした疑いがでてきた。
学生たちが働いたのは熊谷組の下請会社、柏田工務店の建設現場。全共闘のメンバーの1人N君=社会学部三回生=が国鉄大阪駅で手配師の「西田」という男から「万国博会場でいい仕事がある」と持ちかけられ、仲間と相談した結果、逮捕された学友の保釈金や闘争資金に使う目的で、全共闘あげて働くことを決めた。
学生たちがこの話に乗ったのは、日給2,300円(食事付き)という条件だったためで、口約束だけでとびついた。
全共闘は封鎖中の同大学社会学、法文研究室に泊まり込んでいる学生たちを、先月18日から毎日平均10人、柏田工務店に派遣、万国博会場内で土運びやアナ掘り作業をした。
給料日の今月10日、学生が柏田工務店に給料をもらいに行ったところ、日当は手配師が約束した1日2,300円ではなく1,100円と半額で、しかも食事代(350円)を差引いて、たったの750円という説明。
この抗議で寝耳に水の柏田工務店社長、柏田定利さんが調べたところ、先月分の給料は、すでに会計係から手配師の「西田」に支払われていることがわかり、保釈金も皮算用に終わりそう。
自分たちが汗を流した国連館の壁に「万国博粉砕」と書きなぐったのが精いっぱいのウサ晴らしだった。』

(終)

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